時止めた夏をもう一度

西野ゆう

第1話

 車の運転免許を取って十年になる。

 買い換えた車も三台目。

 ようやく本当に自分が乗りたい車を無理なく買うことが出来た。

 もちろん「乗ってみたい車」となると一生買える気はしないのだが。

 去年、少しでもバスの視界に近づきたくて、独り身でありながらワンボックスカーを買った。そして海沿いの旧国道を走る。

 子供の頃、この道を走るバスに揺られ、一時間離れた従兄弟の家へ遊びに行っていた。実家は絵に描いたような田舎で子供の数も少なく、加えて内向的だった俺には友達もいなかった。そんな俺が夏休みの多くの時間を過ごした場所。

 今その場所に行っても、何があるわけでもない。誰かが居るわけでもない。

「ニュータウン」という一文字ずつの看板も土に還りかけている荒れた丘の上にある六十坪の空き地。従兄弟が住んでいた場所だ。竹と葦が侵食してくるのを、今では建てることの出来ない高さのブロック塀が食い止めている。

 車をそのブロック塀に寄せて停めようとしたが、側溝の蓋が所々割れていたり蓋そのものが失われていたりしていると気付いた。やや道を塞ぐが通る車もないだろうと、仕方なく道路の中心寄りに停車した。

 全ての窓を三センチ程度開け、エンジンを止める。中学生時代にいつもイヤホンで聴いていたスティングのセヴン・デイズを鳴らしていたカーステレオもクラッシュシンバルの残響を感じさせながら一瞬の静寂をつくる。

 直後に窓の隙間から流れ込むセミの鳴き声が、一気に俺を少年時代に引き戻した。

「責任取ってよ」

 少女の恥ずかしそうに借り物の言葉を紡ぐ小さな唇が脳裏に蘇る。


「真知子おばちゃんが住んでたニュータウンね、来年遊園地になるんだって」

 妹から送られてきたテキストに、最初は特別な感情などなかった。男だけの三兄弟も独立し、おじさんに先立たれた真知子おばちゃんも、既に五年前にそのニュータウンからは引越して、郊外の小高い丘の上に瀟洒な山小屋のような家を建てて愛犬と住んでいる。

 かつて工業地帯のベッドタウンとして開発されたニュータウンも、石油コンビナートの閉鎖による極端な人口減少で、最後の家族が転居する際は小さくニュース番組でも取り上げられていた。

「それにしても遊園地って唐突だな。軒並み中途半端なテーマパークは潰れてるってのに」

「お、遊園地? あ、違う違う。遊休地? 遊休土地? なんかそういうの」

 妹からそう知らされて少し調べてみたが、俺の頭ではよく理解できなかった。ただ、このニュータウンに住む人がいなくなって二年が経過するということだけは理解できた。

 いつか、あの子に会いに行ってみよう。

 高校生の頃から想っていた「いつか」は結局やってこなかった。

 月日が過ぎるごとに細かい記憶は消えてゆき、僅かに残る想い出にすら自分の夢や希望が邪魔をして彼女の面影を削っている。

 初めて触れた女の子の唇の感触も思い出せない。

 あの頃駆けて遊んだ道に立ち、そこから見える海を眺めても、暑くなりすぎた夏がスニーカーのソールをアスファルトに張り付けるように俺をこの時間に留めた。

「初恋を追いかけるって行動は、馬鹿な犬が自分の尻尾を追ってグルグル回るようなもんだよ」

 高校生になってようやく出来た「友人」と呼べる奴にそう言われたが、そいつの目に羨望の色を見つけて、俺は逆に決心した。

「俺は人間だぜ? 追い回すなんてしない。立ち止まって振り返るだけさ」

 今にして思えば随分と芝居がかったやり取りだったが、三軒目の店で話していたということに加え、やはりあの子のセリフのせいでもあったのだろう。

「責任取ってよ」

 俺はあの時、彼女に消えない傷を遺した。

 今では名前さえ思い出せない、初恋の相手に。


「〇〇ちゃん、可愛いでしょ?」

 庭で花火をして遊んでいる最中、スイカを取りにおいでと呼ばれて台所に行った俺に、真知子おばちゃんがニヤつきながらそう言っていた。

「人間、顔じゃないよ」

 そう答えたのも憶えている。

 だが、当然今では分かっている。人間顔ではないが、内面は自然と表に出る。表情に出る。それが「顔」になってゆく。

 彼女には内面から出る眩しさがあった。そしておばちゃんが言う通り、彼女は可愛いかったし、アラサーと呼ばれるようになった今になっても彼女以上に可愛いと思える人に会ったことはない。と、思う。

 何しろ想い出は美化されるものだ。失望を繰り返す日々に苦しむ中で。

 想い出の中に住む彼女は、いつまでも十三歳の少女のままではなかった。俺と共に成長している。ひとつ年上の俺と共に。


 海からの照り返しを身体中に浴び、蝉が揺らす空気に包まれていた俺に、スッとその声は清涼な風を送り込んできた。

「こんにちはっ」

 スキップしているようなその声で独りで海を見下ろす俺に話しかけてきたのは、成長どころか幼児退行した彼女だった。

「え?」

 挨拶してきた少女に対して驚愕をそのまま声にした俺に、その子は不思議そうな顔を向けていた。慌てて挨拶を返す俺はなんと情けない大人か。

「あ、こんにちは」

 返事があって安心したのか、その子は天真爛漫な笑顔を見せた。

「おじさん、ゆっちゃんのパパ知ってる?」

「ゆっちゃんって、お嬢ちゃん?」

 俺はしゃがみながら少女の顔を指さして聞いてみた。

「そう。ゆっちゃん」

 少女も自分の鼻を指してまた満面の笑顔を浮かべる。

 やはり似ている。あの子に。

「ゆっちゃんのパパのお名前は何て言うの?」

 独身の俺は、子供の扱いに慣れていない。普段なら好んで会話をしようなんて思わない。そんな俺に子供との会話を続けさせたのは、ここが消えるニュータウンだからだろう。やがて覚めると知っている夢の中にいるのと同じだ。

「パパの名前、わかんない。ゆっちゃんが生まれる前に死んじゃったんだって」

 そう言いながらも、その子は笑顔のままだった。一度も会ったことも、会話したことも、見たこともない父親という存在に加え、まだ死というものも本当の意味では理解できていないだろう幼さだ。そのことが、さらに踏み込む図々しさを俺に与えた。

「お父さん、パパはここに住んでたのかな?」

 この場にいる俺に「パパ知ってる?」と訊いてきたのだ。きっとそうなのだろうと思って訊いた。父親の名は知らなくても、祖父母には会ったことがあるかもしれない。そう考えてのことだ。だがやはり少女、ゆっちゃんは首を横に振った。

「ううん」

 やはりそれも知らないのか。そう思ったが、そうではなかった。

「パパは遠いところから来たって。ここはね、ママとパパが初めて会った家があったって言ってた。ママが」

 俺はそれを聞いて周りを見渡した。だが、ゆっちゃん以外に人の気配はない。車のエンジンの音も、人が話す声も。ただただ蝉が休むことなく鳴き続けているだけだ。

「ゆっちゃんのママは? ここにゆっちゃん独りで来たんじゃないでしょ?」

 このときには完全に俺は現実の中に身を置いていた。小学校にも上がっていないような子が、独りでこんな場所に来るわけがない。一番近くにある家でも、この丘の麓まで降りなくてはならない。この子の足なら三十分以上歩かなければならないだろう。

「ママ、いるよ。前のお家があったとこ」

 そう言って、ゆっちゃんは背伸びをしながら「あっち」と、ニュータウンのある丘の頂上側を指して言った。

「ママにはちゃんと言ってきたの? ここに来るって」

「うん。ママも後で来るって」

 俺はそれを聞いて心底安心した。安心したと同時に、ゆっちゃんのママはあの子に違いないと確信していた。だが、それにしても。

「ゆっちゃんは、パパのことは何を知っているの? おじさん、もしかしたらゆっちゃんのパパに会ったことあるかもしれない。ここね、おじさんの従兄弟が住んでいた所なんだ」

「そうなの? じゃあ、おじさんの従兄弟がパパ?」

「それは違うな。おじさんの従兄弟はまだ結婚していないから。おじさんもね」

「ふうん。あのね、ママが子供の頃、ここの家でパパと花火をして遊んでいたんだって」

 今度は驚きすぎて声のひとつも出なかった。出なかったが、冷静に考えれば、子供は誰しも夏は花火で遊ぶものだ。それに、三人の従兄弟は俺と違って友達も多かったし、何よりこのニュータウンには子供たちも多くいた。

「そっか。花火をね。それで?」

 ゆっちゃんはキョロキョロして足元を見回している。そして、一本の手頃な枝を拾い上げると、それを俺のふくらはぎにそっと押し当てた。

「パパがね、花火をこうやってママの足に当てちゃったんだって。ジュッて」

 恐ろしい話ではない。怪談などではない。だが、それを聞いた俺は背筋を凍らせた。

「責任取ってよ」

 蝉の声より大きく頭の中に響く彼女の声。

「ミカちゃん」

 突然思い出された彼女の名前。その名前を口にすると、ゆっちゃんは驚いたように振り返った。

「あれ? ママが来たのかと思った。おじさんがママの名前言うから」

 やはり。間違いない。この子は、あの子の、ミカちゃんの子だ。

「それでママは火傷しちゃったんだね」

「うん。パパはそのセキニンをとってママと結婚したんだって」

 何なんだ、この話は。何を間違えている? 俺の記憶か? 俺の存在そのものか?

 さっきまで聴いていたセブン・デイズがぐるぐる回りだす。これは責任を取らなかった俺への罰か?


 多分軽い熱中症だったのだろう。

 現実はそんなに複雑ではない。

「ゆっちゃあん!」

「ママぁ!」

 子供を迎えに来た母親に、立ち上がってお辞儀をした。ただ、ずっとしゃがんでいた俺は、急に立ち上がったせいで無様に倒れてしまったが。

 気がついた時は、エアコンが効いた自分の車の中。シートをフラットに倒した後部座席で仰向けに横たわり「日曜日では遅すぎる」と歌うスティングを聴いていた。

「あ、大丈夫? ごめんね、車、勝手にエンジンかけちゃって」

 変わらない。あの頃と変わらない話し方だ。それだけで、彼女が俺のことを覚えていてくれていると確信できた。いや、娘にあの話をしているくらいだ。俺と同じくファーストキスの相手との想い出は残されていたのだろう。

「いや、ありがとう。その、驚かせてごめん」

 俺は彼女の顔を見ることができず、まだ気分が優れない風に装って、腕を両目の上の置いた。

 何から訊けばいいのか、話せばいいのか、考えを巡らせる俺より早く、ミカちゃんは答えをくれた。

「娘から聞いたでしょ? あの子の父親の話」

「ああ」

「本当はね、死んでないの。別れただけ」

 なるほど、よく聞く話だ。小さな子供に離婚を説明するのは難しい。死んだと聞かせる方が楽だ。子供のためにはどちらがいいかわからないが。

 ただ、どちらにしても勝手なことに俺の心は傷んだ。何年も彼女のことを実在の人物ではなく、想い出という物語の登場人物にしてしまっていたにもかかわらず。本当に勝手だ。結婚していて、子供まで授かっていたということに心を傷めている。

「ごめんな」

 それでも俺は謝罪する。

「ううん、ちょっと驚いたけど会えて嬉しい」

「そうじゃなくて」

「ん?」

 まだ顔は見れない。腕をそのままに俺は勝手に出てくる言葉をそのまま好きにさせていた。

「火傷。ごめん。責任取れなくて」

「ああ、あれね。半年も経たずに跡形もなく治っちゃった。あの時は本気で一生消えない傷痕になるって思ったけど」

 彼女は少し残念そうにそう語った。

「ゆっちゃん、いや、ごめん、娘さんはパパが火傷させたって」

「怒った?」

「怒る? どうして?」

「大切な想い出を、勝手に改竄したから」

「改竄って、大袈裟な」

 俺はつい少し笑って、目の上に置いていた腕を退けた。

 彼女と視線がぶつかる。

 彼女は涙を浮かべていた。

「こんなこと話してもしょうがないけど、いい結婚生活じゃなかった。苦しかった。娘が生まれてからは特に。でも、あの子にそれを知られたくなかった。だから、嘘でも、私の人生がフィクションになっても、あの子の父親との結婚が幸せだったって娘には伝えたくて」

 それ以上聞いていられなかった。純粋さを失った「おじさん」になってしまっている俺は、スマートに立ち止まって振り返るだけなんてできやしなかった。馬鹿な犬みたいに自分の尻尾を追いかけ回している。

「ここまではバスで来たの? 家まで送るよ」

 狡い。我ながら。明らかに彼女は過去の想い出に助けを求めている。そして、俺に。

 でも、それは突発的なものだ。彼女の中でも、現実の俺とは違う彼女の理想通りに成長した俺が存在しているはずだ。今彼女は目の前の俺ではなく、彼女の中の俺を見ている。

 それを分かっていて、俺は選択を彼女の手に委ねた。

「ありがとう。でも大丈夫」

 やはり彼女も大人だ。一瞬で弱気な俺を見抜いたのだろう。だが、涙を溜めただけで流すことがなかった彼女の笑顔を見て、俺の中で何かが弾けた。

「お前は今を生きているのだろう?」

 自分の心の声というものが、ここまではっきり聞こえたことはない。

 あの時から十四年。お互いに交わらない人生を歩んできたが、これからも関係のない道を進まなければならないと定められているわけじゃない。自分がどうしたいか。大切なのはそれだけだ。

 彼女がどう思うかはその後についてくる話じゃないか。

「やっぱり送らせてくれないかな。もう少し話もしたい」

 彼女に心の底からの思いをぶつけたとき、俺は自然と彼女の手を取っていた。

「うん。でも、送ってもらう前にお願いというか、提案があるんだけど。ここで花火して行かない?」

 時代の流れの象徴のような場所で、俺たちは、あの時から止まったままだった時間を動かし始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時止めた夏をもう一度 西野ゆう @ukizm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ