ヘビ

キナコ

ヘビ

 その年の夏は例年にも増して暑かった。そんな八月のじりじりと灼ける午後、ベランダに置いた鉢のトマトにヘビが食らいついていた。

 トマトの鉢植えは、妻がホームセンターで買って来てベランダに置いたものだ。小さな青い実が一つだけついていた。


「すごく大きなトマトになるらしいよ」


 そう言いながら、妻は乱雑に溜まったビールの空き缶やウイスキーの空き瓶をいそいそと片付けて、狭いベランダにトマトの場所を作った。前夜、久しぶりに抱いたせいか妻の機嫌はよかった。

 それから三日もしないうちに、私の失業と酒について、妻はまた小言を言い始めた。手を上げたことがよほど気に入らなかったのか、パートに行くと言って出たきり帰らなかった。


 ネットで調べると、ヘビはどうやらアオダイショウらしい。それほど長くはないが胴はバナナよりも太い。世田谷の空き家にタヌキが住み着いているというニュースを見たが、このヘビもそういう類いなのだろう。ひょっとしたらタヌキに食われそうになって逃げ出してきたのかもしれない。都会育ちのヘビだから枝についたトマトなんか見たこともなくて、卵と思って丸いものに食らいついたらトマトだったというわけだ。


 近づいてよく見ると、大きく開いた口の中にガラスを砕いた棘のような歯が奥に向かって並んでいる。それが硬いトマトにがっちり食い込んで、口を外すことができなくなったようだ。

 まぶたのない目玉がこちらに向いている。ヘビとトカゲの違いは、瞼だ。ヘビに瞼はないがトカゲにはある。手足のないアシナシトカゲがヘビでないのは、瞼があるからだ。


 トマトを咥えて枝からだらりとぶら下がったヘビは、時折り身悶えするように、長い胴をくねらせる。私はテレビの高校野球を端に観ながら、日の暮れるまでヘビを眺めてウイスキーを飲んだ。


 記録的な暑さだそうだ。しばらく雨も降っていない。トマトはもともと乾いた土地に育つ植物だから、この夏はトマトに向いているのだろう。トマトはみるみる大きくなった。そしてトマトを咥えたヘビの口もますます大きく開いた。トマトは大きくはなったが、しかしなかなか熟さず、あいかわらず硬そうだった。


 ヘビがトマトにぶら下がってそろそろ一週間になる。たいした生命力でヘビはまだ生きている。しかしそれも長くはないだろう。妻の言ったようにトマトは青くて硬いまま見事に大きくなった。おかげでトマトを咥えたヘビの頭は妙な具合に引き伸ばされ、瞼のない目玉が今にも落ちそうに飛び出していた。


 夜中にベランダからパタンパタンと音がする。ひどく汗をかいていた。リモコンに省エネというボタンがあるせいか、妻はエアコンを省エネボタンの二八度に設定していた。私が下げようとするといつも喧嘩になった。

 ベランダのパタンパタンはいつまでも止まない。仕方なくカーテンを開けてベランダを見ると、そこに正座した妻がいた。


「あなたはひどい人です」


 妻は瞼のない目玉で私を睨み、そう言った。


 目が覚めて夢とわかっても、ベランダのパタンパタンは続いている。夜はまだ明けていない。おそるおそるカーテンを薄く開けて隙間から覗いてみる。トマトにぶら下がったヘビがのたうって窓をパタンパタンと叩いていた。のたうちながら卵を産んでいた。

 あの太い腹には卵があったのだ。卵はあとからあとから溢れるように出てきた。それを見ているうちに私は恐ろしくなってベッドに横になると、瞼を固く閉じ、両手で耳を塞いだ。


 再び目を覚ましたとき、音は止んで明るくなっていた。卵はトマトの鉢から溢れてベランダにも幾つか転がっていた。枝と見紛うばかりに痩せ細ったヘビは、赤くなりかけたトマトから落ちて死んでいた。

 カラスに卵を盗られないよう私はベランダをベニヤ板で覆った。卵を部屋の中に移すことも考えたが、触りたくなかったし、触れてはいけない気がした。


 やがて秋の初めに、孵化しない二つを残して小さなヘビが方々に散って行った。私はベランダを片づけ、部屋を掃除し、ハローワークに通い始めた。しばらくマンションの入り口に「ヘビに注意」という張り紙がされたが、それも剥がされるころ、妻が帰ってきた。妻の腹は双子で膨らんでいた。

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ヘビ キナコ @wacico

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