魔女の宿願 6
静かな夜だった。生物の声も息も、風が吹く音も水が流れる音も聞こえない。無音な世界。突如として時間が動きだした。はじめは小さな音だったが、段々と勢いを増してゆく。
カコカコカコ。カコカコカコ。
寂し気な音が夜の空気を震わせいたが、断末魔の叫びが夜の空気を一気に振った。
「っ!!」
セルマは閉じていた目を見開いた。窓から差し込む月明かりに、照らされた室内を容赦なく揺れる。時を同じくして、切り裂く声が建物全体を震わせる。
彼女は素早く起き上がると、窓辺へ向かう。すでにレイヴンが静かに立っていた。
しばらくすると、揺れも切り裂いた声もおさまり静かな夜が戻ってくる。慣れた光景なのか、それとも怯えているのか。森鯨の時と違って誰一人として騒ぐ様子も人が出てくる気配もない。まるで街から誰もいなくなったような。そんな錯覚を思わせるくらい静寂が広がっていた。
セルマは隣に並んでしばらく外を眺める。高台にある宿の窓からは、闇に包まれた街が広がっているのみで異変があるようにみえない。
「セルマ、なにか感じるかい?」
「……底知れないなにか、という程度。混ざり合った感覚でつかみにくいけど、魔眼の力は感じた」
彼はふむ、と呟く。
「考えるなら方角的にカナンキが存在する場所だろう。とはいえ、僕たちにはあまりにも情報が少なさ過ぎる」
「今回は相当厄介な相手というわけだ」
彼は開けていた窓を閉じた。黒衣を翻すと扉へ向かって歩きだす。
「どこへ行く気?」
「なに、夜の散歩だよ」
「こんな時間から?」
「わかっていないな、セルマ。こんな時間からだからこそだよ。大丈夫、無謀なことはしないさ」
彼はひらひらと手を振ると扉の向こう側へ消えてしまう。セルマはしばしそのまま立って待ってみたが、再度扉が開けられる様子はない。彼女は勢いよくベッドに飛び込むと毛布にくるまってしまう。そのまま身動きひとつせずに夜が明けるのを待った。
いつの間にか眠り込んでいたらしい。外はすっかり日がのぼり、夜と打って変わって賑やかな声が聞こえてくる。しかし、聞こえてくる声は陽気さとは無縁のなにやら動揺と困惑が入り混じっているようだった。
セルマが宿の主人へ事情を尋ねる。彼はしばし渋っていたが、人伝に聞いた話として続けた。大通りを通り抜け南の方角へ歩くと、景観が整えられた街並から耕作地風景へと変わる。更にその奥へと続く道を道なりに進むと大きな湖と大自然が浮かぶ孤島が見てきた。あの地がカナンキと呼ばれる禁足地だ。湖畔では人が大勢集まっている。
セルマは彼らの間をかき分けて進むと、小舟が着岸していた。舟のなかは溢れんばかりに鮮やかなマリーゴールドの花々が咲き乱れ埋め尽くされている。花に包まれて男がひとり眠っていた。人々は穏やかな表情を浮かべて眠る彼に手をこまねいているようだ。
近寄り難く、触れることすら躊躇う雰囲気が彼には漂っていた。眠るようにして死んでいるのか、死んでいるように眠っているのか判断しにくい。セルマはそんな彼らの怖気づいた様子に意に返さず、側まで近寄ると思いっきり舟を蹴飛ばした。
「いつまで狸寝入りするつもり? さっさと起きなければ、この舟をひっくり返す」
「……まったく君は僕の扱いに関しては荒くて敵わない」
隻眼のピーコックブルーの瞳がぱちりと姿を見せた。彼は起き上がると、周囲の状況に気づいたらしい。ぱちぱちと音のしそうな瞬きを続けた。
「おやおや、もしかして大事かな?」
「この状況を見て大事ではないと思える?」
彼は肩をすくめると立ち上がり、器用に舟から降りる。同時に人が左右に捌けて、奥からはエレナを連れ添ったヴィクターが歩いてくるのと同時だった。
「これは一体何事ですかな?」
「おはようございます、ミスター。朝からお騒がせして申し訳ない。なに、この先にある素敵な孤島が気になって舟を拝借したところ、上陸に失敗しました」
「カナンキに足を踏み入れようとされたのですか?」
レイヴンの言葉にエレナは悲鳴のような声をあげた。他の町人たちの顔色も一様に悪くなる。
「なんておそろしい」「大地の女神さまがお怒りになれたら………」「これだからよそ者は」と密やかに囁かれる言葉にヴィクターは咳払いで牽制する。皆ぴたりと口を閉じると彼は口を開いた。
「旅人であるお二人に説明しなかったのは我々の落度だ。たいへん申し訳ございません。この湖の先に浮かぶ島はカナンキと呼ばれる禁足地。大地の女神の魂が眠る場所といわれているのです。ゆえに、かの地は女神の力を継ぐグランヴィル家のみしか、立ち入りを許されておりません。無闇に足を踏み入れてよい場所でもないのです」
「それは無知とはいえ、失礼しました。どうかお許しいただけますでしょうか、ミスター、大地の魔女様?」
大げさな身振りで彼は半身を折ってレイヴンはエレナの返事を待つ。彼女は目を丸くするも、すぐに花を綻ぶように笑う。
「ええ、もちろんです。カナンキは我々でもなにが起こるのかわからない場所です。何事もなくご無事でよかった」
「ありがとうございます。昨晩はずいぶんと怪しげな声が響いて、セルマが怖がっていたので。つい何事かと思い足を延ばしてしまいました」
「怪しげな声ですか? 昨日はいつもと変わらない静かな夜だったと思いますが?」
周囲の人間たちもお互いに顔を見合わせ、不思議そうに首を振る。身に覚えがないらしい。レイヴンは周囲の反応をみると間をおかずに口を開いた。
「どうやら風の音を不気味な声と間違えたのでしょう。お騒がせして申し訳ない。さて、我々は宿にでも戻って大人しくしていましょう。下手に出歩いてまたなにかお騒がせしてはいけないからね」
「まぁ、 昨日は森鯨の騒動でゆっくり観光されていないのでは? よろしかったら、わたしがご案内させていただきます。ノルタニアにはおすすめしたい場所がたくさんあるんですよ」
「ありがとうございます。図々しいお願いですが、アーシュラ嬢にお願いしても? 実は昨日お話させていただいてセルマと気があったようで」
レイヴンがにっこりとセルマに視線を向けてくる。頬を引き攣るのを感じながら頷いた。エレナはさらに目を輝かせる。
「まぁ! アーシュラに同年代のお友たちができて、なによりです。それではアーシュラにお願いしましょう。朝食はまだですか? おすすめのカフェがあるので、そちらでお待ちください」
妹に気の合う友達ができたのがうれしいらしい。エレナはカフェの場所を教えると急いで帰ってゆく。それを合図に周囲も各自の時間へと戻ってゆく。中には物言いたげそうにしている者もいた。しかし、市長と大地の魔女が咎めないことに、憎々し気な視線だけを残し大人しく帰ってゆく。最後に残ったのはセルマたちとヴィクターだけとなった。
「彼女はすっかりあなたがたを気に入ったようだ」
「おや。特別気にいっていただけるようなことはなにもしませんよ」
「そんなことないよ。エレナ嬢にとってアーシュラ嬢は大切な妹で、同世代の友人がいないことをずっと心配していてね。だから、たとえ旅の人でも彼女を気にかけてくれるのがうれしいのだろう」
ヴィクターはエレナが去っていった方角へと目を向ける。眼差しは愛情にあふれて優しい。
「彼女たちはわたしの古い友人の娘でね。彼女が赤子の頃から知っているんだ。早くにこの世を去ってしまった友人の代わりに彼女たちの幸せを見守ることが、わたしの役目と思っている」
だからね、と続く言葉を同時に周囲の空気がピリッと張り詰める。
「もし彼女たちの幸せが崩れるようなことがあれば、そのときは一切の容赦もなく、わたしは怪物となろう」
彼の気迫に呼応するようにカナンキが震える。それも一瞬のこと。ヴィクターは最初と出会った頃と変わらない笑顔を浮かべていた。先程までの雰囲気もいつの間にか霧散している。
「ノルタニアの魅力はまだまだあるから、ぜひとも楽しんでいってくれたまえ」
彼は踵を返すと歩き去る。姿が消え見えなくなると、セルマは閉じていた口をやっと開いた。
「あの市長、厄介な気配がする。最初にアーシュラ嬢が考えていたことを彼も考えているじゃないかな」
「ふむ、僕はどうしてこうも警戒されてしまうのかな? こんなにも誠実な男などそうそういないと思うのに」
「そういう態度が誤解を招くんじゃない。それよりも、実際どうだった?」
「エレナ嬢がかい? 僕としてはグレース嬢みたいな寡黙な女性の方がどちらかいうと――」
「カナンキについてだ。誰がレイヴンの好みを聞きたがるか」
「セルマ、僕が好意を抱かられやすいからとそう嫉妬しなくても……痛っ。蹴るのは反則ではないだろうか」
「いいから。昨晩人を放っておいて、一人だけで、勝手に、行ったのだから。もちろん成果はあったのでしょう?」
すさまじい目で睨み付ければ、レイヴンは大げさに肩をすくめる。
「エレナ嬢たちにも言ったどおり。結界が張ってあるのは本当。どうにかできないかなと探したけれど見つからなかった。果報は寝て待てというだろう? おかげさまで、街中が僕を放っておかないだろう」
「それ実行するための言葉じゃないから。そうね、不審者として放っておかないでしょうね。それでこれからどうするつもり?」
「簡単なことだよ。逆に考えれば、カナンキになにかがある。そして、ヴィクター殿の話によれば、グランヴィル家に関わりがある土地。その血筋のお嬢様の協力してもらえばいい」
「つまり、アーシュラ嬢に手伝ってもらおうと考えているわけだ。果たしてうまくいくと思う?」
「そこは、彼女の出方次第だよ。セルマ」
レイヴンの口元に微笑が浮かんだ。
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