4 サルピルマンダ

 戦争に勝つために必要なこととは、国民全員がよき国民であることである。政治家はよき政治家に、将軍はよき将軍に、兵士はよき兵士に、市民はよき市民に。それぞれが己の職務を全うした先に勝利がある。

 氷見は兵士だった。よき兵士だ。兵士は与えられた任務を忠実にこなす。あの時、氷見は軍の生き残り、もしくは若い男を優先して助けるように命令を受けていた。同様の命令を受けた即席の編成を束ねて。仲間の内では現場を見て絶望に唇を白くさせている者も少なくなかった。

 小さな手。それが氷見の腰のあたりに伸びてくる。チラと見下ろすと、髪が縮れた黒い顔の子どもがいた。目だけが浮いてるように氷見を見上げている。服もボロボロになって、少女か少年かも知れない。氷見は兵士が持つ最大限の優しさを発揮し、その子どもの親を一秒探してやり、誰もこの子どもにかまってやれる余裕がないことを確認すると、子どもの手を払い捜索に戻った。

 子どもは腰に抱き着いてきた。今度は見もせずに蹴り飛ばした。それっきりその子どもはどこかへ去り、二度と氷見の前には現れなかった。


 氷見は白昼夢の中、子どもの後ろ姿を見た気がしていた。絶対に振り返ることがないと分かる背中。その背中から目が離せないでいた。

「大丈夫ですか?」

 佐々木の声で目が覚めた。氷見は爆発に巻き込まれてから(自分で起こしたのだが)というもの、頭はボーっとするし、耳鳴りは酷いし、鼻の奥がやけどでヒリヒリするしで散々な思いをしていた。特に大人しく座っていないといけない場では気が紛れず、一分が一時間に感じられる。

「大丈夫だ。問題ない」

 『液体人間特別対策』会議は厳かに執り行われていた。その目的は液体人間の殲滅にあった。

「こうしている間にも液体人間は人を襲うかもしれない。早急に対策を講じなければ」誰かが言った。

「分かっています。そこでこの会議での決定は極めて例外的に自衛隊、警察を直轄し、必要な手続きを全て無視して命令を下すことができます」偉そうな誰かが言った。

「そんなこと法治国家としてゆるされないだろ」

「ええ、ですからこの会議は完全非公開。記録にも残りませんし、会議が終了し次第、その効力を永久に失います。集まって頂いた皆さんには、名前を公表せず、素顔も晒さないようご配慮ください」

 どうりで部屋が暗いわけだ。と氷見は思った。机を挟んで向こう側の顔は見えず、横もパーテーションで区切られている。

「まずはその液体人間がどうゆうものなのか、それを知らねば話になるまい」誰かが言った。

 議長らしき人物(上座に座っている)が目配せを送る。佐々木が気付き、氷見へ下知らせた。氷見は苦労しながら立ち上がり、顔の見えない有識者を前に話始めた。

「氷見です」佐々木がため息をつくのが分かった。「液体人間、どうもその呼び名に慣れませんが、奴はドロドロとした緑色の液体で、人を執拗に溶かしてはその体積を増しているように思われます。最後に私が見た時は、キャバレーの厨房の床を足首の高さまで満たしていました」

「それで?それがどうやって人を溶かすと?」小馬鹿にしたように誰かが言った。

「こうやってです」

 氷見は左手の包帯を外し、薬指と小指のない手を全員に晒した。会議室の中にどよめきが起こる。実際には、その手の傷は拳銃で吹き飛ばしたことによるものがほとんどだったのだが、氷見が液体人間と対峙し、生還したことを示すには十分すぎる証拠だった。氷見は包帯を巻き直しながら話を続ける。

「拳銃ではひるませる以上の効果がありませんでした。ガス爆発も同様です。奴を葬り去るには別の方法を考える必要があるでしょうね」

「別の方法とは?」

「さぁ、それを見つけるのがあなた方のお仕事では?」

 しばしの沈黙があって、また別の誰かが言った。

「そもそもあれはどこから来たんだ?自然界に元々いたのか?」

「その点についてはお手元の資料をご覧ください」

 全員の手元には浅倉の論文が置かれていた。その論文では、人間などの生命体は特殊なγ線、exγ線と暫定的に呼称、を浴びることによってその姿を液体へと変化させる可能性が示唆されていた。

「液体人間は東京湾に漂着したマルタ号より出現したとの考えが有力です。そしてそのマルタ号は半年ほど前、ビキニ環礁付近を航行していた可能性があります」

「つまり奴さんが生まれたのは、奴さんのせいだと」

「Calm down」誰かが言った。「No problem」


 下水に身を隠す液体人間に対し、最初の火炎作戦は滞りなく失敗した。爆発が効かないのだから、火炎も効かないと氷見は思っていたが、その通りになった。

「氷結作戦を提示します」

 これも失敗。凍らせることは出来たが、維持することも殲滅もできなかった。

「相手が液体なら電気分解させるのはどうだろうか」

 失敗。凶暴性が増す事態になった。

「Damm it」誰かが言った。

「僕たちここにいる意味あります?」小声で話す佐々木に氷見は同意する。

「そうだな。芹沢博士に会いに行こう」


 浅倉は憤慨していた。ようやっと自身の主張が正しいと証明されたのに、召喚されたのは論文だけだったからだ。

「学会の 異端と騒がれ 罵られ 全員まとめて 殴りたい冬」

「いい歌ですね」佐々木が心にもないことを言った。

「なにがいいのか言ってみろい!」浅倉は大声でけしかけた。

「え、いや、なんて言うか、感情が前面に出てて、それから」

「もういい!それでなんの用だ?」

「先生なら奴の撃退方法を知ってるんじゃないかと思いまして」氷見は言った。

「分かるかそんなもん!私より頭のいい学者に聞けい!てやんでぇばっきゃろーちくしょうめ!思いついてても誰があいつらのためになんか働くかってんだ!」

「落ち着くまで外で待ちますか?」佐々木は目配せしたが、氷見はかぶりを振る。

「浅倉さん、今こうしている間にも被害は拡大しているんです。できることをやりましょう。思いつかないなら、一緒に考えますから」

「嫌なこったい」

「浅倉さん。お願いします」

「……」


 氷見と佐々木には黒板に書かれた化学式を一つも理解できなかった。浅倉の言ってることも。

「私たちに分かるように説明できますか?」佐々木は言った。

 浅倉はため息を隠そうともしない。十分わかりやすい説明を心がけていたからだ。嘘だと思うなら、1+2=3を両手の指を使って子どもに説明しているところを想像してみるといい。それでも子どもが分からないと言ってきたとしたら、誰だってお手上げだ。

「まぁ要するにだ。あの液状生命体は水分がある限り自己複製を繰り返し、特定の有機体を溶かす性質を持ってるということだ」浅倉は投げやりに言った。

 その説明は間違ったものではないのだが、液体人間の持つ特徴の表層を舐める程度の説明でしかないため、浅倉は自身の発言に納得がいかないばかりか、そんな発言をしてしまったことを地獄の同業種たちに恥じた。

「完全に滅却することは叶わない?」と氷見。

「東京中の電気を流し込んで、下水ごと爆破すればあるいは」

 しばらくの沈黙。

「質問しても?」佐々木は言った。

「ん」

「ずっと疑問だったんですが、なんでその液体は下水と混ざらないですか?水分同士なら溶けてなくなるはずでは?」

「それは」浅倉は言葉に詰まった。

 またも沈黙が流れるが、今度は浅倉の言葉を二人が待つ形だ。だが、浅倉は考え込んだのち、黒板に向かってしまった。氷見は両手を頭の後ろに組んで背もたれに寄りかかった。呆れてるのかと佐々木がその横顔を盗み見ると、微かに笑っているのが分かった。

「いけるかもしれん」

 浅倉が小声で呟いたとき、氷見は船で漕ぎ出す寸前だった。佐々木の方も何度目かのあくびをかみ殺していた。

「何か分かったんですか」氷見は言った。

「ああ、確証は持てんが、計算上は問題ないはずだ。これで奴を撃滅できる」

「よし、やりましょう」氷見は概要も聞かずに言ってのけた。そして反対意見を先回りして続けた。「どっちみち万策尽きてる」


 水に溶けるというのはどういうことか。簡単に言えば水分子が持つ、マイナスとプラスのイオンが他分子を引き裂くことを言う。人間がプールで溶けないのは、人間の皮膚や細胞にマイナスのイオンも、プラスのイオンも帯びていない層があるからだ。液体人間はそれを捻じ曲げると浅倉は仮定していた。つまるところ、イオンを持っていないものにイオンを持たせる性質だ。

 そのイオンはどこから来るのか?分からない。ここでも浅倉は仮定するしかない。水の中にイオンを付与する細菌がいるとしよう。その細菌は水のクラスタの中にいて、同じ細菌を持つ水のクラスタと仲良くする傾向がある。細菌が持っていられる水分子には限りがあるから、他のただの水とは混ざらない。そして、特定の有機体を溶かした時、自身の複製を行い巨大化していくのだ。

 であるならば、その細菌と結びつきやすい水分子を作って、逆に溶かしてやればよいのではないか。それが浅倉の考えだった。

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