7 クララとフォスカ

 液体人間が振動しているのは生物である以上当然というべきか。そう言う人もいるが、果たしてあれを生物と言ってよいものかという問題は残る。ここでその手の議論をする気はないが、五十年以上経っても、あれをちゃんと定義することは叶わなかった。それは大昔に誰かがつくった数学の問題みたいにただそこにあって、次々に新しい側面を見せては、肝心の謎に触れさせもしないのだ。

 侑子の仮説は単純だった。あれは生物だし、振動は彼の言語である。であるならば、彼に自分自身のことを喋らせれば済むことだ。彼女の説は発表当時こそ、注目を集めたが、彼女自身が液体人間絶対殺すウーマンであると露呈してからは、賛同者は笹井一人になっていた。その笹井の賛同も心から賛同ではなく、あれと喋れるなら喋ってみたいという、ガキみたいな好奇心に裏打ちされたものだった。

 彼女がなぜ液体人間を殺したいのか、本人は決して話したがらない。それを知るには氷見家の歴史を調べる他ない。彼女にとっての不幸は、氷見家が放射能によって遺伝子を壊された家系として、世界中に知られていることだろう。今やネットで少し検索すれば、関連記事が五万件ヒットする。彼女がどんな幼少期を過ごしたかは想像に難くない。そして、なぜ液体人間を殺したいのかも。


 四カ月は長いようで短い。特に大人になってから瞬きした瞬間に過去になっているほどだ。侑子は可及的速やかに、解決策をみつけださなければならなかった。しかし、どうやって?

 実を言うと侑子にはアイデアがあった。ものすごく突飛で馬鹿らしいため、誰にも言わないでおいたものだ。でも一番最初に思いついたアイデアでもあった。これが現実のものとなれば、世界は少しだけ愉快になるかもしれないと、彼女は考えていたが、成功する可能性は低かった。というかゼロに等しかった。


 研究室の壁には新たにモニターが追加され、侑子の新しい仲間の姿が映し出されている。その仲間は二人いて、液体人間で満たされた水槽とは別の水槽で元気に泳いでいた。流線形の体をくねらせて片方が水面スレスレまで水中を上昇すると、もう片方もそれに倣うように上昇する。水の中で二人は飛び回ることができた。

 その二人はイルカであった。

「おはよう」侑子が呼びかける。

「おはよう、ユーコ」

「おはよう、ユーコ」

 小さい方をクララ、大きい方をフォスカと命名されたイルカたちは、口々に挨拶する。実際には人間の耳では聞くことのできない超音波が、水槽の中に響いている。

 イギリスの研究でイルカは人間の想像よりも遥かに利口な生き物だということがわかっていた。イルカと話せる技術も追って開発されていた。イルカは超音波を出す。超音波を音波に返還する。音波にそれぞれ意味のある言語を割り振る。丁度、機械語とプログラミング言語の関係のようなものだ。こっちの言葉はその逆の工程を踏めばよい。

侑子の頭に浮かんでいるのは通訳の二文字だった。

「それじゃあ、練習通りお願いね」と侑子。

「練習通りだって、今の聞いたフォスカ」

「聞いた。私たちを水族館のイルカ扱いしてるんだわ」

「屈辱的だわ」

「それに差別的」

 グルグル泳ぎ回りながら喚き散らす二人を無視して、侑子は準備を進める。

「上手くいくといいが」笹井が言った。

「上手くいかなかったら、それまでだよ」

 抑揚のない声で侑子が言ったが、内心成功を祈らずにはいられなかった。これが失敗すれば、研究室は閉鎖。二度と浅倉研究所の門をくぐることも出来なくなる。

「よし、じゃあまずはファイル四番から」侑子は言った。

 指示を受けた研究員の一人がエンターキーを押す。途端にエレキギターに似た電子音が研究室と、イルカのいる水槽に流れた。クララとフォスカは耳を傾けるように泳ぐスピードを緩めた。

「どう?」と侑子。

「分かんない。あんまり好きじゃない音」

 クララが言った。二頭のイルカの内、最初に口を開くのはいつもクララだった。

「私も分かんない」フォスカも続けていった。

「五番お願い」

 ギターの音に代り、テクノのような音が響く。人間の耳には少々やかましい。それでもイルカたちは文句を言わず、体中で音を吟味していた。

「ちっとも分からないわ。でも楽しい音ね」

「私もそう思う」フォスカはくるくるとその場で回って見せた。つられてクララも周り始める。

「七番」侑子が言った。

 今度の雅楽のような音が流れると、クララとフォスカはさっきまでの楽しそうな踊りをピタッとやめ、気が狂ったように泳ぎ始めた。

「どうしたの?」侑子はイルカにではなく、研究員たちに言った。

「分かりません」研究員の一人が言った。「中断しますか?」

「いや、続けるんだ」笹井が言った。

「音量を落として」侑子の指示はすぐに反映される。

 水槽に流れる小さくなるごとに、イルカたちは正気を取り戻していった。イルカの表情なんて読み取れないが、水槽の隅の方を弱々しく泳ぐその姿はおびえているようだった。

「怖い声」クララが言った。

「理解できたの?」侑子がマイクに向かってしゃべった。

「色んな感情」フォスカが言った。「すごく恨んでるとか、とても楽しいとか。たくさんの感情で頭がいっぱいになった。でも」

 クララがあとを引き継いだ。「言ってることは一つ。殺してくれって」

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