第3章: 学術交流

 セイントナンバー王国の首都ピタゴラスの朝は、いつもの数式の調べとともに始まった。しかし、この日は特別な興奮が街全体を包んでいた。聖職者たちの計らいによって、幾何学大学でのアリアのセミナーが予定されていたのだ。アリア、ティモシー、マギウスの三人は、前日の市場での出来事を胸に、大学へと向かっていた。


 幾何学大学は、まさに数学の殿堂と呼ぶにふさわしい建築物だった。巨大なフィボナッチ螺旋を模した構造が、空へと伸びている。その壁面には、複雑な数式や幾何学的図形が刻まれ、朝日を受けて神秘的な輝きを放っていた。


 アリアは深呼吸をし、おもむろに仲間たちに言った。


「ここでの講演が、私たちの理論の受け入れを左右するわ。ガウスの言葉を借りれば、『数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である』。でも今日は、魔法と科学と数学の融合が、新たな王座を築く瞬間になるかもしれないわね」


 ティモシーは興奮気味に頷き、マギウスは静かに周囲を観察している。


 講堂に入ると、そこには予想以上の聴衆が集まっていた。学生たちの目は好奇心に満ち、期待に胸を膨らませている。一方、最前列には保守的な表情の教授陣が座っていた。


 アリアが壇上に立つと、場内が静まり返った。彼女は深呼吸をし、講演を始めた。


「皆さん、おはようございます。今日は、魔法と科学と数学の融合理論について、お話しさせていただきます」


 アリアは、黒板に複雑な方程式を書き始めた。それは、魔法のエネルギーの流れを表す非線形偏微分方程式だった。


「この方程式は、魔法のエネルギーの振る舞いを記述します。注目すべきは、この項です」


 彼女は方程式の一部を指し示した。


「これは、量子力学のシュレーディンガー方程式に酷似しています。つまり、魔法のエネルギーも、量子的な性質を持つ可能性があるのです」


 会場からどよめきが起こった。学生たちの目が輝きを増す一方、教授陣の表情は厳しさを増していた。


 アリアは続けた。


「さらに、この理論を応用すると、フラクタル構造を持つ魔法陣の設計が可能になります。これにより、魔法の効果を増幅させつつ、エネルギーの無駄を最小限に抑えることができるのです」


 彼女は、複雑なフラクタル図形を黒板に描いた。その美しさに、会場から感嘆の声が上がる。


講堂の空気が、徐々に熱を帯びていく。アリアの言葉一つ一つが、学生たちの心に火を灯すかのようだった。彼女の理論が展開されるにつれ、若い知性たちの目が輝きを増していく様は、まるで夜空に新しい星座が形成されていくかのようだった。


 最初は遠慮がちだった質問も、次第に熱を帯びていった。ある学生が勇気を出して手を挙げた。


「アリアさん、魔法のエネルギー流と量子力学の類似性について、もう少し詳しく説明していただけませんか?」


 アリアは微笑みながら答えた。


「素晴らしい質問です。魔法のエネルギー流れを記述する方程式の中に、量子力学のシュレーディンガー方程式と同様の項があります。具体的には……」


 彼女は黒板に新たな方程式を書き始めた。学生たちは息を呑んで見守る。


「この項がエネルギーの量子化を示唆しているのです。これは魔法が、離散的なエネルギー準位を持つ可能性を示唆しています」


 別の学生が興奮気味に質問を投げかけた。


「それは、魔法にも不確定性原理が適用される可能性があるということでしょうか?」


 アリアの目が輝いた。


「いい質問ですね! その可能性は十分にあります。実際、我々の実験データは、魔法の効果に微小な不確定性が存在することを示唆しています」


 質問は次々と飛び交った。フラクタル魔法陣の設計原理、エネルギー保存則と魔法の関係、さらには魔法と時空の歪みの相互作用など、話題は多岐にわたる。アリアは各質問に丁寧に、しかし情熱を込めて答えていった。


 ある瞬間、彼女は学生たちの目に宿る光を見て、心が熱くなるのを感じた。それは純粋な知的好奇心の輝き、新しい可能性への期待に満ちた眼差しだった。アリアは、自分たちの理論が単なる学問を超え、若い世代の希望となりつつあることを実感した。


 質疑応答は予定の時間を大幅に超え、講堂の熱気は冷めることを知らなかった。アリアは最後にこう締めくくった。


「皆さんの質問一つ一つが、この理論をさらに発展させる種となるでしょう。アインシュタインが言ったように、『重要なのは質問をやめないことだ』。この探究心こそが、魔法と科学と数学の真の融合への道を開くのです」


講堂の空気が一瞬で凍りついたかのようだった。最前列に座る教授陣の一人、白髪で厳めしい表情の老教授が立ち上がった。彼の名はピタゴラス・エウクレイデス教授。王国で最も権威ある数学者の一人だ。彼の声は低く、しかし鋭い刃のように会場に響き渡った。


「あなたの理論は、我が国の伝統的な数学観を根底から覆すものです。これは危険思想ではないですか?」


 会場に緊張が走る。学生たちの息遣いさえ聞こえるほどの静寂が訪れた。全ての視線がアリアに集中する。


 アリアは一瞬、深呼吸をした。彼女の瞳に、決意の色が宿る。ゆっくりと、しかし確固たる口調で彼女は答え始めた。


「新しい理論が登場すると、常にそのような反応があります」


 アリアの声は、静かでありながら力強く響いた。


「しかし、数学者のハーディが言ったように、『若い人は新しいアイデアを追求すべきだ。なぜなら古いアイデアは他の人がすでに追求しているからだ』」


 彼女は一歩前に進み、教授陣を見つめながら続けた。


「私たちの理論は、伝統を否定するのではありません。それを新たな視点で捉え直し、発展させるものなのです」


 アリアは黒板に向かい、複雑な方程式を書き始めた。それは、伝統的な数学理論と彼女の新理論を融合させたものだった。


「ご覧ください。この方程式は、貴国の伝統的な数論を基礎としています。そして、ここに魔法のエネルギー項を導入することで……」


 彼女の説明が進むにつれ、教授陣の表情が微妙に変化していく。厳しさの中に、僅かな興味の色が混じり始めた。


「つまり、私たちの理論は伝統を土台とし、そこに新たな次元を加えるものなのです。これにより、数学の適用範囲が大きく広がります」


 講堂に再び沈黙が訪れた。しかし、それは先ほどの緊張に満ちたものとは違っていた。思索と期待が入り混じった空気が、場を支配していた。


 ピタゴラス・エウクレイデス教授は、しばらくの間じっとアリアを見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「興味深い視点です、アリアさん。あなたの理論には、確かに検討の価値があるかもしれません」


 その言葉に、会場からどよめきが起こった。アリアは静かに頷き、感謝の意を示した。

 学生たちから自然に拍手が湧き起こった。


 セミナーが終わると、多くの学生たちがアリアの周りに集まった。彼らの目には、新しい可能性への期待が輝いている。



 セミナーの余韻が残る講堂で、アリアは古い書架を眺めていた。そこには、数学史上の偉大な理論家たちの著作が並んでいる。彼女の目が、一冊の古びた本に留まった。背表紙には「I・デカルト」という名前が薄れかけた金文字で刻まれていた。


 アリアが本を手に取ると、中から一枚の紙片が滑り落ちた。それは、複雑な数式と魔法陣が交錯する図面だった。アリアは息を呑んだ。その理論は、彼女が今研究している魔法と科学の融合に驚くほど近いものだった。


「まさか、何百年も前に……?」


 彼女の言葉が途切れたとき、近くにいた年老いた教授が口を開いた。


「ああ、イグニス・デカルトの著作ですね。彼の理論は、今でも多くの謎に包まれています。伝説では、彼は魔法と数学を融合させる究極の理論を追求していたそうです」


 アリアは、その名前を心に刻んだ。イグニス・デカルト。彼女の研究に、新たな光を投げかけるかもしれない存在。アリアは、いつかその謎に迫れることを密かに期待しながら、本を元の場所に戻した。


 講演が終わり、講堂の外の中庭に人々が溢れ出した。夕暮れの柔らかな光が、幾何学的に整備された庭園を優しく照らしている。ティモシーは、興奮冷めやらぬ表情で集まる現地の学生たちの輪に加わった。


「すごかったね、アリアさんの講演」


 ティモシーが話しかけると、学生たちは一斉に頷いた。彼らの目には、好奇心と期待、そして僅かな戸惑いが混ざっていた。


「ええ、本当に驚きました」


 金髪の少女が答えた。彼女の名前はソフィアという。


「でも、正直なところ……」


 ソフィアは言葉を濁し、周りの仲間たちの顔を見た。皆が小さく頷き、彼女は続けた。


「僕たちは、もっと自由に考えたいんです。数学は美しいけど、それだけじゃない何かがあるはずだって」


 その言葉に、他の学生たちも同意するように頷いた。ティモシーは、彼らの表情に浮かぶ複雑な感情を読み取ろうとした。


「どういうことなの?」


 ティモシーは優しく尋ねた。

 今度は、眼鏡をかけた痩せた青年が口を開いた。


「僕たちは幼い頃から、数学こそが全ての基礎だと教えられてきました。確かに数学は美しく、世界を理解する強力な道具です。でも……」


 青年は言葉を探すように空を見上げた。


「でも、時々息苦しくなるんです。世界には、数式だけでは表現できない何かがあるはずなんです」


 ティモシーは静かに頷いた。彼は、アリアから学んだ魔法と科学の融合理論を思い出していた。


「君たちの気持ち、よく分かるわ」


 ティモシーは言った。


「私も最初は、数学だけで全てを説明しようとしていた。でも、アリアさんの理論に出会って、世界の見方が変わったの」


 学生たちは、興味深そうにティモシーの言葉に聞き入った。


「魔法と科学と数学を融合させることで、僕たちは世界をもっと自由に、でも同時により深く理解できるようになるわ。それは、君たちが求めている『自由』に近いものかもしれないわ」


 ソフィアが目を輝かせて言った。


「でも、そんな考え方、教授たちに受け入れてもらえるでしょうか?」


 ティモシーは微笑んだ。


「簡単じゃないかもしれないわ。でも、変化は常に小さな一歩から始まるのよ。今日のアリアさんの講演も、その一歩だったと思う」


 学生たちの間に、小さいながらも確かな希望の光が宿り始めるのを、ティモシーは感じ取った。彼らの表情に、好奇心と決意が混ざり合っていく。


「僕たちにも、何かできることがあるはずです」


 青年が言った。


「ええ、きっとあるわ」


 ソフィアも同意した。


 ティモシーは、彼らの言葉に深く頷いた。セイントナンバー王国の未来は、こうした若者たちの手に委ねられているのだと、彼は確信した。


 マギウスは、静かに場の空気を読んでいた。彼は、学生たちの興奮と教授陣の警戒心、そしてその間に生まれつつある溝を敏感に感じ取っていた。


 セミナーが終わり、三人が大学を後にする頃、アリアは深い思索に沈んでいた。彼女は仲間たちに向かって言った。


「私たちの理論は、単なる学問の域を超えているわ。この国の未来を左右する可能性があるの」


 ティモシーが頷いて答えた。


「はい、学生たちの話を聞いていると、彼らは変化を求めているように感じました」


 マギウスは静かに付け加えた。


「しかし、変革には常に抵抗がある。我々は慎重に進まねばならない」


 三人は、セイントナンバー王国の夕暮れの中を歩きながら、今後の展開について話し合った。彼らの前には、希望に満ちた未来と、乗り越えるべき困難が同時に広がっていた。


 アリアは空を見上げ、つぶやいた。


「ラマヌジャンの言葉を思い出すわ。『方程式には魂がある』って。私たちの理論も、この国の魂を動かす何かになれるかもしれない」


 彼女の言葉に、ティモシーとマギウスも静かに頷いた。セイントナンバー王国での彼らの挑戦は、まだ始まったばかりだった。しかし、この日の学術交流が、大きな変化の始まりとなることを、三人は確信していたのだった。

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