2 キャバレーの夜

 氷見と佐々木は荒らされた金庫の中にいた。明らかに強盗が入ったであろうことがうかがえる。しかし検分の結果、被害はないことが分かっていた。

「犯人が現れて、金庫を壊し、バッグに金を詰め、服を脱いで、全裸で帰って行った?」佐々木は言ったそばから、そのバカバカしさに呆れた。

「それしかないな。名推理だ」と氷見。

「やったー」

 氷見はひとしきり金庫の中を見渡すと、ガイガーカウンターを引っ張りだしてスイッチをオンにした。ガリガリッと微弱な反応が衣類から検出される。

「あの船の中にも、なぜか衣類だけが残っていたな」

「何が起きてるんでしょう?」

「分からん。警備員の話を聞きにいくか」

「はい」

 銀行窓口の待合室に警備員の男は座っていた。帽子を他所に置き、呼吸は浅く額に汗も滲んでいる。そのおでこの辺りにには青痣ができていて、何かに動揺してる様子だった。手に持った紙コップにはもう何も入っていないのだが、警備員の男はそれを離そうとせずにしきりに空気を飲んでいた。

「大丈夫か?あんた」氷見が言った。

「ええ、大丈夫です。とても、誰よりも」警備員の男は努めて快活に喋る。

 氷見は佐々木を見て咳払いをする。「精神的に不安定な者の証言は証拠としては乏しいものだが、捜査の上ではこの上ない収穫になる場合があるので、手を抜かずに聞き込みをしろ」という意味だ。

「もう何度もお話になっているでしょうが、もう一度お話ください。昨夜はずっとここに?」

「ええ、まぁ。それが仕事ですから」

「現場を発見された時の経緯を教えてもらえますか?」

「現場?なんの?」

「金庫に強盗が入っていたのを発見されたのはあなたですよね?」

「ええ、もちろん」

「その時のことを詳しく」

「金庫が開いてて、中が荒らされてて、それから」

 警備員の男はまた空の紙コップを口に含んだ。

「それから?」

「何も見てません。気絶していたので」

「なぜ突然気絶を?」

「自分で机の角に頭をぶつけました」

「は?」

「自分で机の角に頭をぶつけました。だからそのあとのことは覚えてませんし、強盗と私には何の関係もありません」

 氷見と佐々木は顔を見合わせた。明らかに共犯者の焦り方だった。何を言ってるんだと佐々木は思った。

「あなたが強盗に加担したかどうかは正直どうでもいいことです。私たちはあなたが強盗の一味でも逮捕しません。それは他の人の仕事です」氷見が言った。「ですが、あなたの証言は私たちにとって貴重なものです。なにがあったか詳しく教えてください」

「そう、そうですか。よかった」警備員の男は喜んだ。「ぼ、僕は見張りを頼まれただけなんだ。でも途中でやっぱり降りようと思って2人の所に行ったんだ。強盗に襲われて気絶したことにすればいいと思って。でも2人ともいなかったから仕方なく自分でやったんだ」

「2人ともいなくなったんならそのまま黙ってればいいのでは?自分を傷つける必要はないでしょうに」

「そ、そうか。でも、やっぱりだめですよ。僕が2人を見逃して中に入れたと疑われてしまう。やっぱり僕は気絶するべきだったんです」

「あなたが気絶していた場所はどこです?」

「金庫の前です」

「入口で気絶するべきでは?」

「た、確かに。すると僕は2人が消えたあと、気絶して入口に戻ればよかったのか」

 ダメだこりゃ。と佐々木は思った。

「気絶する直前に見たのは消えた2人だけですか?」氷見は最後に聞いた。

「いいえ、なんかぶよぶよした物体を見ました。外に逃げて、下水の方に吸い込まれていきましたよ。暗かったので見間違いかもしれませんが」



 キャバレーというものについて知らない者も多いかと思う。筆者もその一人だ。ここで一度ユニワールド事典のキャバレーの項目を引用してみよう。


  [キャバレー]

   フランスに起源をもつ乱痴気飲食店。紳士も淑女も一皮むけばただのサルで   

   ることを確認し、安心するするための社交場。というのは建前で、ただの大衆

   娯楽施設。子どものころ覚えた遊びでは満足できなくなった、野心的な大人が  

   たくさん訪れる。ハマらなそうな人ほどハマり、ハマりそうな人ほどやっぱり

   ハマる不思議な引力が発生している。ニュートンはこの点を見逃したために、

   アインシュタインに取って代わられた。


 冗談と明名書房はさておき、今夜も都内のキャバレーは盛況を極め、中でも暗黒街にあるキャバレー「B29」は異様な盛り上がりを見せる。男たちの目当ては言わずと知れた暗黒街の歌姫、千代だった。彼女の黒い視線は男たちを釘付けにし、彼女の柔らかい曲線は男たちを釘にし、なにより彼女の歌声は誰が聞いてもうっとりとさせ、裏稼業に身を落とした小汚い人々に束の間の安らぎを与える。男は全員千代が好きだった。

 拍手で迎えられ、スタンドマイクの前に針を落とすように立つと、彼女はゆっくりとピアノに合わせて歌い始める。流行りのヒットソングから、アメリカの民謡まで彼女は綺麗な発音で歌い上げることができた。氷見は、壁に背を預けて静かにそれを見ていた。

 他の客に睨まれ居心地の悪さを感じながら、氷見は時折舞台へ拍手を送る。「B29」に集まる連中は須らくお上を憎むのが仕事なのだ。舞台に立った時より大きい拍手で千代が送られると、ようやく氷見の仕事が回ってくる。氷見がわざわざここに来たのはその仕事のためだった。このキャバレーには自転車のハブのように犯罪の情報が集まる。それ故、ここのマドンナであり、支配人でもある千代は外すことのできない重要参考人なのだ。

 舞台裏の廊下で活けられていた花を一輪くすね、氷見は千代の楽屋を訪れる。ノックするともはや聞きなれた美声で返事が返ってくる。楽屋のドアを開けると、千代と鏡越しに目が合った。

「ごめんなさい。こんな姿で」

 千代は舞台用のドレスを半分脱ぎ掛け、メイクを落としている最中だった。大胆に背中が開き、腰のあたりまで肌が見えていた。氷見は咄嗟に視線を上げた。

「すいません。出直しますよ」

「いえ、いいのよ。刑事さんでしょ?何をお聞きになりたいの」

「やっぱり目立ちますかね?」

「お気になさらないで。ここじゃよそ者は誰でも目立つから」

「そのようですね」

 氷見はドアを後ろ手に閉じて、近くの花瓶に花を挿した。

「まぁ綺麗。今朝私が活けた花にそっくり」

「二、三お聞きしたいことがあってお伺いしました」

「話せる範囲のことならご協力いたします」

 結論から言って、千代からはこれといった情報を手に入れることは叶わなかった。氷見は丁寧にお辞儀をし、楽屋を後に後にする。彼は公衆電話へと急ぎ、署の番号を素早く回す。電話には佐々木が出た。

「こっちは不発だ。そっちは?」

「船員の遺族、失礼家族には一通り会えました。ですが何か集団で無理心中をしたり、犯罪めいた雰囲気も感じられませんでした」

「そうか」

「一応、ここ半年分の身元不明の水死体を署で洗ってみたんですが、目ぼしいものはないですね。キャバレーもダメとなると、振り出しに戻りましたね」

 氷見はそこで黙りこくった。何も出ないとなると、考えられる可能性は一つだった。しかし、その事実は氷見にとっては暗いものだ。氷見はそこから逃げるために、わざと遠回りの捜査をしていたことを認めざるを得なかった。

「佐々木。車で迎えに来てくれ。一つ心当たりがある」


 東京(にある)大学の物理学教授浅倉は、氷見の話を最後まで聞いてようやくペンを止めた。

「物理に関係のない話だったら無視するところだったよ」

「作業の邪魔をしてしまい申しわけない。今は何の研究を?」

 氷見が浅倉の手元を覗き込むと、浅倉は目の前の紙をスッと差し出した。

「詩を書いていたんだ。我ながら良い出来だと思うね」

 佐々木は肩透かしを食らった気分になった。その佐々木の表情を浅倉は見て取り、諭すようにこう言った。

「何かの専門家になりたいなら、その何かに使う時間はできるだけ短くなくちゃいけない。その努力も怠っちゃいけない。私の持論だがね」

「はぁそうですか」佐々木は言った。

「という詩を書いたのさ。さて、実験といこうか」

 浅倉は勢いよく部屋を飛び出していった。氷見と佐々木は取り残される。

「知り合いなんですか?」佐々木が言った。

「古いな。ずいぶんとお世話になったよ」

 電気を点けると、素人には何だかよく分からない機械が目に入る。しかし、危険であることは必ず分かる。壁に貼られたパネルには赤と黄と黒で取り扱い上の規則が記されており、ガラスの向こう側で作業している者たちはみんな防護服を着ているからだ。

「その行方不明者たちがどこに行ったかお見せしよう」

 浅倉はどこから出したのかデカい蛙を取り出し、素早くメスで蛙の右前足を切り離した。佐々木はウゲっと目をそらしそうになる。二つに分けられた蛙は防護服の男に預けられ、ガラスの向こうの部屋に運ばれる。

「二つの行方不明事件に共通しているのは?」浅倉が言った。

「放射能ですか?」

 佐々木がおっかなびっくりそう答えると、浅倉は上機嫌になる。

「その通り。では放射能は生物にどんな影響を与えるかな?」

 急に始まった物理の授業に、今度は佐々木が不機嫌になる。

「もったいぶってないで教えてください」

「ちぇー。まぁ見てなよ」

 蛙とその前足はそれぞれ容器に入れられ、前足の方だけ謎の機械の前に設置される。蛙はその近くで自らの片割れの動向を見守っていた。防護服の職員が離れ、準備完了のランプが浅倉の前に灯る。浅倉はそれを見て、迷わずボタンを押した。

 ヴウウンと鈍い音がした。それがすぐに止み静寂になる。浅倉は押し黙り、氷見も喋らなかった。佐々木だけは耐えきれず、口を開く。

「それで、なにが起きるんです?」

 変化は突然起こった。機械の前に置かれた蛙の足はぴくりと動き、次の瞬間には内側から泡立った。泡は足全体を包み、ぐつぐつと胎動をしているようだった。泡が次第に落ち着くと、足があった場所にはドロドロとした緑の液体が残った。その液体はゆっくりと生き物のように動いていた。

 佐々木は思わず悲鳴を上げて、後ずさりした。壁に背が当たり、鈍い音がする。氷見は平然としていた。実際のところ、氷見もこの実験を見るのは初めてだったが、彼には新鮮な印象を抱かせなかった。

「ここからが本番」浅倉は言った。

 その言葉通りなのか、シャーレ状の器に乗せられていた液体は自身の一部を触手のように伸ばし、そこが円形の壁で覆われていることを認識すると、次の瞬間には脱出を図っていた。およそタコ並みの賢さである。

 牢獄を脱出した液体が真っ直ぐ向かった先には、右前足を切り取られた先ほどの蛙があった。蛙は液体と違い、自身が透明な壁に阻まれていることは分かっても、そこから脱出する術を掴めずにいた。後ろ足を何度もバネのように伸ばしては、ツルリとガラスを滑っている。そこへ液体が襲い掛かった。

「あなた方に分かるように説明すると、特殊な放射線が生物を変化させ、同種を襲う液体になるわけだね。襲われた同種もあのようになる」

 蛙の体は液体に触れた箇所から泡を吹き出し始めていた。先ほどの反応と同じである。浅倉は中にいる防護服を着た研究員に合図を送った。研究員は浅倉に対して頷くと、壁に備え付けられていたボタンを押す。

 一瞬の閃光があった。そして明るさが戻った後には、もうあの液体はただの黒いシミになってガラスのシャーレを汚すだけになっていた。

「つまり、これの人間版がいると?」佐々木が言った。

「さぁ分かりませんが、可能性はあるだろうね」

「ありえない!」

「落ち着け佐々木」氷見がようやく口を開いた。「浅倉さん。仮に人間がそうなってたとして、今の光った奴で撃退できますか?」

「無理でしょうね。都合のいいように聞こえるかもしれないが、今の光は一つの遺伝子にしか作用しない。仮に人がそうなってたとして、複数人を飲み込んでいたら手の施しようはない。自己修復されて終わり」

「どうしてもっと早く世界に対して発表しなかったんです?これだけのこと、とても重大な事実ですよ」

「過去にも言いましたし、今も言いました。おそらく未来でも求められれば私は言うでしょう。違いがあるのは聞く方だけ」

「日本も核エネルギーには精力的に取り組みたい意向をしめしている。世界ではもっと過熱しているだろうよ。誰も水は差されたくないよな」氷見は言った。

 実験は終わり、浅倉、氷見、佐々木の三人は廊下に出る。いまだ信じられないといった表情の佐々木はさっさと大学を出たがった。

「先に行っててくれ。俺は少し浅倉さんと話がある」

「なんです?捜査のことなら…」

「個人的なことだ。お前には関係ない」氷見は冷たい口調で言った。


 日が落ちてからにわか雨が降り始め、「B29」には雨宿りの客も集まり始めていた。千代はいつものように化粧台の前に座り、黙々と舞台に立つ準備をしていたた。そこへバーテン風のベストを着た背の低い男が現れる。男は開けっ放しのドアをノックして、千代に来客を知らせた。

「失礼します。そろそろお時間です」男は言った。

「あら、もうそんな時間。ありがとう、すぐ行くわ」

 バーテン風の男は千代の背に恭しく礼をすると、パリッとした服を乱さずに体の向きを変えた。それを鏡越しに見ていた千代は、何かを思い出し男を呼び止める。

「待って、下に行ったらついでにゴミを捨てて来てくれるかしら」

「はい、承知いたしました」

「ありがと。頼むわね」

 背の低いバーテン風の男は階段を下りるころには不満げな顔を隠さなくなっていた。男は自分の着ている制服に幾分か誇りを持っていたので、それが汚れるのを何より嫌っていたのだ。特に今日のような雨の日なんかは、泥水が靴下に浸み込み、ズボンの裾も真っ白なシャツの肘も油に漬けたようになり、生ごみの匂いが服全体にべっとりとへばり付くこと必至だった。服が汚れるだけならまだしもそれには、キャバレーの外で男の生活を思い起こさせるオマケがつく。運よくこの仕事にありつけた幸運を神に感謝こそすれ、自分をこき使う女支配人には内心毒づいているのがこの男だった。

 こんなことさっさと終わらせよう。男はゴミ袋を両手に掴むと裏口から外に出た。雨がざあざあと降るなか、雨どいを伝って滝のようになった雨水も地面に跳ねている。地面に流れた雨は小さな川となって最後は下水へと落ちていく。男は小走りで路地裏のゴミ捨て場に急いだ。

 ゴミ袋を狭いスペースに押し込むと、案の定彼の服はうす汚れた。男は無駄な努力としりつつ汚れた箇所を手で払ってみる。それに躍起になっていたせいで男は、背後に伸びる影が雨を遮るまで気が付かないでいた。急に雨脚が弱まったと感じた男が上を見上げたころには、液体人間は男を見下ろせるほど背を伸ばし、一口に飲み込む準備が完了していたのだった。


「今夜も来てくれてどうもありがとう」千代は言った。

 液体人間はその不定形な体を利用して屋根裏を進み、ついには舞台の真上に位置する場所まで到達していた。老朽化で開いた小さな穴からは、客席に向かって歌っている千代の姿が見えた。(幾度となく繰り返すが以下略)勘の良い人間でも天井は見ないだろうし、ましてや千代の歌を聞きながらよそ見をする客は皆無と言ってよかった。したがって彼女の腕に垂れてきたエメラルドグリーンの液体に最初に注意を払ったのは、彼女自身だった。彼女は歌うのを中断する。

「なにかしら、これ」

 彼女が腕に垂れる液体を袖で拭い上を向いた瞬間だった。液体人間はその大きな口(繰り返以下略)を開き、彼女をすっかり飲み込んでしまっていた。

 観客にどよめきが起こったことは言うまでもない。何人かのスタッフが舞台に駆け上がり、千代を救い出そうと果敢にも液体の中に腕を突っ込んだが、腕ごと持っていかれる始末だった。客たちのどよめきは大きくなる。

 千代は必死にもがいていた。水をかき分け、空気に触れようと頑張ったが、それは許されなかった。変化はすぐに起こった。手首の辺りが泡立ち始め、徐々に全身に広がった。千代が動揺したのも束の間、泡は皮膚を内側から押し上げていき、美しかった女性らしいラインは崩れ、肥った中年のような体へと変化していく。そのころにあっては、彼女は腕を動かすことも叶わず、ぶ厚くなった唇をパクパクさせるだけだった。終いに皮膚は破けて溶かされ、続けて筋組織、内臓、骨の順番で顕わになっていく。

 突如として見せられた人体の仕組みに、客たちは悲鳴を上げたり、吐き散らしたりと大忙しとなった。出口に全員が押しかけ、人が詰まる事態となる。それは、液体人間にとっては格好の標的だった。

「順番に並んでください!日本人なら!!」誰かが叫んだ。

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