液体人間現る!!!
Φland
1 ビキニ発トウキョウ行
その実験はあまりにもブラボーだったので、予想されていた結果以上のものを生み出してしまった。今、東京湾をゆっくりと進む一艘の漁船。黒い雪とでも呼ぶべき沈殿物が船全体を覆い、人の姿は甲板にはない。その船は遠い昔に舵を失い、潮の流れのままに旅を続けてきた。それを見て、黒船来航だと不謹慎なジョークを思いついたのなら、その感性はあながち的外れではない。なぜならばその船、仮にマルタ号に乗っていたのは米国由来の未知だったからである。その未知は船室の奥まった所でじっとして、静かに胎動(比喩的表現)をしていた。それが東京を恐怖の渦に落とさないまでも、もう少しだけ恐れを抱かせることになる、液体人間である。
この未知の生命体?は東京に上陸し、その後約60年にも及び人類の悩みの種となる。1954年10月、初代ゴジラの公開1カ月前の出来事だった。
液体人間はマーシャル諸島近海で生まれた。その時まではマルタ号(仮称)には17名の乗員が確かに乗船しており、たらふくマグロが食べたい日本人のために、たらふくマグロを取っ捕まえていた。
その瞬間が訪れた時、甲板には3名の乗員が作業を続けていた。時刻は午前6時45分。まだ太陽が水平線を白く縁取るだけで、辺りは暗かった。突如として昼になった。甲板にいた3名の乗員は太陽が昇ったと勘違いしたことだろう。本が読めると喜んだかもしれない。詳しい記録はない。
その後放射線が何らかの作用を人体に与え、17人の乗員は1つの液体人間へと姿を変えた。その後マルタ号に吹き飛んだサンゴの黒い雪が降り積もっても、それを払う者は誰もいなかった。舵を失った船は潮の流れのままに数カ月太平洋を漂い、因果のために故郷に帰ってきたのだった。
浅瀬が近くなったころ、その船を目撃した人は少なくなかった。そして目撃した人の多くが、黒い不気味な船が誰の助けも得ずに進んでいたと証言している。もちろん中には通報をした人もいた。船底が海底を擦り完全に船が静止してから2時間も待たず、船の周りには野次馬が集まり、規制のために警官が配備され、マスコミが嗅ぎつけ、さらに野次馬が集まった。野次馬の中には、船に付着した黒い埃のようなものを記念に持ち帰ろうとしている輩もいた。
なんとも怪しげなお祭り騒ぎのなか、ようやく一台の車が港に滑り込んでくる。助手席には、寝ているところを起こされてだいぶ不機嫌な男が乗っている。名を氷見武夫といい、元陸軍の下士官だった。
「着きました」運転席の若い男が言う。
「ん」氷見は礼も言わず車から降りる。
若い男は氷見に置いて行かれないように、急いでエンジンを止めて小走りで氷見の後を追った。二人の捜査官は歩いて通報のあった現場へ向かった。
「事件ですかね」
「事件が起きてほしいのか?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど」
「気をもむな。俺のところには滅多にデカい山は回されない。事件性がないことを確認して、みんなを安心させるのが俺たちの仕事だ」
若い方の男は佐々木潔といった。(言いにくいので、ササキヨというあだ名がついている)佐々木は3週間前から氷見と組まされていたが、いまだに氷見の人となりが掴めずにいた。噂では軍にいたころ相当のやり手だったらしいのだが、その片鱗すらも今の氷見からは見られない。面倒で誰もやりたがらない雑務を淡々とこなすだけだある。しかし、その風体は軍人のそれであり、相手を無意識に服従させる。
「見えてきたな」氷見は言った。
海岸線に降りると、潮と昆布の匂いが強まった。人だかりはおよそ50人の群衆で、その向こうにお目当ての船があった。黒々としたその船を遠目で見ると綺麗な塗装だと惚れ惚れする。佐々木はなんのペンキを使っているか、あとで聞こうかと思ったほどだ。しかし、近づけばそれがただの煤だと分かる。
「火事でも起きたんですかね」佐々木は言った。
「そうかもな」
氷見は視線を船から外さなかった。船を見た瞬間、氷見の頭にはある疑念と不安が枚挙として押し寄せていた。
「とりあえず中を見てみますか」
佐々木はそう言い一歩踏み出そうとしたが、その腕を氷見が掴んで止めた。怪訝な顔で佐々木は氷見を振り返る。
「今はだめだ。それより、応援を呼んできてくれ」
「なぜです?」
「嫌な予感がするんだ」
ガイガーカウンターを伴って応援に駆け付けた捜査官たちは、すぐさまその船が放射能に汚染されていることを突き止めた。今やあれだけ集まっていた野次馬も数名のマスコミを残すのみになり、氷見と佐々木も海岸から離れた位置で船を見下ろしていた。
「どっかで原爆が爆発したってことですか」佐々木が言った。
「かもしれんな」
「一体どこでそんなことが?国内だったら気づくはずです」
「あれを見ろ佐々木。遠洋漁業の船だ。帰国子女だよ」
そこに船内を捜索していた犠牲者おっと、勇敢な捜査官が報告に現れる。その捜査官は頭にまで黒い煤を被っていた。
「船内に人の姿はありませんでした。代りに大量の衣類が放置されています」
「ご黒う。体を洗ってこい」
「はい、失礼します」
「原爆で全員蒸発してしまったんですかね」佐々木は言った。
「だとしたら服も船も残らん。行くぞ」
氷見は足早に車へと向かった。佐々木もそれについていく。
氷見たちが現場に着くまでに2時間ほどの余裕があった。それだけあれば船員が船を降りて街をうろついていてもおかしくない、というのが氷見の考えだった。氷見がそう考えるのに無理もない前例もあったことで、佐々木も疑いはしなかった。しかし、実際の顛末はこうだった。
マルタ号の船室の奥まった所。そこにあったジェル状の塊は船の停止を感じ取り、地を這うように移動を開始した。それは人が集まる前に船を脱出し、砂を巻き込みながら下水路に逃げ込んだでいたのだ。それは生物だった。それは不定形だった。
氷見と佐々木の二人は路地裏の猫にまで聞き込みを講じたが、これといった収穫はなかった。浮浪者の一人が煤だらけの男を見たと証言したが、同じ時間に同じ場所にいた浮浪者の仲間は全く逆の証言をして、当てにはならなかった。船の乗員たちは忽然と姿を消したのだ。氷見と佐々木は一度署に戻ることにした。
「つまり単純な海難事故だな」警部の黒田は言った。「沖で嵐に巻き込まれて、乗組員は全員海に落ちたんだろう。船の出どころと船員の名簿は?」
「はい。船の名前はマルタ号。半年ほど前に出港してから行方が分かっていません。乗員は17名。全員漁師のようです」
結論を急ぐ黒田に佐々木は丁寧に答えた。
「よし。あとはお前らに任せる。頃合いを見て切り上げろ」黒田は言った。
「待ってください」
「なんだ佐々木?」
「船からは放射線が検出されました。それも尋常じゃない量です。これを事故として処理するのは早計です」
黒田は口を噤んだ。それから視線を氷見にゆっくりと移す。その目は氷見を責め立てている。氷見は小さく目で礼をすると、佐々木の肩に手を置いた。
「警部は俺たちの満足いくまで捜査しろと仰っているんだ」
「あ、それは、すいません」
「いいよ、分かりにくかったもんな」
その日の夜、冷たい雨が降り出した。しとしと降り続けた雨は下水を増水させた。下水道に身を隠す液体人間は静かに移動を開始した。
同じころ、3人の男が首尾よく計画を推し進めていた。彼らはいつまで経っても自分たちが貧乏のままなのは、政府に隷属する契約を結んでしまったからだと本気で考え、その契約書を盗みだす活動に精を出していた。その契約書は別名、日本銀行券、ありていにいえば金である。今回は初の共同戦線だ。
雨の降る夜に彼らは東亜銀行日本橋支店に忍び込んだ。3人のうちの1人はその銀行の警備員だった。雨が幸いし通行人の視界は傘で隠れ、忍び込んだ2人を見た者は液体人間以外にはいなかった。
強盗2人は早速ゾウが入りそうなほどデカい金庫を前にする。
「おおい、奥から金の匂いがするぜ」
「シーッ!」
「いいだろこんくらい。さ、金庫ちゃんを開けましょうねー」
片方の男がバールを手に取る。
「おい待て待て。手順ってもんがあるだろ」
「手順なんかないだろ。金庫を開けるだけだ」
「いいかまず、踏み越えちゃいけない線を見つけなくちゃいけない。最近は警報が多いからな。それを見つけたら、そこに触れないように優しくダイヤルを回すんだ。じっくり時間をかけて。お前のやり方は時代遅れだよ」
「するってぇと、お前さんなら簡単に開けられると?」
「ああ、見とけよ。30分で開けてやるさ」
「それじゃ30分で開かなかったら、俺に交代な」
30分と5分後、昔ながらのやり方で金庫は簡単に股を開き、2人はバッグいっぱいに金を詰め込んだ。その背後にはヌメリと這いよるものがあった。
警備員の男は実のところ怖気づいていた。特に思想を持っているわけじゃない。ただ無為な日常に刺激が欲しかっただけの彼は、2人を見逃すだけの簡単な仕事に飛びついた。その瞬間、確かに彼は人生の高揚を味わった。それが今になって、後悔にかわっていた。「今からでも遅くない。引き返そう。そうだ、2人に頼んで殴ってもらおう。その方が現実味が増すと言えば、喜んで殴ってくれるはずだ。あとは交代が来るまで気絶していたことにすればいい。俺は何も見ていない。金も受け取らない。無為な毎日を繰り返す日々に戻る。それでいいじゃないか」警備員の男の思考はあらかたこんな調子でまとまった。
そして思いついたが吉日と持ち場を離れ、彼は金庫へと向かう。懐中電灯で照らしながら暗い廊下を進んだ先には強引に開けられた金庫があった。しかし、人の気配はない。あるのはこれでもかと金を詰め込まれたバッグ2つと、男物の衣類2着のみだった。
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