撫子色に宿る意思
いつの間にか日が落ちている。薄っすらと夕闇、藍の空。涼しい風が体に溜まっていた熱を洗い流す。
存外、シャルルには長くつきあわされてしまったらしい。
「一旦休もうか」
気持ちを落ち着かせるためにも、今晩は宿に泊まったほうがいい。
二人で目を合わせ、歩き進める。彼らの姿は路地の向こうへと消えた。
後日、二人は桟橋の上を歩いていた。
とっくの昔に夜は明けて、今は晴れやかな青に染まる空。風が吹けば潮の香りがする。
「私、なにもできませんでした。強くなったと思っていたのですが、ただの勘違いだったようです」
湿った風にふんわりとした髪を揺らしながら、令嬢は寂しげに笑う。
「聖女のようにかっこよく戦えると証明したくてここまでやってきたのに……」
できるだけ明るく振る舞おうと頑張ってはいるようだが、沈んだ心を隠しきれていない。見ていていたたまれなくなるほどだ。
「そんなことはないよ。いままでだって僕を助けてくれたじゃないか」
「一人だったら僕は逃げてた。君がいたからここまで来れたんだよ」
本当のことを伝えるとアリスが目を丸くする。
信じられないという顔だが、気持ちはきちんと伝わったらしい。
ぽかんと開いた口がゆるやかに弧を描く。令嬢が花が咲くように明るく笑ったのを見て、報われた気分になった。
そこへドスドスとした足音が聞こえてくる。
シャルルが従者を引き連れて歩いてきた。
決着は着いたはずなのにしつこい。
気を引き締める青年の横で、令嬢は体を縮めた。
「どこへ行くつもりだ? お前の居場所はきらびやかな屋敷の中にしかない。分かったのなら潔く戻るのだな」
彼女の細腕を掴んで引き寄せる。
「行けません。私はもう決めたのです。彼と共に魔王を討つと」
「正直に口にしたらどうなのだ? 貴様は魔法の力など使いたくないのだろう? 魔王との戦いなどまっぴらだ。本当は逃げ出したくてたまらないのに相手が勇者だから断れず、従わざるを得なくなっているのではないか?」
真剣な顔をして突拍子のない言葉を口にする。
アリスへは青年が直接、協力を持ちかけたわけではない。彼女が自ら連れて行ってほしいと頼んできたのだ。
ありえない。あっさりと切り捨てたくなる。
だけど、もしも彼女がシャルルの言った通りのことを考えているとしたら、どうなのか。自分には令嬢を解放する義務がある。
「貴様はなぜ勇者と共にいる。世界を救うため? 誰かを守るため? 嘘くさいな。いつも他人のことばかりで、おのれの意思がない!」
シャルルは疑問形を連ねたすえに、きっぱりと言い切った。
アリスは反論すらできないようでうつむき、口元を引き結ぶ。
凍りついたような沈黙の後、彼女はようやく唇を開いた。
「確かにいままでの私は、そうでした。あなたとの婚約も本当は嫌でした。だけど断れなくて、この現実が耐えきれなくて、逃げてしまったのです」
おのれの選択を悔いるように眉を寄せ、下を向く。
「ならば今はどうなのだ。ついていったことを、後悔はしていないのか?」
強い口調で問いかける。
「貴様は本当に、逃げたいとは思っていないのか?」
圧のある声に呼応するように、汽笛の音が迫る。
ロイヤルブルーのスマートなフォルムをした船が岬に到着した。
ノブレス号だ。
乗ってしまえばイノセンテまで行くしかなくなる。引き返すのなら今しかない。
「どれほど危ないところでも、僕についてくる覚悟はあるか?」
落ち着いた顔で問いかける。
アリスは崩れそうな表情で振り返った。
青年の前ではまっすぐに口を結ぶ。
次の言葉を突きつける相手は彼ではない。
きっとその時点で彼女は答えを得たのだろう。
だから迷わずシャルルのほうを見た。撫子色の瞳に硬い意思を宿して。
「私、あなたの元へは帰りません」
口を大きく開けて、ハッキリと告げる。
「勇者と共にあるのは私の意思です。どうか、信じてください」
答えを聞いて心が波立つ。
衝撃を受けたのは、彼女が見せた決意だ。
美形の婚約者を振った令嬢の姿は美しく、かっこよくすらある。
きちんと自分の足で立っているようにも見えて、普通の青年との差を見せつけられた気にもなった。
アリスの成長にショックすら受けて、
シャルルは反応を示さない。怒るでも悲しむでもなく、厳しい態度のまま相対している。
「よかろう。貴様など婚約を結ぶ価値は端からなかったからな」
フンと鼻を鳴らしながらも、口元を緩める。
「そうか、貴様は本当に強くなろうとしていたのか」
独り言のようにしみじみと語り、視線を下げる。
そして男はニカッと笑った。
「ならば責務を果たしてくるがいい。なに、私の命令だと言えば、周囲も反論できまいよ」
晴れやかに告げると、潔く背を向ける。
シャルルは堂々とした足取りで歩き去っていった。
意外なほどすっきりとした態度に困惑を隠せない。
ぽかんと硬直する青年をよそに、令嬢は優しげに微笑み、手を振った。
シャルルがどんどん離れていき、従者も後に続く。
令嬢と青年は港に留まり、大通りへと消えていく二人の影を見送った。
なお、すでにノブリス号は動き出す準備をしている。
二人は急いで船に乗り込み、席に着く。余韻を感じる暇はなかった。
かくしてノブリス号は発進。悠々と大海原を駆けていく。
船上はギモーヴに引かれているときもゆったりとした環境だ。おかげで景色を堪能する余裕もある。
下を覗き込めば陽光を反射してきらめく水面、顔を上げれば青く澄み渡った空。もくもくとした入道雲を切り裂くように、猫のような鳴き声をした海鳥が駆け抜けていく。
ここが海か。内陸県出身の身としては感動すら覚える。
隣でも令嬢が生き生きと、水平線を眺めていた。
目をきらめかせる少女をじっと見ていると、不意に彼女がこちらを向く。
目が合った拍子に楽しげに微笑む。
瞬間、青年の心臓がドキッと弾んだ。
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