E レンジャーの少女

 体の上を何かが這うような感覚に、エルバは夢の世界から引きずり出された。

 気付くと掛け布団がなくなっており、驚いたエルバはベッドの上に肘を立てて上体を起こした。


「何?」


 呟いてから寝ぼけ眼で周囲を見回すと、木目の浮いた床の上にゾーイが座っていた。

 ちょうど咥えていたエルバの掛け布団をぺっと放るところで、悪いことをしたとはまったく思っていないような平然とした顔をしている。


「ゾーイ」


 エルバは精一杯、声に怒気を込めたが、ゾーイはどこ吹く風。

 その場に腹をつけて座り、ぺろっと舌を出す。


 エルバはため息をついて窓の方へ目を向けた。

 そよ風に揺れるカーテンの隙間からうっすらと光が差し込んでいる。

 壁に掛かった色時計は早朝を表すライムグリーンだ。

 

 先ほどまで見ていた夢の内容は、もう頭の中から去っていた。

 なんとなくだが、何かを追っていたような気もする。


「起きるか……」


 エルバは起き上がって、床に広がった掛け布団を拾ってベッドの上に放り投げた。

 ゾーイは尻尾を振りながら、それを眺めている。

 エルバが部屋を出ようとすると、ゾーイが先導するように先に敷居を跨いだ。


 ゾーイは青みがかった銀色の体毛を持つ美しい雌の狼だ。

 瞳は見る者の心を見透かすような金色。

 心なしか普通の狼より大きいような気がするが、飼育下にある個体は栄養状態が良いからだろうと、あまり気にしていない。


 ゾーイは何か用があるとき、足の裏を舐めたり、顔に尻尾を当てたりして人を起こす癖がある。

 今日のように布団を奪っていくこともある。

 そんなときは抵抗しようとしても無駄なのだ。

 叱ったって気にしてないに違いない。

 起きるまであの手この手を用いてくる。


 洗面台の前に立って鏡を覗き込んだ。

 眠そうな自分の顔が見返してくる。

 ブラシを取って髪を梳くと、絡まっているらしく肩の辺りで止まった。

 長い豊かな黒髪はエルバの自慢だった。

 この辺りの同年代の女の子たちの中には、エルバのような光沢を放つ真っ直ぐな髪の子は少ない。

 だからこそ、粗末には扱えなかった。

 

 ゾーイがホホバオイルの入った容器を咥えて持ってきてくれる。

 ホホバオイルは髪にも肌にもいい。


「ありがと」


 礼を言って、オイルを受け取った。

 髪の絡まった部分に適量をしみ込ませ、手で梳くとさらりと流れる。


 ゾーイは本当に頭がいい。

 人の言葉を理解し、行動を予測し、感情を読み取る。

 知らない人の言うことは聞かず、不服なことには絶対に従わない。

 それでいて、寂しいときは傍に寄り添ってくれる。

 ペットというよりは、心の通い合った友に近い感覚だ。


 ゾーイの先導についてダイニングに入ると、おじいちゃんが木の卓に新聞を広げて読んでいた。

 おじいちゃんは朝が早い。

 それを老人だからだと言うと怒る。

 

「エルバ、今日は早いな」


 おじいちゃんは顔を上げてエルバを見た。


「おはよ、おじいちゃん」


 エルバは足を止めることなく、ダイニングに併設されたキッチンへと向かう。

 冷蔵庫を開けて庫内を向いたまま声を張った。


「卵でいい?」


「ああ、ちょうどよかった。エルバ」


 何がちょうどいいのか?エルバは祖父を振り返る。

 祖父は目尻の皺を深めて笑みを浮かべていた。

 面倒事を言い出す時の顔だった。

 嫌な予感しかしなくて、エルバは眉をひそめる。


「そんな顔するな。まだ何も言っとらんだろう」


「おじいちゃんの顔に書いてあるもん」


「仕事だ、仕事」


「絶対、面倒なやつでしょ」


「仕事は仕事だ。面倒も雌鶏もない」


「全っ然、面白くないし」


「笑わせようと思って言ったわけでもねぇ。まったく、そんな可愛げがねぇから、男の子が寄ってこんのだ」


 おじいちゃんは最近、すぐにこう言ってエルバをかちんとさせる。

 周囲の女の子たちが続々と彼氏を作っていく一方で、置いてけぼりを食らっているのは事実だから、言い返すことが出来ない。


「仕事って、何?」


 険を込めた声で話の軌道修正のために尋ねると、おじいちゃんは満足そうに口の端を上げて笑った。

 腹が立つ。


「ちょっとひとっ走り、ミスター・ナルバエスのところまで行ってくれねぇか?」


「えー、ヤダよ。あの人、やなやつだもん」


 エルバはコップに牛乳を注ぎながら答える。


「どうやら、家に泥棒が入ったとかでな。仕事だよ、仕事。頼むよ、エルバ」


 エルバは少しの間、黙り込んだ。

 仕事と言われればやらざるを得ないが、すぐに引き受けたのではこちらの気持ちが収まらないというものだ。


「……分かったよ、仕方ないなぁ。もう」


 卵が焼き上がってから、エルバは答えた。

 焼けた卵を少し乱暴に皿に移す。


「悪いなぁ、エルバ。助かるよ」


 エルバは返事をしなかった。

 嫌だけど、やってあげる。それが充分に伝わったことだろう。




 エルバは再びゾーイの先導の下、集落からほど近い森の小道を歩いていた。

 初夏の朝陽の下、木々が気持ちよさそうに緑の葉を太陽に向かって伸ばしている。

 樹齢何十年にも及ぶ大樹たちの太い幹には、無数の蔦が絡まって樹皮が見えないほどだ。

 人の手が入った道の上にもくるくるした蔦が這い出ている。

 そろそろ整備作業を頼む頃合いだろうか。


 エルバが生まれてから現在に至るまで住んでいる小さな集落は、名をリンダという。

 周囲をヴェルデ大森林に囲まれており、村人たちの暮らしも森に深く根付いている。

 

 エルバはレンジャーだ。

 リンダの集落の近辺の森を護る役割を担う。

 それが転じて、今では集落の自警団のような役目も負っている。

 エルバのおじいちゃんはレンジャーの長で、エルバはそれをひっそりと誇らしく思っていたりする。


 これから訪れるミスター・ナルバエスの住居は、厳密にはリンダの集落の外に位置する。

 そのため彼はリンダの住人ではないが、何かあるとレンジャーを頼ってくるのだ。


 やがて森がひらけて、白い支柱に支えられた立派な門が見えてきた。

 宮殿のような外観の屋敷が門の奥に自らを誇るように建っている。

 これこそ、ミスター・ナルバエスの邸宅だ。

 

 門をくぐると、前庭の中央にある銅像が出迎えてくれた。

 右手を腰に当て、左手にサッカーボールを抱えた青年の像だ。

 ミスター・ナルバエス本人の輝かしき時代の姿である。

 彼は元サッカー選手で、エルバがまだ小さかった頃、かなり稼いだスーパースターだった。

 

 インターホンを押して訪ねるまでもなく、ミスター・ナルバエスは玄関の前に、まさに銅像のように腰に手を当てて立っていた。


「これは、また!」


 大袈裟な仕草で頭を抱えてよろめいてみせる。

 若い頃とは打って変わって肥えたその体型は、素晴らしい経歴を持つアスリートであることを過ぎ去りし時代のものと物語る。


「わたしも低くみられたものだ。おさげの田舎娘を送って寄越すとは!」


 ミスター・ナルバエスはエルバのもとまで歩み寄って来て、エルバのおさげ髪を手に取って盛大なため息をついた。

 エルバは最近、髪を三つ編みすることに凝っていて、お気に入りは二房に分けて左右に垂らすスタイルだ。


「それに犬だ!」


 ミスター・ナルバエスはゾーイを汚らわしいものでも見るように言って、エルバのおさげからやっと手を放した。


「ミスター・ナルバエス。物盗りが入ったと伺いましたが」


 エルバは募る苛立ちを抑えて事務的に尋ねる。


「そう、そうだ。昨日の夜。寝ている間にやられたらしい。金をな。

 まあ、わたしにとってははした金に過ぎんが、持っていかれたのだ。

 まったく、警備はどうなってる。

 おたくらはなんのためにレンジャーなんてやっておるのだ」


「未明から早朝にかけての犯行。盗まれたのは現金だけですか」


「ああ、そうだ。そう言っとるだろう」


「金額は?」


「さあ、五百万くらいか?わたしにとっては、はした金に過ぎんが」


 ミスター・ナルバエスははした金の部分を強調するように言った。

 もちろん、エルバにとっては、はした金といえる金額ではない。


「現場を見せていただいてもよろしいですか?」


「それはならん。わたしは被害者だぞ!

 何故、被害者のわたしが田舎の小娘を家に入れねばならんのだ」


 予期していた反応に、エルバは説得を試みようとも思わなかった。

 ミスター・ナルバエスはかねてから頑なに自邸の中に他人を入れようとしないのだ。

 これだけの豪邸に使用人もなく、たった一人で住むこの男は、嫌みな上に大層な変わり者なのである。


「心中、お察しします。

 それではせめて、監視映像の提出だけでもお願いできませんか」

 

 エルバは表情も声音も、あくまで事務的にと努める。

 へりくだるのは猛烈に癪に障る。

 だからといってこの男に対して高圧的な態度を取ろうものなら、臍を曲げてしまって言うことを聞いてくれなくなるだろう。


「それならここにある」


 ミスター・ナルバエスはポロシャツの胸ポケットから、薄い青の小さな細長い記録装置を取り出した。

 コンピュータに接続すれば、記録してある画像や動画が見られる便利なものだ。

 用意していたなら早く出せとエルバは思うが顔には出さない。


「ありがたく頂戴いたします」


 エルバは無礼に取られないよう、両手で小型の装置を受け取る。


「渡したぞ。ちゃんと捜査しろよ。

 さあ、もうお前などに用はない。帰れ帰れ」


 ミスター・ナルバエスは手でしっしっと、追い払うような仕草をした。

 エルバは目礼を残してその場から立ち去ろうと踵を返す。


「愛想のない小娘だ。可愛げのない」


 帰り際に背後でそう吐き捨てられた。

 さすがに無表情が過ぎたのだろうか。

 だが、自分が礼を失しておきながら相手に礼を期待するなんて、そもそも間違っているのではないか。

 それが若年者に道を示すべき、年長者のふるまいだろうか。


 エルバの脇にいたゾーイが、鼻からふん、と音を鳴らして急に駆け出した。

 エルバは歩く速度で緩慢にそれを追う。

 しかしゾーイが走る勢いのまま、前庭中央の銅像に駆け上がったので慌てた。


「ゾーイ、何してるの!」


 エルバは大きな声を出さないように注意しながら、銅像のもとに駆け寄った。

 振り返ってみると、ミスター・ナルバエスは屋敷に戻っていくところで、幸いにもこちらに気付いてはいない。


「ゾーイ、降りてきなさい!怒られちゃうでしょ!」


 ゾーイはエルバの声を無視して、サッカーボールに前肢を置いた。

 後肢はミスター・ナルバエスの肩から頭の部分にかかっている。


 何をするつもりなのか、エルバが戦々恐々としている目の前で、ゾーイは勢いよく放尿した。


 黄みがかったシャワーが、ミスター・ナルバエスの過去の栄光の頭上から振り撒かれた。

 雨も降らない晴天の中、銅像を上から濡らし、鼻先からぽたぽたと雫を滴らせ、台座に到達して染みを作った。

 

 エルバはぽっかり口を開けて一部始終を見守っていた。

 用を足したゾーイは銅像から降りて、何事もなかったかのように後肢で首筋を掻いている。

 

 エルバはおそるおそる振り返ってみた。

 ミスター・ナルバエスの姿は見えない。屋敷に戻ったあとらしい。


「帰るか。ゾーイ」


 声を掛けると、ゾーイは得意げに首を逸らして鼻先を空に向けた。

 エルバはゾーイの頭を撫でてやる。

 忠犬を褒め称えるような、決して褒められるようなことをしでかしたわけではないのだけれど、不思議とそんな気分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る