魔女の宿願 9
アーシュラは叩かれた頬をおさえ黙ったままだ。言葉がでないのだろう。何度か口を震わせていた彼女は、一度唇をきつく噛み締める。こちらを見つめる彼女は途方に暮れた子どもの顔を浮かべた。
「……わたしにできるかしら?」
「言ったはずだよ。君が最終的にどんな選択をしようと、わたしたちがすることは変わらない。でも、協力しれくれるなら喜んでその手を借りてあげるよ」
セルマは小さく笑って手を差し出す。アーシュラは恐る恐ると手を伸ばすとしっかりと握った。
近くで様子を見ていたグレースのシャンパン色の眸が絶望に濁る。
「なぜ……? なぜ、アーシュラは姉さまの言うことを聞いてくれないの? わたしはあなたを大切に思っていたのに、あなたを愛していたのに! だから、あの時だって!」
なのに、なのに、なのに。信じられないと言わんばかりに二三歩と後退する。絶望で肩を落とすが、すぐにグレースは吼えた。
「ア――シュ――ラァアアアああああ!!」
猛然と襲い掛かる姿はもう人間ではなかった。相貌が崩れ、大きく裂けた口から鋭い牙をみせる。上半身を曲げると手足を使い、地を蹴って覆いかぶさって迫ってきた。その姿は獣だ。
「あれが魔眼の映した先の光景だよ。最初から君の愛したグレース嬢はいなかったんだ」
気圧されあとずさるアーシュラにセルマは手を強く握りしめる。
「逃げてはだめ。君の手で解放しないと意味がない」
唸り声を喚き散らしながら迫る獣に、セルマは容赦なく回し蹴りを食らわす。まともに食らった獣は距離をとるが、大した威力はない。すぐさま体制を整え再度襲いかかってくる。
鋭い爪がセルマの皮膚を裂いた。しかし、彼女は顔をひとつ変えずに対峙する。
「セルマ」
レイヴンの声がする。視線をひとつ寄越さず黙ったまま、攻撃をいなす。彼が言いたいことはわかっていたが、従う気は全くなかった。
「…………グレース姉さま、ごめんなさい。わたし……わたし、約束を守れなかった。ノルタニアに戻ってきてはだめだと言われたけど、一人、追い出されたことが怖かった。知らない国で一人生きてゆく自信もなかった。なんでと憤りと不安しかなかった。姉さまがどんな気持ちで……どんな想いでわたしを逃がしたのか全然わかっていなかった」
アーシュラの手に杖が現れると同時に周囲に石礫が数多現れる。それをみた獣はセルマを飛び越えアーシュラへと迫る。
「さよなら、姉さま。そして、ごめんなさい」
彼女が杖をかざせば、石礫が雨のごとく降り注ぐ。獣の皮膚を裂き、肉を抉り、骨を断つ。断末魔が辺り一体に響き渡った。
砂煙が収まった頃には、身じろぎひとつできない状態で獣は地に伏している。血塗れた姿にアーシュラは泣き出す一歩手前の表情を浮かべた。口を開くも結局は閉じてしまう。
セルマはその様子を一瞥するとゆっくりと獣へと近づいた。獣の姿がゆっくりとグレースへと戻ってゆく。瀕死の彼女を前にしてセルマは足を止めた。
「……あなたはただ守りたかった。自分がどんなに苦しくても、彼女のことを思い、最後まで立ち向かった。その心意気、わたしは尊敬します」
最善だと思って最悪な選択をしてしまった自分とは違って。
すべてを終わらせるためにセルマはゆっくりと手を伸ばす。手が触れるかどうか辺りで鋭い声が届く。
「セルマッ!」
ハッとして顔をあげると、珍しく血相を変えたレイヴンが見えた。それも一瞬のこと。視界が大きくぶれて、続いて衝撃と痛みが襲ってきた。歪んだ視界が戻ってきた頃になって、何かに吹き飛ばされたのだとやっと気づく。
「グレース姉さまっ!」
痛みで動かない体を無理矢理動かして顔を向けると、先程までいた場所に大きな岩が生えている。よくみると大きな手だ。まだ動かない思考を働かせる。カナンキの方角から、怒りにも嘆きにも似た声が地を震わせる。
「あなたには失望したわ、グレース。世界を存続させるための核を制御できなければ、邪魔者も排除できなんて」
岩の手が何度も何度も動かないグレースの体を叩きつける。声の主はゴーレムの肩に乗ったまま、感情を感じさせない目で眺めていた。最後には煩わしそうに手を振るう。空中へと放り出された体は大きく口を開けたゴーレムの中へと取り込まれ、鈍い音を響かせた
「……全く愚かしい。実に嘆かわしい。我らグランヴィル家はこんな体たらくにまで落ちぶれてしまったのか」
魔女が地に降りる。金色の髪を靡かせ、同じく金の瞳は絶望で座り込むアーシュラを凍てついた眼差しで見下ろす。
「さぁ、願え。わが一族の生き残りよ。そして、今度こそ大地の女神の力を持って、忌々しき奴らに知らしめてやろう」
「エ、エレナ姉さま……?」
「エレナ? あぁ、最後の贄か。実に間抜けな魔女だった。わたしたちを蔑む奴らの言いなりになるだけでなく、禁忌を犯した者共を許せと願ってきた。その身に呪いを抱えながら、なんと潔白で汚したくなる末裔か」
エレナの姿でエレナを話す魔女は肩を震わせると大きく笑う。
「片腹が痛い。なぜ、畏怖も謝意をも抱かない者たちに、慈悲を与えなければいけない。なぜ、わたしたちは今もなお虐げればならない。彼らはもっと恐れ敬うべきだ。なにも知らずにのうのうと生きる奴らを、もっと自由にぞんざいに扱っていいだろう? わたしたち、大地の魔女にそうしてきたのだから。因果応報だ。だから、ノルタニアは滅んだ。滅びたのだよ、わたしたちの思惑どおりに。彼らが自ら破滅を選んだのだ」
乾いた笑いが響く。魔女がそちらへ視線を向けると、セルマに肩を貸すレイヴンの姿があった。
「なるほど、腐れ魔女は彼女に魔眼を渡すだけでは飽き足らず、君たち宿意に渡したのか。全く僕の大事な蒐集品を死者の妄執に渡すなんて、だから価値のわからない者は嫌いなんだ」
「お前……あぁ、知っているぞ。魔眼蒐集家のコンチュエ卿だ。己の収集癖を満たすために、数多の魔女を屠った忌まわしきけだもの」
「ふふふ、若かった頃の話だよ」
「笑いごとじゃないだろう」
セルマにツッコミにイヴンは涼しい顔をしている。魔女の発した言葉にコーピックブルーの瞳がギラリと光る。
「しかし、一人の魔女に挑んで殺されたと聞いたが? 愚かなけだものにふさわしい最期だと思っていたのに、生きていたとは」
「残念ながら挑んで負けて、契約を施されたのだよ。彼女の契約魔として働かされていたんだ。それだけでも腹立たしいのに、今度は大事にされていた蒐集品をばら撒かれた。僕の憤りを少しは理解して欲しいね」
「ほう? ならわたしたちが代わりに有効活用してやろう。そのほうが死んだ魔女たちも喜ぼう!」
ゴーレムがレイヴンたちに殴りかかる。しかし、振るわれた腕は花となって散る。
「やれやれ、死者は語らないというが、君はよく口が回る。無色の使い手の魔女に君たちの攻撃が通じるわけがないだろう。もう忘れてしまったのかい? それとも頭は空っぽなのか」
レイヴンの挑発に魔女は怒りを露わにする。一体、二体と数を増やすゴーレムにレイヴンはセルマの背を押す。
「このままでは埒が明かないからね。微弱ながら力を貸そう。セルマ、アーシュラ嬢を連れてカナンキに向かいなさい。魔眼の本体はそこにあるだろう。一刻も早くこのうるさい魔女たちの口を塞いできてほしい」
「火に油を注いだのは、レイヴン自身だ。なんともしても死守してくれるなら、善処してみる。あぁ、でも後半の意見には同意するよ」
セルマはアーシュラを連れてカナンキへと向かう。追手をつけないエレナにレイヴンは余裕綽々だと笑う。
「貴様を始末してからでも十分に間に合う」
「言ってくれるね。君、僕が何者かわかっていてその台詞を言っているのだろう?」
照らされた影が歪み人型から異形へと変化してゆく。ばさりと広がった影が魅惑な色を灯す。
「いいだろう。たまには獲物を狩らないと。いつか彼女を食べてしまいそうだからね」
けだものは、にっこりと口元に三日月を描くと、激しい衝撃が広がった。
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