3 広島から来た男
通報から五分後には運よく近くにいた氷見と佐々木が現場に駆け付けていた。キャバレーの外には人だかりができており、二人はそれをかき分けて進んだ。やがて制服姿の警官が一人で規制を張っているのに突き当たる。
「状況は?」氷見が言った。
「建物は完全に封鎖しました。ですが、中にまだ人が残ってる可能性が」
救急車や消防車のサイレンが近づく。入り組んだ裏路地に苦労している様子だ。現場に着くにはもう少しかかるだろう。
「中に入る。佐々木、お前はここで待機しとけ」氷見は言った。
「危険ですって言っても聞かないんでしょうね」
「だいぶ俺のことが分かってきたんじゃないか。え?」
軽口をたたきながら氷見は腰の拳銃を抜き、シリンダーを覗き込んだ。綺麗に押し込められた弾丸が光を反射する。氷見はホルスターに拳銃を戻し、ガイガーカウンターを肩にかけると、人だかりから離れてキャバレーの中へと入っていった。
シンと静まり返った室内は、煌びやかな照明とは対照的だった。床に散乱したグラスや、ひっくり返った椅子などが事態の騒然さを思わせる。氷見は舞台を見上げる位置に立ち、辺りを見回す。
「誰かいるか?」大声でそう言うと、声は上手い具合に反響して大広間全体に響いた。「誰かいるなら返事してくれ。俺はケーサツだ。救助に来た」
やまびこの最後のように氷見の声は消え入り、またシンとした静寂が戻る。氷見は望ましい反応が得られなかったときの舞台役者のように肩をすくめて見せた。それから舞台の裏や、楽屋の方を調べようと踏み出した瞬間、微かな物音が氷見の足を止めた。
大広間から厨房へと続く通路にはバリケードのようにテーブルやイスが積まれてあった。何かの侵入を拒むように。音はその向こうから聞こえてきたいた。氷見が近づくとまた何かが金属にぶつかる軽い音が聞こえてくる。氷見は拳銃を抜いた。
結論から言ってそれは液体人間が人間を飲み込む際に、人間の手が脊髄反射で跳ねてテーブルの脚に当たる音だった。それを確認した刹那、氷見は液体人間に向かって引き金を引いた。血の混じった緑色の液体は飛び跳ねて奥へ逃げていく。氷見は倒れていたその人の安否を確かめようと膝を折るが、助かる見込みがないことが分かるだけだった。そっと瞼を閉じてやり、氷見は片手で合掌した。
氷見の顔はあからさまに曇っていた。思い出したくもないあの記憶が脳裏をよぎる。それを見て見ぬフリをするように、氷見は肩にかけてきたガイガーカウンターを構えた。液体が逃げて行った方にガリガリッと反応を示す。彼は恐る恐る奥へと進んだ。
厨房もまたシンと静まり返り、およそ人の気配はなかった。しかし液体人間はどこかにいるかもしれない。厨房は真ん中に大きなアイランド型の調理場があって、それを取り囲むように洗い場、コンロ、オーブン、食器棚が置かれている。キャバレーにしてはかなりちゃんとした設備だ。氷見はガイガーカウンターを四方に向けながら調理場の周りを回った。先ほどまであった反応は厨房に入った途端、なくなってしまっていた。氷見はガイガーカウンターを下ろし、洗い場を覗き込む。そこから逃げられてしまったという推理が彼の頭に浮かんだ。
「誰もいないか?」最後に氷見は呼びかけたが返事はなかった。
そして厨房から退散しようとした氷見だったが、もう一つ目にとまったことを試してみる気になり、彼は調理場に土足のまま登った。それは調理場の丁度真上にあった換気扇の穴である。氷見はガイガーカウンターをもう一度構え、その穴へ近づける。
ガリガリ!バリバリバリ!ガーーー!
瞬間強い反応を示した。驚いた氷見が身を引くと、換気扇の穴からは緑色の液体が垂れてきた。氷見はすぐさま拳銃に手をかけようとしたが、ガイガーカウンターの反応はそれだけでは終わらなかった。
ガーーーーー!ガッ!バリバリ!!!
換気扇から離れた後も強い反応を示し続ける。その所在を確かめようと氷見は調理場の上で一回りするが、ガイガーカウンターを向けたすべての場所から強い反応が返ってきたのだった。
やがて、緑色の液体はコンロの隙間から、洗い場の排水溝から、はたまた壁のわずかな隙間から滲み湧いてきて、皿を倒し、調理器具を押しのけて氷見のいる方へ這って出てきた。
「なんだとて」そう呟いた氷見の頬を汗が流れた。
腕時計を見やる佐々木は氷見の帰りが遅いことに難色の色を示していた。何かしらの反応があってもいいものだが、キャバレーは爛々としたネオンを光らせるだけで、依然として沈黙していた。
消防車か救急車のサイレンが曲がり角の先まで近づき、佐々木はそっちの方へ視線を移した。やっと来たかと佐々木が安堵したが、消防車はコンクリート塀で囲まれた狭い角を曲がり切れず、バンパーを塀にこすり付けて停止してしまった。その後ろから来た救急車は前の事態を把握できず車間距離を詰める。その後ろから来たもう一台の救急車も同じように前を詰める。あっという間に車のパズルが完成していまった。
「俺たちはジオラマに住んでいる」佐々木は自虐的に言った。
天井の隙間から垂れてきた液体が、氷見の左手の薬指の辺りにかかった。氷見は直ちに拳銃で指ごと液体を吹き飛ばし、その辺にあった手拭いで止血した。今や四方八方から溢れ出した液体は床一面を満たし、廊下への扉へはたどり着けそうもない。氷見にとって、いや、人類にとってかつてない状況だった。人間を否応なく飲み込む液体。それに触れずにどうやって部屋から脱出すればよいのか。
「参ったな。こりゃ四十を待たずに死ぬかもな」氷見は自分の運命を悟りそうだった。「まぁ仕方ないか」
1945年8月6日、氷見はあの場所にいた。陸軍の下士官として、氷見は任務に当たっていた。よき兵士であった氷見はその瞬間でさえ国に奉仕し、無傷で帰還したかに思えた。しかし、傷は氷見の体のずっと奥、遺伝子に負っていたのだ。
「四十」浅倉は言った。
「四十?」氷見はなんの数字か分からず聞き返した。が、浅倉の同情でもない、憐れみでもない重い表情を見て、なんのことか気が付いた。
「お前は四十まで生きられない」
その事実はある意味では氷見の心を軽くしたが、その後に続いて浅倉から告げられた事実は浅倉の肩に重くのしかかった。
「お前の子どもも全員だ。四十年が寿命になる」
「四十年あれば、肩こりに悩ませられるくらいには生きられるな」氷見は努めて冗談を言った。そうしないと何かが壊れそうだった。
廊下に続くドアの他に氷見は外へ繋がる窓を見つけていた。しかし窓は締め切られており、そこまでの道のりには当然、液体で満たされている。氷見は振り返り、窓の対角線上にコンロがあるのを確認した。
「やるしかない」と氷見。
氷見はライターの火を天井のスプリンクラーに近づけ作動させると、上着を脱ぎ、たっぷり水を含ませた。それを頭からかぶり、なるべく皮膚の露出を抑えてから氷見は、意を決してガスコンロへ照準を合わせるのだった。
最初に火災警報がけたたましく鳴り響いた。佐々木は何事かと顔を上げたが、続く爆発音で矢のようにキャバレーの裏に走った。爆発の黒煙はそこから上がっていた。
黒煙を吐き出す窓の下で火のついた人間がのたうち回っているのを見つけた。佐々木は自らの上着を使い、炎の酸素を奪いにかかった。幾秒かの格闘の末炎が弱まると、佐々木はその人が氷見であることを認めた。氷見は深海から這い上がったみたいに荒く呼吸をした。
「なにがあったんですか?」佐々木は黒煙立ち上る窓を見ながら言った。
「佐々木、タバコは吸うか?」
「はい?吸いませんけど」
「吸っとけ」
呼吸を整えて自分の体を持ち上げる。窓の奥で黒煙が乱れたのを氷見は見逃さなかった。ようやく現着した消防隊がホースを抱えて裏に回ってくる。遅れて救急隊が氷見に駆け寄ってきていた。
[キャバレーに液体人間の脅威迫る]
昨日未明、暗黒街のキャバレー「B29」に謎の液体が姿を現した。この液体は生物のように動き回り、目撃者の証言によれば人間の形を模していたという。にわかには信じられない話だが、この液体人間により犠牲者がでているのは事実。キャバレーの支配人でもあった千代(仮名)は大勢の客が目撃する中、液体人間によって溶かされ、帰らぬ人となった。犠牲者はこれだけにとどまらず、その数は三十一名にも及ぶ。果たしてこの液体人間はなんなのか、警察は目下捜査中との見解を発表したが、我々は独自とルートで調査を進め、同様の事件が都内で発生していたことを突き止めた。日本橋で起きた金庫強盗事件である。その事件の被疑者は三人いたがそのうちの二人は行方不明となっており、残りの一人が蠢く液体を見たと証言していたのだ。おそらくこの事件と、先日のキャバレーの事件は無関係ではない。我々が知り得ぬ場所で一体何が起きているのか、今後も取材を続けていく所存だ。
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