第2章: 文化衝突

 セイントナンバー王国の首都ピタゴラスの朝は、数式の調べとともに始まる。アリア、ティモシー、マギウスの三人は、前日の入国審査と首都到着の疲れを癒やし、新たな気持ちで街の探索に乗り出していた。


 街路は幾何学的な美しさを誇り、建物は黄金比に基づいて設計されていた。道行く人々の服装にも、フラクタル模様や数式のデザインが施されている。アリアは感嘆の声を上げた。


「まるで数学の教科書が立体化したような街並みね。レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を借りれば、『数学なくして、どんな確実性も存在しない』というわけか」


 ティモシーは興奮気味に周囲を見回しながら言った。


「先生、この国の人々は本当に数学を生活の中心に据えているんですね。でも、数学が苦手な人はどうしているんでしょう?」


 マギウスは静かに答えた。


「それこそが、この国の抱える問題の一つかもしれないな。完璧を求めすぎると、時として重要なものを見失うこともある」


 三人は話し合いながら、にぎわいを見せる市場へと足を踏み入れた。そこでは、果物や野菜が幾何学的に美しく積み上げられ、その形状の完璧さに目を奪われる。


 アリアは興味深げに果物を手に取り、つぶやいた。


「この果物の形、完全な球体じゃないわね。自然界に存在する物体で、完全な数学的形状を持つものはほとんどない……」


 その言葉が、周囲の空気を一変させた。

 突如として、厳めしい表情の警官が現れ、アリアに厳しい視線を向けた。


「お嬢さん、今の発言は『数学的に不正確な発言』として、我が国の法律に抵触します。厳重に注意します」


 アリアは驚きの表情を浮かべ、言葉を失う。

 ティモシーとマギウスも、事態の急変に戸惑いを隠せない。


 警官の厳しい態度に、周囲の人々の視線が集まり始めた。

 アリアは冷静さを取り戻そうと深呼吸し、丁寧に説明を試みる。


「申し訳ありません。私の発言に誤解を招く点があったようです。私が言いたかったのは、自然界の美しさは、必ずしも完全な数学的形状にのみ存在するわけではないということです。数学者のベノワ・マンデルブロが言ったように、『雲は球体ではなく、山は円錐ではなく、海岸線は円ではない』のです」


 警官は眉をひそめ、アリアの言葉を注意深く聞いている。そのとき、人だかりを掻き分けるようにして、一人の男性が近づいてきた。その人物は、数理神教の聖職者の衣装を身にまとっていた。


「これはこれは、珍しい議論が聞こえてきたので」


 聖職者は穏やかな口調で話し始めた。


「あなたの言葉には興味深い観点が含まれていますね。しかし、我が国の伝統的な数学観とは少々異なる部分もある。もし良ければ、あなたの理論をもう少し詳しく聞かせていただけませんか?」


 アリアは、この予期せぬ展開に一瞬戸惑いを見せたが、すぐに気を取り直した。

 ここが、自分たちの理論を説明する絶好の機会だと判断したのだ。


「はい、喜んで。私たちは、魔法と科学の融合理論を研究しています。その中で、自然界の不規則性や複雑性が、実は深遠な数学的秩序を内包していることを発見したんです」


 アリアの言葉に、聖職者たちの目が輝きを増す。しかし同時に、困惑の色も浮かんでいた。


「魔法と科学の融合……? それはさらに我々の伝統的な数学観とは相容れない概念のように思えますが」


 市場の一角が、突如として即席の学術討論会場と化していた。アリアと数理神教の聖職者たちを中心に、円形に人だかりが形成されていく。野菜や果物を積んだ屋台が、まるで古代の円形劇場のように彼らを取り囲んでいた。


 アリアは、自信に満ちた表情で話を続けていた。


「私たちの理論では、魔法のエネルギーの流れを複素関数として表現することができるんです。これを応用すると、例えばこの果物の不規則な形状も、フラクタル次元を用いて数学的に記述できるのです」


 彼女は手にした果物を掲げ、その表面の凹凸を指でなぞりながら説明を続けた。


「これは一見、単なる不完全な球体に見えますが、実はその不規則性の中に美しい数学的秩序が隠されているんです」


 聖職者の一人が、眉をひそめながら質問を投げかけた。


「しかし、我々の教えでは、完全な幾何学形状こそが神の意志を表すとされています。あなたの理論は、その根幹を覆すものではないですか?」


 アリアは落ち着いた様子で答えた。


「決してそうではありません。むしろ、私たちの理論は神の創造の複雑さと深遠さを、より深く理解することを可能にするのです。アインシュタインの言葉を借りれば、『神は複雑だが、悪意はない』のです」


 聖職者たちの間で、小さなざわめきが起こった。彼らの表情には、興味と戸惑いが入り混じっている。


 ティモシーは、アリアの横で熱心にメモを取りながら、時折質問を投げかけていた。


「先生、複素関数と魔法のエネルギーの関係について、もう少し詳しく説明していただけますか?」


 アリアは微笑んで答えた。


「そうね、ティモシー。魔法のエネルギーの流れは、複素平面上の等角写像として表現できるの。これは、魔法の効果が空間をどのように歪めるかを数学的に記述することを可能にするわ」


 彼女は地面に棒で複雑な図形を描きながら説明を続けた。周囲の人々は、その図形に釘付けになっていた。


 一方、マギウスは群衆の外側に立ち、静かに周囲の反応を観察していた。彼の鋭い目は、聴衆一人一人の表情の変化を逃さない。老いた魔法使いは、人々の中に興味と警戒、そして僅かな恐れが入り混じっているのを感じ取っていた。


 議論が白熱する中、聴衆の中からも様々な声が上がり始めた。


「これは冒涜だ!」と怒りの声を上げる者もいれば、「もっと聞きたい、もっと教えてくれ!」と興奮した様子の若者もいる。


 アリアは、これらの反応に動じることなく、冷静に対応を続けた。


「皆さん、私たちの理論は決して伝統を否定するものではありません。むしろ、伝統的な数学観をより広い文脈で捉え直すことで、新たな可能性を開くものなのです」


 彼女の言葉に、聖職者たちも少しずつ頷き始めていた。しかし、その表情にはまだ戸惑いの色が残っている。セイントナンバー王国の長い歴史と伝統が、新しい考え方を受け入れることを躊躇させているのだ。


 この熱気溢れる議論の場で、アリアたちの理論と王国の伝統との間の溝が、徐々に浮き彫りになっていった。それは単なる学術的な対立を超え、この国の根幸的な価値観を揺るがす可能性を秘めていたのだ。


 議論が佳境に入ったとき、マギウスが突然、場の空気を察したように前に出た。


「皆さん、この議論は非常に興味深いものです。しかし、ここは市場。もっと適切な場所で、ゆっくりと意見を交換する機会を持つべきではないでしょうか」


 マギウスの冷静な提案に、周囲の人々も我に返ったように静かになり始めた。聖職者も深く頷いた。


「おっしゃる通りです。この議論は、我々の運営する大学でじっくりと続けるべきでしょう。もしよろしければ、明日、正午に我々の大学にお越しいただけませんか?」


 アリアは感謝の意を示しながら、提案を受け入れた。人々が散り始め、騒動は一旦収まったかに見えた。


 しかし、その場を離れる際、アリアは深い思索に沈んでいた。彼女は仲間たちに向かって静かに言った。


「私たちの理論と、この国の価値観の間には、想像以上に大きな溝があるわ。ガリレオ・ガリレイの言葉を思い出すわ。『真理を求めることを禁じられるくらいなら、生きていないほうがましだ』……私たちの前には、長い道のりが待っているようね」


 ティモシーとマギウスも、アリアの言葉に深く頷いた。セイントナンバー王国での彼らの挑戦は、まだ始まったばかりだった。彼らは、数学と魔法、そして科学の融合という新たな地平を切り開くため、この国の人々の理解を得なければならない。その道のりが決して平坦ではないことを、三人は痛感していた。


 夕暮れ時、三人は宿泊先のホテルに戻った。窓から見える正十二面体の神殿が、夕日に照らされて神秘的な輝きを放っている。アリアは、明日の議論に向けて準備を始めた。彼女の決意の表情には、困難に立ち向かう覚悟と、新たな発見への期待が混ざり合っていた。


 セイントナンバー王国での彼らの物語は、まだ序章に過ぎない。しかし、その序章が既に、彼らの人生を大きく変える可能性を秘めていることは明らかだった。アリア、ティモシー、マギウスの三人は、明日への期待と不安を胸に、静かに夜を迎えたのだった。

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