ダイア大陸戦記

三日月

Ⅰ 亀の節

一章 転変の起源

Z 見廻り狼

 空気の中に漂う微かな臭気をゾーイの鋭敏な鼻が嗅ぎ取った。


 見知らぬ人間の汗の臭い。

 恐らく、まだ若い男。


 鼻先を上に向けて空気の流れを感じ取ろうとする。

 感覚を研ぎ澄まして、臭いの元を辿ろうとする。


 毛の一本一本を撫でるように緩く吹く風がゾーイの味方をしてくれた。


 間違いない。

 臭いは森の奥からやってくる。

 風に臭気をのせて漂ってくる。

 ゾーイの縄張りを侵す者の気配を色濃く運んでくる。


 ゾーイは音を立てないようにしつつ、森の奥へ足を向けた。

 相手は人間。耳も鼻もゾーイのものとは比べ物にならないくらい鈍い。

 それでも枯れ枝を踏むことのないよう、茂みに足を取られないよう、細心の注意を払う。


 初夏の夜はまだ少し寒いくらいだ。

 それでも気の早い虫はいるもので、森の中の静寂を割ってハーモニーを奏でている。

 やかましいが、集中を乱されるものでもない。


 やがてゾーイの耳は、虫の合唱の中に人間が駆ける音を聞きつける。

 はぁはぁと荒く呼吸する音も聞こえてくる。


 ゾーイは足を止めた。

 低木の陰に身を隠し、息を潜める。


 森の奥に明かりが見えた。

 今宵の空は曇り模様。

 分厚い雲が空を覆い、星はいっさい見えず、月の光はたまに雲間から薄く差す程度だ。

 人間の目では森を進むには難儀だろう。

 灯りがなければ、ろくにものも見えまい。


 ゾーイは頭を低くして後ろ肢に力を溜める。


 臭いが強くなってくる。

 足音と息遣いが大きくなってくる。

 揺れる灯りが近づいてくる。


 視界に侵入者を捉えた瞬間、ゾーイは茂みから飛び出した。

 思い切り体当たりを食らわせて相手を地面に転がしてやる。


 不意打ちを食らった相手は微かなうめき声と共に勢いよく地に倒れ伏した。

 すぐさま肘を立てて体勢を整え、ゾーイを見返してくる。

 

 脇に落ちた懐中電灯が痩せぎすの男の姿を煌々と照らしだした。

 肩から提げた大きな鞄をかばうように手で抱いた仕草をゾーイは見逃さない。


 牙を剥き出しにして鼻に皺を寄せ、低くうなる。

 相手は慄いているのか最初にうめいた以外は声をあげようともしない。

 人間とはとかくやかましい生き物のくせに、この男は口を開けてはいても、荒く呼吸を繰り返すだけだ。

 ただただゾーイを見て、目を丸くして肩を上下させるばかり。


 肉体的にも精神的にも優位に立ったと確信したゾーイは、男の抱える大きな鞄に視線を留めた。

 猫くらいなら余裕で入れてしまえそうな大きさの黒いフェイクレザーの鞄だ。

 安物の鞄にそぐわない、嫌らしい香りがぷんぷん漂ってくる。


 そう、いかにも臭い。


 ゾーイはなんの先触れもみせず、前肢を振り上げて目標に飛びかかった。

 鋭い爪が安物の人工皮革を易々と切り裂く。

 男がひっと息を呑むと同時に、鞄から紙幣がばらばらとあふれ出した。


 やっぱりねぇ。

 心中でゾーイは呟く。


 臭いからして明らかだったが、やはり金か。

 しかしこれほどの大金をこんなみすぼらしい男がどこから……、などと考えずとも容易に想像はつく。

 大方どこかから盗んできたのだろう。

 ではその入手先は?

 それもまた簡単に思いつく。

 この辺りで大量の現金を所有している奴といえば――


 ゾーイの推理はしゅーっという音のあとに途切れる。


――臭い!

 鼻が、曲がって曲がって曲がって曲がって、壊れる――!


 その場でのたうち回って悶絶する。

 視界はぐるぐると回り、耳も鼻も麻痺したようになって何も感じない。

 自分が今どこにいるのか、何をしているのか、はたまた何者なのかも考えられない。

 思考がまったくまとまらない。


 やっとのことで我を取り戻したときには、目の前から男の姿は消えていた。

 辺りには紙幣が数枚散らばり、スプレー缶が一つ落ちている。


「ぢっくじょう!」


 叫んだゾーイは転がっている缶を手で掴んで思い切り投げつけた。

 缶は木に当たって跳ね返り、再びゾーイの近くに転がってくる。

 狼のイラストの上に赤い罰印の記されたそれは、狼除けの激臭スプレーだ。

 

 次に会ったら絶対、ずたずたに切り裂いて木に吊り下げて足の先から食いちぎって、肥溜めに捨ててやる――!


 くらくらする頭でそんなことを考えて、立ち上がろうと足に力を込めるが、足がついてこない。

 再び無様に地に伏した。


 薄暗い森にたった一人残された全裸の女は、悔しさを力の限りに込めて咆哮した。

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