魔女の宿願 3

 忽然と街の上を大きな影が遮った。正体はわからない。しかし、周囲から聞こえてきた言葉は不思議と歓喜を含んでいた。


森鯨もりげいだ!」


「森鯨が現れたぞ!」


 もとより人通りが多い大通りに声を聞きつけた人々が四方八方から、続々と集まりはじめる。剣呑な雰囲気を醸していた二人も頭上を横切る大きな影に気がそがれ、同じく空を見上げた。


「森鯨?  空鯨くうげいの仲間かなにか?」


「空鯨は標高が高い山脈地帯を住処にしている魔物だ。トリストン国の山脈の高度では生息できないよ。森鯨という名は僕も初めて聞くけど、我々はずいぶんと運がいいらしい」


 大きな影の全貌が少しずつ顕になる。名前から察するに大きな鯨が空を飛んでいた。


 全長は十五メートル程。優雅に空の海を泳いでいる。皮膚は深い緑色をしており、身体の至るところに苔が生えていた。大きなヒレをなびかせ、森鯨は大きく方向を変える。獲物に目星をつけたようだ。そして、突如とノルタニアへと猛進をはじめる。


「森鯨は空鯨と違って、ずいぶんと好戦的な性格をしているみたいだね」


「問題はそれだけじゃないよ、セルマ。このままだと街が襲われ逃げ惑ってもおかしくないのに、次々と街の人たちは集まってきたと思う?」


 森鯨は確実にこちらへと向かってきている。あっという間に美しい都市が為す術もなく崩壊するだろう。それなのに、大通りには埋め尽くさんばかりに人が集まってきていた。皆の顔に恐怖の色はない。

 森鯨の巨体が目前に控えてきた。猶予はない。世界が真っ暗になり、爆音と悲鳴。そして、闇がすべての音をかき消す――はずだった。


「大地よ、我らが愛しきものたちを守りなさい。ゴーレム!」


 高々とした声が響き、差し迫った闇が一瞬にして取り払われる。


 晴天の再来に歓喜があふれ出る。ノルタニアの異様な雰囲気に包まれる。


 直前まで危機が迫っていたにもかかわらず、紳士は席に腰を据えたままだった。「異変といえば」と落ち着いて口を開く。


「我々にとっては当たり前になってしまった光景。今では異変を異変として捉えないできごと。我々が森鯨と呼んでいる魔物が出現しはじめたこと。これがノルタニアで起きている異変かもしれないね。しかし、彼らが現れても我々が変わりなくノルタニアに住めるのは、すべてグランヴィル家の魔女たちのおかげだ」


 森鯨と入れ変わるように建物の間から岩できた大きな巨人が姿を見せる。その肩に小さな人影が見えた。風になびくは日の光を浴びたミルキーブロンドの髪。慈しむ眸は金。色三原赤と黄の譜系を持つ『大地』の一族 エレナ・グランヴィルの姿があった。


「……彼女が大地の魔女」


 セルマの呟きはすぐさまに森鯨の響く声にかき消される。邪魔をされたことに腹をたてたようだ。巨体を震わせながら再び向かって飛んでくる。頭上から火山弾の岩が噴出された。このままでは街は落石に巻き込まれかねないが、誰一人逃げようとする者はいない。


「なるほど結界か」


 レイヴンの言葉どおり降ってきた岩は突然と見えない壁に弾き飛ばされ、街の外へと轟音を立てて転がり落ちてゆく。


「グランヴィル家はエレナ嬢を筆頭に三人の魔女がいるんだ。一人はゴーレム使いの長女エレナ嬢。二人目は防御魔法を得意とする次女グレース嬢。そして、」


 落下した岩の一部が細かく砕け、地上から時間が巻き戻るかのように空へと帰っていく。


 いつの間にか迫りくる森鯨の前に空を飛ぶ箒に乗った少女が対峙していた。器用に細い柄に立つ彼女は手にしていた杖を静かにおろす。それを合図に空中に浮かんだ岩が矢となり閃光をもって、森鯨の身体を貫いていく。悲壮な鳴声が空に響いた。だがすぐさまに上回る大きさで大歓声がノルタニアを包む。


「三女 アーシュラ嬢。彼女たちがいるかぎりノルタニアは、どんな異変に見舞われようと平和だ」


 紳士はティーカップをテーブルに置くと立ち上がり、歓喜に湧く彼らへ声を張り上げる。


「さぁ、宴の準備をはじめようではないか! 我らが大地の魔女に祝福を!」


『大地の魔女に祝福を!』


 統率のとれた掛け声が空気を震わせる。周囲の雰囲気に置き去りされた二人に紳士はにこやかに微笑んだ。


「すっかり名乗りが遅くなってしまいましたね。わたし、ノルタニアの市長を務めておりますヴィクターと申します。ようこそ、ノルタニアへ。お二人は運がいい。どうぞ、心ゆくまでわが街の新しい料理を楽しんでいってください」

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