H 怪盗ジャガー

 月が雲間から顔を覗かせても、この街にその薄明かりは届かない。街自体がぎらぎらとした輝きを放ち、夜でも昼間のように通りを繕っているからだ。いやむしろ、昼よりも夜の方が、ギトギトと脂ぎって見えるかもしれない。行きかう者たちは欲望を剥き出しにし、強欲に肥え太っていく。


 この街に静謐な美しさは似合わない。


 ヒューはビルの屋上で風に吹かれていた。夏になっても、海沿いの夜の町の風は冷たい。ヒューは寒いのは嫌いだ。このままここにいれば、寒さで参ってしまうかもしれない。


 首に巻いた薄手のストールをもう一巻きして口元を隠す。大した防寒にはならない。


 体を震えが走った。目元を隠す黒いマスクを装着する。月が薄雲に呑まれる。遠くの通りの方から酔漢の喧騒が聞こえてくる。


 準備は万端だ。


 ヒューは駆け出した。ビルの屋上の端から端へ。助走をつけて踏み切って、思い切り飛び立つ。目指すは眼下に広がる悪趣味な屋敷。ピンクのライトで四方八方から照らし出された、馬鹿が住んでいるとしか思えない邸宅だ。


 ヒューの足の爪先は目的の窓をまっすぐに突き破った。派手な破砕音のあとに耳障りな警報音が鳴り響く。ヒューは体を震わせて、破ったガラスの欠片を振り払った。


 ひとまず侵入は成功だ。すぐさま右手へ体を向け、低い姿勢をとって駆け出した。間取りは頭に入っている。どちらへ向かえばいいかも、すでに把握済みだ。


 下のフロアにひとけがあることには気づいていた。警報音に交じって怒声が聞こえてくる。警備の者たちがこちらに向かってきているのだろう。


 ヒューは走りながら左右の手に短剣ダガーを二振り具現化した。逆手さかてに握るのがヒューのスタイルだ。相棒は、扱いにくいだろうと苦言を呈すが、こちらの方がしっくりくる。


 階段に足を踏み入れてすぐ、視界に人が入ってきた。


「いたぞ!」


 人間は叫ぶと同時に、躊躇いなど微塵もなく銃を発砲してくる。生け捕りにしようなどという発想はどこにもないらしい。乱暴なやつだ。


 ヒューは前へ進む足を止めることなく、右手に握ったダガーを冷静に振った。前腕ほどの長さの刃はヒューに襲いくる凶弾を真っ二つに裂いて、殺傷力を削いだ。相手は銃の名手には程遠いらしく、続く二発目三発目は標的を外れ、壁や天井を貫いて終わった。


 まったく恐れるまでもない。


「二振りの短剣?まさかブラックパンサーか?」


 階段の踊り場で銃を構えた男がそう喚いたと同時に、ヒューは残った段差をいっきに飛び降りていた。


「ご明察」


 男の目の前にしゃがんだ姿勢で着地し、左手のダガーで切り上げる。男の持った銃は銃身を落とされ、用を為さないただのモノと化した。呆然としている男の膝に、すかさずヒューは蹴りを見舞う。男は体勢を崩し、ただの筒となった元銃身と同様、床に転がった。


 苦悶の叫びを漏らす男に一瞥もくれず、ヒューは駆け出した。


 警備の者たちが幾人も躍り出てくるのを慰み程度に切って捨てる。遠くから撃ってくるだけの者には、誰かが落とした銃を拾って撃ち返した。銃の心得はないのでちゃんと当たったかどうかは分からないが、威嚇くらいにはなったろう。


 階段を下って下って下り続け、やがて窓のないフロアに辿り着いた。人の到来を感知したらしく、ぱっと電灯がともる。侵入者であるにも関わらず、歓迎してもらったようで嬉しくなる。まっすぐに通路を突き進み、目的の部屋の前に辿り着いた。


 取っ手も鍵の差込口もついていない扉は、電灯に照らされて白くつやつやと輝いていた。その手前に黒い四角形の装置が置いてあって、小さな赤い丸のランプがともっている。指紋認証装置だ。最新式とはいえないが。


 ヒューはダガーを消失させ、ボディバッグから薄い膜を取り出した。それを右の人差し指にかぶせて認証装置にかざしてやる。ピーッと電子音がして赤いランプが緑色になった。固く閉じられていた扉が、左右に割れるように開いていく。


 機械に受け入れてもらった瞬間。その胎内に招かれる瞬間。ヒューはこの瞬間が好きだ。腹黒い主人と同一人物として認識されるのはやや不快ではあるが、それはまあ仕方ない。


 室内に足を踏み入れる。やけに縦に長い部屋だ。最奥に、真っ赤に燃えるように輝く宝物がある。これこそ今夜の標的だ。速足で歩み寄っていき、赤い高貴な果実をもぎ取った。


 世界に一つしかないと言われる〈聖獣の涙〉。ヒューの目にはただの赤くてでかい宝石にしか見えない。


 背後から近づいてくる足音には気づいていた。あれだけ派手に暴れたのだから、警備兵がこぞって集まってくるのは当然だ。しかもここは窓もない地下階の行き止まり。袋の鼠である。


 ヒューはボディバッグの中に〈聖獣の涙〉をぽいと放り込んで、静かに目を閉じた。


「ブラックパンサー。とうとう貴様もくたばるときが来たな」


 澄んだ高い声が宝物庫に響いた。ヒューはぱちっと目を開き、降参を示すようにゆっくりと両手を挙げる。


「動くな、猫野郎!」


 半身ほど振り返ったところで止められた。ヒューは薄く笑みを漏らす。


「綺麗な声で汚い言葉を吐くおねーさんだな」


「黙れ、薄汚い猫風情が。その可愛い猫耳、貫いてやろうか」


 ヒューは返事する代わりに、尻尾をゆらりと揺らしてやった。


「見えるか、ブラックパンサー?」


 集まった警備兵の中央に立つ声の綺麗な女が、大型の銃のようなものを掲げ持った。


「天下の大義賊ブラックパンサーは可愛い猫ちゃんだっていうからな。音波銃だ。貴様ら獣人には効果覿面だろう?どうした、怖くて声も出ないか?そら、鳴いてみろ、猫ちゃん。にゃーにゃーにゃーってな」


 綺麗な声の主が発する猫の鳴き真似はお世辞抜きに見事で、ヒューはにんまり笑ってしまう。


「なんだ、何がおかしい」


 綺麗な声に怒気がこもる。


「いや、あんたみたいな綺麗な声のおねーさんに、にゃーにゃーなんて言われると、あそこがおっ勃っちまいそうでね。どうだ、場所変えてこれから一発やらないか?」


 綺麗な声のおねーさんの顔にぱっと朱が走った。存外、ウブなおねーさんだったらしい。


「獣人がっ。人間様をなめるな!」


 ウブなおねーさんが音波銃の銃口をこちらに向けた。と、同時にヒューは呟く。


「【球電サンダーバード】」


「うわっ」


 ばちばち音をたてて現れた球電が、おねーさんの持つ音波銃に炸裂した。おねーさんは苦鳴を上げ、自慢の音波銃を取り落としてしまう。


 ヒューはその瞬間、床を蹴っている。


 発砲音が辺りにこだました。普通の銃の発砲音だ。ヒューは集まった警備兵と殺到する銃弾を避けるため、重力に逆らって壁を走った。白い壁は靴底に蹴られるたび、苦情のかわりに大きな音をたてる。


 宝物庫の外に出て床に着地するついでに、一人の警備兵の面に蹴りをかます。ダガーを再び具現化させ、周囲の警備兵を切り払いながら突き進む。百戦錬磨の怪盗〈黒豹ブラックパンサー〉たるヒューにとって、一般の警備兵を出し抜くことなど造作もない。怒声や悲鳴が後方を彩っている。


 地下階からの唯一の出口である階段に足を踏み入れたとき、それは襲ってきた。


 音――。


 今まで聞いたことのないほど甲高い、聞くに堪えない醜い音の洪水だ。後方から背中全体を押し出すように、それでいて全身を包み込むように、音の波はヒューの内部を侵食してくる。


 ――音波銃、壊れてなかったのか


 自らの読みの甘さを悔いる間もあるはずなく、ヒューはよろめく足を叱咤して前へ進んだ。耳はがんがんと強い痛みを訴えてくるし、吐き気もする。どうしたって気が散った。少ない数ながらも立ち塞がってくる警備兵の存在も、ヒューをさらに苛立たせる。


 一階の正面入り口は開け放たれていた。警備兵を内部へ入れるための措置だろうが、なめられたものだ。彼らには宝物庫からブラックパンサーを逃がさない自信があったのだろう。


 ヒューは堂々と正面入り口から脱出する。警備兵の姿は見えない。皆、屋敷の中にいるのか。


 ヒューはそのまま門へは向かわず、前庭に植えられた低木の陰に身を隠した。その頃になって、ようやく屋敷から警備兵が数人現れる。彼らの怒声がどこか遠くから聞こえてくるように感じた。どうやら、片耳が完全にイカれているらしい。


 ヒューは茂みの奥で服を脱ぎ始めた。ストリップの見物客は、葉や草の裏に潜む虫たちだけだ。黒と白のブロックチェックのストールをきちんと巻き直し、ボディバッグのベルトをきつく締めた。それ以外のものは、全てその場に脱ぎ捨てる。下着も外して靴も脱ぐ。ほぼ全裸の状態で、屋敷を囲むコンクリートの壁を見上げる。


 そして、転身した。人の形から獣の形へ。するすると姿を変えていく。


 一頭の黒ジャガーが悪趣味な屋敷を囲う壁の上に立っていた。ジャガーは眼下で銃を持って走り回る人間を見下ろしてから、屋敷の外へと壁を伝うようにして優雅に滑り降りる。


 闇夜に紛れる黒ジャガーの姿に気付いた警備兵はいなかった。




 東の大都市エンプレスシティ。だだっ広いユニオンの中で首都の役割を担う大都会だ。せわしく生きる人々のみが生きることを許された町で、人という生き物の栄光と挫折、つまりは富と貧を、まざまざと映し出す残酷な場所でもある。


 都市部から北へ外れると貧民街となり、同じ町とは思えないほど景色は一変する。高くて綺麗で先進的な建物などありはせず、薄汚れてどこかが欠けたひびだらけの建物ばかりだ。街灯は途切れ途切れになり、明滅していたり、ひどいところだと消えていたりする。昼も夜もない浮浪者たちがその日の仕事を探して歩き回り、人知れず野垂れ死んだりしていく。


〈ウォード医院〉


 切れかけて明度の落ちた電灯が、錆び一つない看板を照らしだしている。周囲の風景から浮いてみえるほど、医院の建物は小綺麗だ。そのせいでいらぬやっかみも買ったものだが、それも過去のこと。今では平和なものだ。


 ヒューは開けっ放しの入り口から中に入った。独特の消毒薬の臭いがぷんと香る。壁や天井の白に照明が反射して少し眩しい。目を細めて淡い緑色のリノリウムの床を踏む、と同時に人型へ転身する。


「ちょっとヒュー」


 受付の方から声がした。アリスが顔をしかめて立っていた。


「人型に転身するなら部屋に戻ってからやってちょうだい」


「なんだ、男のあそこなんて見慣れてるだろ」


「そういう問題じゃない!」


 アリスは持っていたタオルを投げつけてくる。たたまれたタオルはヒューまで届かず、待合室の椅子に引っ掛かった。


「この変態露出魔!なんのためにそのストールあげたと思ってるの?」


「あれ、これ、オレのペニス隠しだったの?愛のこもったプレゼントかと」


 アリスは大げさな溜め息をついて首を振ってみせた。掛ける言葉もないとでも言いたげだ。


 アリスはウォード医院の看護師だ。といっても、人員不足のこの医院においては事務員の役目も果たしている。白い短髪の上に伸びるウサギの耳が可愛らしく、お尻の上には小さな丸い尻尾もあるらしいが、残念ながら見せてもらったことはない。獣型へ転身すると愛らしいシロウサギの姿になるらしいが、これもまた見せてもらったことがない。


「さっさと服着てきなさい。今度はハサミ投げるわよ」


「優しい看護師さんがお痛していいのか~?」


「あなたは例外。ちょっと痛くしないと分かんないんだから――、あっ」


 アリスの目が輝く。振り返ると、医院の入り口に微笑みを湛えた男が立っていた。


 卵色の髪は短く刈り上げられ、落ち着いた瞳は大空を思わせるブルー。肌は白い。背は高く、背筋はしゃんと伸びている。ヒューやアリスと違って頭に獣の耳はないし、尻尾も生えていない。綺麗な白衣を身にまとって、愛用の診察鞄を右手に提げている。


 ウォード医院の主たるウォード、その人だ。


「おかえりなさい」


 ヒューの横をすり抜けて、アリスがウォードに駆け寄っていく。アリスの腕はウォードの腰に周り、ウォードの腕はアリスの肩に置かれた。二人はそのまま軽くキスを交わす。


「ただいま」


 ウォードがそう返して、アリスの腹を優しく撫でた。アリスの腹部は大きく膨らんでいる。もうすぐ二人にとって初めての子供が生まれるのだ。


「ウォード、出てたのか」


「ああ、ちょっと急患があってね」


 ヒューが声をかけると、ウォードは妻からヒューに視線を移した。


「ヒュー、服くらい着ろ。寒くないのか?」


 ウォードはアリスの肩を優しく叩いてから医院の中へ入ってきた。


 自分の妻の前で男が裸を晒しているにも関わらず落ち着いていられるのは、この男の懐の深さゆえか、余裕の表れか。


「なあ、ウォード」


 ヒューは横を通り過ぎようとする医者を呼び止めた。


「なんか、耳、やられちまったらしい」


 ヒューは左側面の髪をかき上げ、隠れていた人型の耳を露わにした。人型をとっているときにある頭の上の獣耳は、ただの飾りに過ぎないのだ。


 ウォードとアリスが医者と看護師の顔つきになって、ヒューの左側に寄ってくる。


「ちょっと、あなた、耳から血が出てるじゃない」


 左にいるアリスの声は不思議なことに左から聞こえてこない。左耳がイカれているからだ。


「何があったんだ?」


 ウォードがさっそく問診に入る。


「音波銃とかいうやつをぶっ放たれた」


「音波銃?そんなもの持ってたのか」


 ウォードが顔をしかめるのが横目に映る。


「悪かった。リサーチが足りなかったみたいだ」


「いいさ。オレも油断してたからな」


 誰より学を積んできたエリートであるのに、ヒューのような学の無い者にも素直に謝れるのは、間違いなくウォードの美点だろう。


 アリスがヒューの左耳を濡れたふきんで拭ってくれる。血を拭きとっているらしい。


「まあ、とにかくだな、ヒュー」


 ウォードは腰に手を当てると、首を傾けてヒューの顔を覗き込むようにした。


「部屋に戻って服を着てこい。治療はそれからだ」


 有無を言わさぬ口調にヒューは軽く笑うと、言われた通り自室へ向かうために医院の奥へ向かった。

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