魔女の宿願 8

 聴き慣れた声が響く。河川が上流から勢いよく濁流してくる。流れに乗って深緑の姿が見え隠れしていた。


 驚く三人におかまいなく森鯨は姿を現すと、容赦なく川岸近くに立っていたセルマたちを大きな口で取り込んだ。そのまま流れに乗って、海まで出てゆく。声もあげる間もない、一瞬の光景だった。アーシュラはしばし呆然とする。頭がうまく働かない。先程まで立っていた場所は抉られ欠けていた。


 そうだ。自分たちが度々相手をしている生物が現れ、セルマたちを――、考えついたあたりで一気に思考が回りだす。


「あ……」


 一歩踏み出すも、恐怖が駆け巡った。海に近づいたところで、アーシュラになにができるだろう。セルマたちが無事な保障はどこにあるだろうか。なら、見殺しにするのか。旅人二人だ。不幸な事故として片付けられよう。誰もアーシュラを責めはしない。あの時だって、誰も責めなかった。


 あの時。あの時とは……?


「アーシュラ、大丈夫?」


 突然と声が響いた。びくりと肩を震わせ振り返ると、いつの間にかグレースが傍に立っている。まったく気配を感じなかった。


「グ、グレース姉さま……あの、わたし……」


 言葉を紡ごうとするけどもうまく出てこない。罪を目撃された恐怖か、仄暗い考えを抱いていた罪悪感か。今にも泣き出しそうな表情をするアーシュラにグレースは安心させるように笑いかける。


「大丈夫よ、大丈夫。これでアーシュラの平和を脅かす者はいなくなったわ。安心して、あなたはわたしが守ると言ったでしょう?」


「なにを言って……」


 グレースの手がアーシュラの頬に添える。体温を感じさせない手は、今はぞっとするくらい冷たい。シャンパン色の瞳は仄暗く冷たい光を宿している。


 目の前に立っている姉が急に見知らぬ人物に見えた。それと同じくしてフタをしていた記憶が水泡となって浮かんでくる。


「……あなたは誰?  グレース姉さまはもういない。だって……ヴィクター殿が……」


 アーシュラの言葉にグレースは笑みを深める。知らない姉の笑顔だった。


「酷いわ、アーシュラ。わたしはわたしよ? 大丈夫、なにも心配いらないわ。またわたしたちでお姉さまを支えましょう?」


 恐怖を覚えてグレースから逃れようとするも、姉の力とは思えない強い力で腕をつかまれる。加減のない力に骨がみしりと音を立てた。


「グ、グレース姉さま、い、痛い。離して……っ」


「怖がらないで、大丈夫。すべて元通りになるわ。もう誰もわたしたちを責めないわ」


 アーシュラは絶望する。グレースはずいっと顔を近づけると光悦した表情で言葉を紡ぐ。


「さぁ、願って。望んで? 大丈夫。安心して。すべて魔眼が叶えてくれるわ」


 さぁ。さぁ! さぁ!! と追い立てられ、眸から涙が溢れる。


 わたしが願ったことなのだろうか。わたしが叶えたかったのだろうか。


 違う、違う、違う。


 わたしはこんな未来を望んでなどいなかった。こんな結末を迎えたかったのではない。では、一体誰の願いなのか?


「それは大地の魔女の願い。屈折した願いの先に生まれた異形だよ」



 弾かれたように海へ視線を向けると、水面に森鯨が顔を出していた。静かな目で見つめている。しかし、身体はやがて内側から膨らみはじめた。


「やっと会えた魔眼の持ち主。 随分と歪んだ感情が残ってしまったらしい。アーシュラ嬢の願いと合わさったとしても、本質は変わらなかったか」


 大きく膨張した森鯨は風船が弾け破裂する。四方に飛び散った体躯は、鮮やかな花へ変化して降り注いだ。よくみると花は黄色やオレンジ色のマリーゴールドばかり。森鯨の姿は消えた今、喰われたはずのセルマたちが立っていた。


「やれやれ、魔眼の力をおびき寄せる為とはいえ、鯨に食われる経験は二度としたくない」


「油断させたほうが早いと言い出したのはレイヴンでしょう。わたしだって、二度とごめんだよ」


 相変わらずの二人の応酬に、アーシュラは「なんで」とこぼす。


「無彩 白の譜系の魔女は何色にも染まらない。ゆえに全てを無色へと返す」


 海に落ちた花が水面へ花道を作る。セルマたちは花を踏みしめると浜まで戻ってきた。


「無彩 白の譜系……。本来は光源 色三原を網羅した魔女の力。あなたの扱う力とは別物のはずよ」


「わたしは所詮紛いものでしかないからね。扱い方が違うんだ」


「さて」と、セルマは言葉を続ける。


「この悪夢を終わらせたいのなら手伝ってよ。わたしにはアーシュラ嬢の力が必要だ」


「でも、……どうやって……?」


「アーシュラ、簡単よ。わたしを殺せばいいのよ」


「できないでしょう?」とグレースは笑う。


 できるはずがない。グレースはアーシュラの大事な姉である。人が変わろうと変わらない事実だ。それを見透かして甘く囁く。


「アーシュラ、願って? そうすれば、姉さまが惑わすあの魔女を排除してあげる」


「わたしは……わたしは……」


『あなたも全てを失ったの?  わたしと一緒ね。わたしは大事な子を失ったの。全ての元凶が生き残り、大事なものはすべてこの手からこぼれ落ちてしまった。悔しいと思わない?  悲しくない?  憤りを感じない?  さぁ、欠片を握って。心から強く願うといいわ。そうすれば、願いは聞き入れられ、この世界はあなたを祝福するでしょう』


真白の魔女が透明な欠片を握らせる。髪も肌も衣装もすべてが真白なのに、セレストブルーの瞳だけは青々としており、惹きつけられる。だが、瞳の奥に魔を見た気がした。


 なにかもかもが焼け落ちた大地に、崩れ落ちた家屋。そして、見慣れた名前が刻まれた墓跡に飛び散った赤。もたれかかって倒れているのは――。


「違う違う違う。違う違う違う違う。わたしが望んだのは……わたしは叶えたかったのは……!!」


 アーシュラの叫びに呼応して大地が揺れる。立っているのもやっとな揺れのなかグレースは笑い、レイヴンは眉を顰める。セルマだけは揺れを感じさせない歩みでアーシュラのもとへと向かう。そして、手を大きく振りかぶる。


「いい加減にしなよ」


 乾いた音が大きく響いた。

 顔に熱が走るのを感じながらも、唖然とするアーシュラに冷たく言い放つ。


「受け入れ、そして、認めるべきだ。君の願いは変質して、愛する家族も変質してしまった。世界にないものが生まれ、あるべきものが失われた。アーシュラ嬢、君は大罪を犯した。そして、罪を自身で償わなければならない。それが彼らにできる唯一の贖罪。死者を留めていい生者もいなければ、縛られるこちらもまっぴらごめんだよ」

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