5 淀橋にて
新宿駅の西側。何もないだだっ広い土地を利用して、淀橋浄水場は建てられた。そこが決戦の舞台だった。
「いいんですかね。東京の上水はほとんどここに頼り切りなのに」手元の資料を見ながら佐々木が言った。
「東京湾から下水を遡ってきてるならば、ここは絶好の袋小路になる。それに」氷見はスーツにヘルメットを被った、老人たちを見やる。「跡地を利用して再開発もできるしな」
「呑気なもんですね」
「それがアイツらの仕事さ。ともかくお互い東京の狭さに助けられたわけだ」
淀橋浄水場では急ピッチで作業が進められていた。下水管の一部を浄水場の貯水池に直接つなげる作業も並行して行われている。二時間後には都民に安全な水を届ける施設は姿を消し、液体人間を殺す兵器に姿を変える。
「つまり、より結合しやすい偽のH2Oを大量に混ぜ合わせることによって、水分子同士の接続にエラーを発生させ、液体生命体を溶かすことができるはず」浅倉は青空の下に黒板を引っ張ってきて、お上さんに作戦の概略を説明していた。「丁度タバコのニコチンが脳にもたらす影響と似た感じかね」
浅倉がタバコを例にとったせいで大勢の喫煙者が苦い顔をした。氷見も口をへの字にして火を点けようとしたタバコをしまった。
「作戦の第一段階はこうだ。下水に潜む奴を上手く誘導し、ここまで来させる。誘導には火炎と弾薬を使う」浅倉は地図を指でなぞるようにして説明する。「第二段階として、液体生命体を浄水場内に閉じ込める」
浅倉は地図の浄水場の位置をを指で叩いた。
「上手く閉じ込められるのか?相手は液体だろう」質問が出る。
「浄水場の貯水池、仮にそう呼ぶが、そこの部分の壁全体に多重の撥水加工を施し脱出を防ぐ。おそらくは大丈夫なはず」浅倉は段々と早口になっていた。「第三段階として液体生命体を溶かす。幸いにも浄水場には隣接する貯水池が山ほどある。そこから液体生命体のいる貯水池に偽水を流しこめるはずだ」
お上たちはそれぞれに隣の者と密談を始めた。浅倉としては一刻も早く現場に戻りたかったため、解放されるまでイライラが募っていた。
「分かった。君に任せよう。作戦の成功を願っているよ」
誰が言ったかは浅倉にはさして重要じゃなかった。
「どうも。精一杯頑張ります」
氷見は防護服に身を包み、マンホールの前に立った。作戦開始まで残り数分といったところだ。氷見は地図を穴が開くほど睨みつけ、ルートを頭に刻んでいた。
「氷見さんが行く必要ないですよ。ましてや囮なんて」佐々木は言った。
「いや俺みたいなもんがやるべきなんだ」
佐々木は氷見の顔に裁かれたがっている罪人の色を見た気がした。
「自惚れないでくださいね。何があったか知りませんけど」佐々木は強く諭した。
あっけにとられた氷見は一瞬佐々木を見つめ返したが、すぐに高く笑った。
「それでもやりゃないかんのよ」
「1minute to go」ヘルメットを被った外国人が無駄に声を張り上げている。
「彼、ずっといますね」と佐々木。
「協力した事実が欲しいんだろ。これが終わったら『液体人間は我が国のものだ』って言いだすぞ」
「笑えないですよ。その冗談」
「笑っとけ」
無線が東京中を駆け巡り、一つの作戦実行に備えている。突貫で作られた下水を遮断する壁が続々と下ろされて、淀橋浄水場へのルートが一つに絞られていく。武装した警察部隊が河口側から進行をはじめた。
「30 seconds to go」
「いよいよですね」佐々木が言った。
「ああ。ケリをつけよう」
ゴーグルを装着し、拳銃を腰にさした。佐々木がガイガーカウンターを手渡そうとするが、それを拒む。
「邪魔になるだけだ」
代わりに懐中電灯を手に取る。カウントダウンが始まった。
「Ten nine eight seven six five four three...」
マンホールの中の梯子に足をかけ、ゆっくりと下っていく氷見を佐々木はしばらく見つめていた。やがて地下の闇の中に氷見が姿を消すと、佐々木は周りにいた男たちと協力してマンホールの蓋を閉じた。
「 It'time. Farewell」
地下の下水道は暗く、入り組んでおり、光と地図がなければ必ず迷子になってしまうだろう。警察隊は隊列を組み、慎重に歩幅を合わせていた。警察部隊の中に実際の液体人間を見た者はいなかったが、都全域を巻き込んだ作戦に気を引き締める思いは共通していた。
「A班ポイント2を進行中」隊員の耳に音声が流れた。
各班の動向は地上から指揮されている。振動に反応する可能性を浅倉が指摘していたため、地下に潜る部隊は声を発することが禁じられ、隊長には二つのボタンが付いた装置を渡された。それぞれ「ポイントに到着」「発見」の意味だ。隊長がボタンを押せば地上に信号が伝わり、そこで集まった情報をもとに「命令」決定され、オープンチャンネルで地下に伝達される仕組みだ。
「B班ポイント3の1を左へ曲がり、そのまま進め」耳元では絶えず各班に対する命令が下され、暗い地下にいようとも仲間がどこにいるのかが分かった。
「各班、依然進行中。目標は確認できず」
「そのまま進行。目標は下水に隠れている可能性もある。慎重に探せ」
「了解。各班下水に注意。目標が潜伏している可能性アリ」
ホワイトボードに貼られた地下の地図には封鎖されたポイントに赤い×印がつけられ、そこに警察部隊が通過したポイントが書き加えられていく。徐々にその距離は淀橋浄水場へと近づく。佐々木は腕を組んで指揮系統の無感情なやり取りを見守っていた。なにも起きていないような静けさがあったが、確実に液体人間との対峙はやってくる。その時は氷見も。佐々木の心臓は知らずのうちに早鐘を打っていた。
「A班目標を発見」
緊張が走る。佐々木も思わず体に力が入る。
「続けてB班、C班、A班の援護ポイントに待機完了」
指揮を任されていた男は、現場の緊張を肌に伝わせながら報告を受けた。それから微塵も緊張を感じさせない声量で命令を発する。
「撃て」
指揮現場はその言葉を最後に静まりかえった。
氷見は暗闇の中、液体人間との邂逅を待っていた。時折、ポチャンと垂れてくる水滴の他は無音だった。氷見の耳にも指揮は届いていた。最後の命令が下されてから、もう三十分以上経っている。作戦が予定通り進んでいれば、そこまで時間はかからないはずだ。その時だった。
「作戦は失敗。総員退却。繰り返す、総員退却」耳に指令が入る。
失敗。氷見の頭の中でその言葉が反芻される。何が起きたかは分からないが、液体人間をここまで誘導することは叶わなったということだ。
氷見は地上の様子を想像した。今頃警察部隊の救護に追われて、てんやわんやだろう。きっと誰もが微かな絶望を味わっている。誰も氷見のことを気にしてる余裕がない。氷見は少し笑ると、念のため持ってきていた送信機で「発見」のボタンを押し、地下を南西の方角へジグザグに向かった。
何個も角を曲がり、下水が流れるより早く氷見は液体人間のいる方へ走った。暗闇は方向感覚だけでなく、時間の感覚も奪う。もといた場所から離れて、どれくらい経ったか氷見は見失いそうだった。一分か、一時間か、刺激臭のする迷路を進むだ氷見は、やがて視界が青い蛍光色に包まれ始めたのに気が付いた。
それは液体人間の放つ光だった。鍾乳洞に遍く鉱石のような神秘的な光。氷見はそれを美しいと思った。
液体人間は人のシルエットをしていた。下半身をどっぷり下水につけながら、ユラユラと佇んでいる。その表層は噴水のように流れ落ちていて、体内と対流の関係を築いている。首と腕に当たる部分はその細かさを維持できないのか、時折崩れて、大きな塊をずるりと落としていた。前を向いているのか後ろを向いているのか分からない。氷見は身を隠しながら、絶えず発光する液体人間を観察していた。
液体人間の足元には黒い山があった。それらは全て衣服だった。弔うのは全部が終わってからだ。氷見はシングルアクションで液体人間の頭を撃ちぬくと、背を向けて走り出した。青い光が触手のようになって追いかけてくるのが分かった。
触手が氷見の肩に触れそうになる。氷見はすかさず拳銃でそれを撃ち抜く。淀橋浄水場までの距離はおよそ1.5キロメートルある。気を抜くことは出来なかった。氷見の体力が奪われるのと反比例して、液体人間の触手はその猛攻を強めていった。弾がなくなり、拳銃自体を投げつけると、もうずれたゴーグルを直す余裕もなくなり、素顔を晒しながら氷見は走った。
すると突然開けた場所に出る。そこはまごうことなき浄水場の貯水池だった。氷見はやり遂げた。振り返ると触手の群れが下水いっぱいに詰まって、氷見に襲い掛かろうと突進してきていた。
自分の役割は終わった。あとは上の連中が何とかしてくれるはずだ。
迫りくる自分の運命を、氷見は目を閉じずにじっと見つめていた。ここで終わりだと思った。それだけに、目の前に垂れさがったロープに必死で捕まった自分が信じられなかった。
「無茶しますね」佐々木が息切れしながら言った。「上手くいったからいいものを」
貯水池は封鎖され、すぐさま放水が始まっていた。ダムの近くにいるような轟音が足元から聞こえる。
「作戦続行はボタンで伝えたろ?」
「まさか。気づいたのは僕だけでしたよ」
氷見は貯水池を上から覗き込んだ。もう三割ほど水が注がれている。
「こっちも上手くいったみたいだな」氷見は言った。
「そうですね」
「圧巻だな」
大量の水が貯水池に大きな滝となって落ちる様は、氷見たちの目を奪うのに十分な魅力を備えていた。放たれた水は白く爆発したかのように霧散し、容赦なく水面を叩きに向かう。本来であれば壁伝いに流して威力を弱めるところを、突貫工事のため直接流し込んでいるのだ。叩きつけられた水の一部はミストと化し、上空へ巻き上げられる。それでもまだまだ水位が足りないために、ミストはドライアイスの霧のように、氷見たちの足の遥か下にとどまっていた。
浅倉の喜々とした表情が浮かぶ。ここからは彼らは忙しくなるだろう。
「帰るか」氷見は防護服を脱いだ。
氷見の耳には指揮を伝える機器がダランと垂れ下がっていた。それは氷見自身と同じく一つの大きな仕事を終えて、次の出番まで沈黙を守るはずだった。
「オ…オレハ…ミ…ミタ」
ノイズにしてははっきりとした音。死にかけの男のような低い声にも思える。それが氷見の耳に流れてきた。咄嗟に彼は機器を耳に押し当て、さらなる音に備えたがのだが、それ以上は何も聞こえなかった。
「どうしました?」と佐々木。
「いや、なんでもない。気のせいだと思う」
氷見はさらに語尾を飲み込んだ。自分の発言に自信が持てなかったからだ。
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