6 浅倉研究所

 ロッカーに掛けられた白衣を着て、氷見侑子はエレベーターへ向かう。エレベーターの前には警備員が一人。侑子は警備員に首から下げたパスを見せ、エレベーターに乗り込んだ。扉が閉じる直前、同じく白衣を着た若い男が駆け込んでくる。

「今日休みじゃなかった?」息を整えてから笹井清隆(略してササキヨ)は言った。

「もういい。十分休んだ。仕事しなきゃ」

「ワーカホリックか、若いのに。恋人の一つくらい作んないともったいないぞ」

「興味ない」

 エレベーターは長いこと下降し、ようやっとB1のランプがオレンジ色に灯る。その間には一つも階はなかった。

 地上と地下とを結ぶエレベーターの扉が開くと、目の前には巨大な水槽が青白く光っていた。閉館後の水族館のようだったが、水槽の中には一匹も魚は泳いでいない。それどころか、微生物一つだっていないかもしれなかった。水槽の前に並べられた計器類も、ここが水族館でないことを証明していた。所せましと並べられたそれらは、ほとんどが解析用のコンピューター群であり、その狭い間を縫って研究員たちは各々の作業を進めていた。

 エレベーター降りた侑子は水槽には近寄らず、そのまま自分の研究室に足を向けた。笹井もあとに続く。コンクリートが打ちっぱなしの廊下の先に、侑子たちの研究室はある。カビと埃のにおいに顔をしかめながら、侑子は研究室のドアを開いた。

「どんな具合?」と侑子。

「いつも通りです。規則性なし」ディスプレイに向かっていた一人が、侑子の方を見ずに答える。

 幾度となく繰り返された問答は、いつしか挨拶のようになっていた。侑子は白衣を椅子に掛け、研究室の壁に付けられたモニターを見上げた。そこにはさっきの巨大な水槽を真正面から捉えたライブ映像が映し出されていた。

「ホントどうやったら殺せるんだろうね」侑子は呟いた。

「殺したいのは君一人かもよ」後から入ってきた笹井はコーヒーを淹れながら言った。君も飲むか?と目で聞いてくるが、侑子はそれを断る。

「コーヒー飲まない。うんこしたくなるから」

 笹井はハハハと渇いた笑い声をあげた。他の研究員たちは聞こえないフリをした。

「どうしてそこまで殺したいのか、そういえば聞いてなかったな」

「生かしておいて何か得なことでもあるの?」

「さぁ、それはわからないけどさ。例えば、プラスチックを溶かすように上手く調整できれば、環境問題を解決するかも」

「高校の社会科の先生も同じこと言ってた。科学者に夢見すぎ」

「科学は夢そのものだろ」

「どーだか」

 水槽に収められた液体人間はその活動を停止していた。しかしながら、完全に死んでしまったわけではなかった。わずかながら反応を示し、水槽を満たす溶液が消えればまた人間を襲うのは明白だった。

 侑子たちが属するこの浅倉研究所は、この冬眠した液体人間を管理しながらそのメカニズムを解明するための施設であった。もっとも、そこに属する多くの科学者は液体人間を人類の発展のために利用しようと考えている点で、侑子と相容れなかった。

「液体人間は危険すぎる。人がそれを操れると思うのは傲慢だよ」侑子は言った。

「世界が核に溢れても、意外と人類は滅びてない。もう少し肩の力を抜いたらどうだい?」笹井が言った。

 笹井は自分のデスクにつき、パソコンの電源を入れる。仕事に取り掛かる時間だ。

 水槽の液体人間は僅かに振動している。水分子のクラスタ同士が擦れるためだ。そのことに何の意味があるものかと、多くの学者は考えたが、侑子は違った。その振動は液体人間のメッセージだという確信に近い仮説を彼女は持っていたのだった。

 そして、彼女はそれを立証しようともがいている真っ最中なのだ。

「仮に振動が液体人間の言語だとして、ここまで規則性がないのはやっぱりおかしいだろ」笹井は言った。

「でも普通の水じゃこんなに揺れないでしょ。私には何かってるようにしか思えないの」

 侑子が合図するとスピーカーから振動を電子ピアノの音が流れる。波形パターンを楽器に置き換える試みだ。ピアノはは初めの二音ほど心地よい旋律を奏でたが、それ以降はリズムもコードもめちゃくちゃで鍵盤の上をネズミが百匹走り回っているようだった。侑子は少し肩を落とした。

「気にすることはない。続けてればそのうち何か見つけられるさ」

 笹井が気を遣って言ったが、侑子の顔は晴れない。侑子はモニターを見上げ机に浅く腰掛ける。

「年内にここ、閉鎖になるの。言ってなかったけど」

 笹井だけでなく、研究室の全員が顔を見合わせて驚いた。侑子だけが液体人間を見ていた。なんの成果の望めない研究室に予算をつぎ込むほど、浅倉研究所に余裕はないのだ。

「年内って、あと四か月しかないぞ」笹井が言った。

「ん。だから急がないと」



 

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