8 グラン・ブルー

 液体人間とコミュニケーションがとれたという事実は瞬く間に研究所内に広まった。だが、それに自殺願望があるという事実はなぜだかあまり受け入れてはもらえなかった。多くの学者は「まだまだ研究の余地がある段階で、断定的なことを言うべきじゃない」という。こいつらはきっと、自分で中だししようとも、DNA検査で結果が出るまでは絶対に子どもを認知したりはしないんだろう。侑子はハナから分かっていたことながら、やっぱりイラつきを隠せないでいた。頭にナメクジが詰まった老人どもは一匹残らず死ねばいい。

 侑子の欠点は頭に血が上ると、言葉の精査を踏まずに発言することだった。上に書いたことほど酷くはないが、彼女が聴聞会で言ったことは彼らの倫理規定の許す範囲になかった。その倫理規定も個人の裁量によって決まるのだから、どうしようもない。

 そういうわけで、侑子はこの発見の立役者でありながら、続く実験に参加できる可能性が潰えてしまった。それだけならまだしも、彼女の研究室も予定どおり、閉鎖する運びとする下命がくだっていた。

「仕方ないね」侑子は笹井の言葉を思い出す。「でも素晴らしい発見だったよ。あんな経験は二度と出来ないだろうね。一応は発見者として君の名前が残るわけだし、そう落ち込むことはないよ。しばらくは休んで、英気を養うといいよ。これだけの発見をしたんだから、どこか拾ってくれるところもあるかもしれないよ」

 侑子の欠点がもう一つ。追い込まれると、なんでもやるということだ。そこに法律があったとしても。


 侑子の研究室はすでに閉鎖状態にあった。彼女のIDは荷物の出し入れするために、仮に有効になっているに過ぎない。仮だとしても、自由に出入りできるならできることは無限にある。他人の研究を失敗させることだって、ロッカーの中から現金を盗むのだって容易い。悪意があれば。

 しかしながら、侑子の計画はそんなコスいことではない。もっと単純で、自身の計画に従順なものだ。

 彼女はそのための準備を始めていた。


 侑子の研究室が名実ともに閉鎖される日がやってきた。カビと埃まみれの研究室はもぬけのからとなり、新たに倉庫としての役割を仰せつかるそうだ。彼女は部屋の真ん中に椅子を置き、そこに腰掛けてる。

「満足か」笹井がドア付近から侑子の背中に声をかける。

「結構広くてびっくり」これは本当のこと。

「意外と長いことここにいたからな。名残惜しい気もするが」

「笹井くんと会えなくなるのは寂しいな」これは嘘。女の嘘。

 笹井は侑子の言葉の端に、今まで感じたことのない哀愁を感じていた。アホなこの男はいつもプリプリ怒ってるこの女も、さすがに感傷的になっているのだろうと直感で気づいた。とすれば、男の役目は一つ。

「メールしてくれれば、いつでも会いに行きますよ」

 笹井は言いながら彼女の背中に近づいた。かかった。侑子は腹に抱えた感情をおくびにも出さずに顔を伏せた。なんなら涙目になっていた。

「電話じゃだめ?」侑子は言った。

「もちろんいいですよ」笹井は侑子の肩に触れた。ここだ。

 侑子は片手で笹井の手をとると、もう片方の手で彼の着ている白衣のポケットに手を突っ込んだ。面白い事実。何かを盗むより、何かを渡す方が簡単。笹井のポケットにこっそり忍ばせたそれは、彼女自身のIDカードだった。

「そろそろ行きましょ」侑子は立ち上がった。「今までありがとうね。笹井くん」

「こちらこそ」

 

 液体人間がなぜ人を溶かすのか。長い間疑問視されてきた。この研究施設の名のもととなった浅倉氏はそれを細菌の仕業と考えたようだが、それは間違いだ。実際には細胞膜を通り過ぎる水分子が、遺伝子を直接書き換え内側から人間の姿を変えているらしい。なぜ液体人間のもつ水分子が細胞膜を通り過ぎるのか、なぜ液体人間の水分子だけが人の遺伝子を書き換えるのか、その答えはいくつか挙げられているが、全て予想でしかない。理由は簡単。人体実験できないから。

 侑子はこの研究に魅力を感じていなかった。例えその謎が解けて、晴れて液体人間を殺せたとして、人類にはその技術が手に入れてしまう。そうなれば、多少なりとも良いこともあろうが、必ず良くないことが起きることは明白だった。そうはならないなんて誰にも言えないはず。彼女がコミュニケーションにこだわったのは、謎を謎のままにして終わらせるためであった。

 しかし、もうそうも言っていられない。侑子の研究室は閉鎖され、自分の研究からも彼女は締め出されてしまった。この先、研究者として生きていくことは出来ようが、それもあと十年かそこらの話だ。だとすれば、この命をどう使うべきか。それだけが問題だった。

 深夜になるまで待ち、侑子は研究室に忍び込んだ。笹井を利用して外に持ち出したIDカードのおかげで簡単に侵入することができた。研究所には偽のカードを提出してある。もちろんすぐにバレるだろうが、今夜さえ乗り切れればそれでよかった。

 エレベーターは動いていなかったので、非常階段で地下に降りる。非常階段の電灯は鈍く光って薄暗い。でも、侑子の研究室よりは埃臭くなかった。別に誰もいないだろうに、彼女は慎重に階段を下りて行った。エレベーターではものの二十秒で着く距離でも、階段を使えば永遠に感じられるほど長い。もう通り過ぎてしまったのではと、彼女は不安に駆られるがそんなことはありえない。エレベーターと同じく、扉は一番上と、一番下にしかなかった。

 

 水槽はそこにあった。水槽を照らすライトだけはまだ点灯していて、青白い光が幻想的だ。人がいなくなればますます夜の水族館としての装いをみせる液体人間を前に、侑子は早速作業を始める。

 操作系の使い方はよく知らなかったが、ここは日本。机の引き出しを探ると、簡単にマニュアルが手に入った。それも可愛らしいキャラ付きで図解したものだ。将来は幼稚園児を雇うつもりかしら。侑子はそう考えながら、あちこち弄り回した。

「こんばんはユーコ」クララの声が不意に聞こえた。

「こんばんは」侑子も挨拶をする。

 液体人間が収容されている水槽と、クララとフォスカがいる水槽は実は近い所にあった。何事にもスペアはあるもので、イルカのために使ったのはその水槽なのだ。そして、その二つの水槽には二つを結ぶ普段は閉じた通路が存在していた。

「今から通路を開くから向こう側に行ける?」侑子が言った。

「やだ」フォスカが言った。

「わがまま言うな。私たちは誇り高き実験動物なのよ」

「それでもいや!」

「お願いフォスカ」侑子は言った。「私もすぐに行くから」

 フォスカはしばらく悩んでいた。フラフラと旋回しているのが、モニター越しに見える。

「分かった。やってみる」フォスカが言った。

「ありがとう」侑子は言い、ボタンを押した。

 重い音が響き、通路が明かされる。長いこと使われなかったせいで、水中に藻のようなものが舞った。水槽の中はほぼ無菌状態なので、実際には埃か何かだろう。

 二頭のイルカは元気よく通路をくぐり、侑子の目の前の水槽に躍り出た。しばらくじゃれつくような遊覧飛行を見せる。侑子が水槽の前に歩み寄ると、クララとフォスカは顔を横に並べて近づいてきた。

「顔を見るのは初めて」クララが言った。

「変な顔」フォスカが言った。

「調子はどんな具合?」と侑子。

「思ったよりわるくないかも」

「あの怖い声も聞こえないし」

 実験の心得その一。比較すべし。なんだって比較対象がいなければ、どんな結果が得られたか判別しづらい。イルカの様子を見れば、彼らがよき友になりうるのは照明されたに等しい。あとは人間だけだ。

 侑子は上着を脱ぎシャツ一枚になると、水槽の上へと登った。ここは水族館のようで水族館でないので、裏口から水槽の上部に上がるのは容易だった。

 金網の床に足を乗せると、その下はもう巨大な水槽だった。二頭の影が時おり足元を通り過ぎる。侑子はその高台から計器類がちゃんと作動しているのを、もう一度確認した。大丈夫。上手くやれる。

 明日の朝、出勤してきた職員が見るののは元気に泳ぐイルカ、いくつかのデータ、そして…。

「あ」

 侑子は急いで階段を降りると、自分のロッカーに向かった。シャツもズボンも脱ぎ去り全裸になると、服を全てロッカーの中に押し込んだ。いくら研究のためとはいえ、自身の下着を晒すわけにはいかない。彼女はここにきて恥じらいを持つ自分に少し笑った。


 今一度金網の床に立つ。水槽のふちをぐるっと囲むように設置してある床には、同じようにぐるりと柵が設けられている。その切れ間は丁度水槽の中央にある。侑子はその際に立ち、飛び込み選手の心持ちで下を見つめた。後悔はない。やれることをやって来たし、やるべきことも分かっている。

 彼女の心境は穏やかなものだった。この先の世界を見れないのが少し残念ではあるけれど、どうせ長くはない命なのだ。

 息を大きく吐いた。侑子は、直立の姿勢で重心を前に倒しながら体を横に捻った。彼女の体は半回転して空中に投げ出される。が、次の瞬間には水中にいた。肺に酸素がないせいで彼女の体は月面にいるように、ゆっくり落下していった。クララとフォスカは来客に喜び、侑子の周りを泳ぎまわる。イルカのヒレが生み出す水流の強さに驚きながら、侑子の意識は遠のいていった。

 ザブンッ。

 イルカのものとも違う音が、銀河の果てから聞こえた気がした。


 侑子がもたらしたデータは21世紀に多大な影響を与えることになる。自身を実験台に使ったことで、彼女をピロリ菌の逸話になぞらえる者もいたが、はっきり言って、それ以上の価値があるかもしれない。液体コンピュータ。水分子燃料。そしてかねてからの願いであったプラスチックだけを溶かす液体。それらの実現が夢物語でなくなりそうなのだ。

 侑子にはそのどれも魅力的には見えなかったが。

 

「なんでわかったの?」思い切って侑子は聞いてみた。

「君は間違っても、僕の手に触れるような女じゃない」笹井はぶっきらぼうに答えた。

 二人は浅倉研究所にいた。あの頃と違い、研究員は彼ら二人しかいない。散々コピーとデータを取れたので、浅倉研究所はその存在自体が不要になっていた。

 液体人間も殺処分が決まった。侑子の願いは最も不本意な形で実現したことになる。でも文句は言えない。この状況は彼女の行動の産物だからだ。

 侑子はためらいなくボタンを押した。水槽を照らしていた光が消え、液体人間が死滅したことを示す。

「結局、液体人間っなんだったのかな?」侑子は言った。

「これは俺の想像だけど、液体人間は人間の祖先。いや全ての生物の祖先だったんじゃないか」笹井は言った。「その時代にはまさに無限の可能性があった。あの技術があればどんな問題だって解決できたはずだ。でも、肝心の問題がなかった。だから生み出すことにしたんだ。とにかく厄介ごとをつくる人間や、それらの生物を。でも、いつしか液体人間より我々の方が強くなって、彼らは時代に置き去りになってしまったんだ」

「面白い仮説だけど、それなら私たちの生きる意味って問題を起こすってことだけにならない?」

「間違っちゃいないと思うが」

「なんか、ムカつく。例えそうだとしても、私は賛同しかねるね」

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