第8話 今も昔も

「……お風呂、上がりました」


 声を聞いただけで、梢ちゃんが緊張していることが分かった。


「うん。ここ、座ってくれない?」


 ぽん、とソファーを叩く。


「……はい」


 梢ちゃんは強張った声で言って、俺の隣に座った。


「あのさ、梢ちゃん。えーっと……」


 夏の間、梢ちゃんとはたくさんの話をした。

 会っていなかった時間なんて気にならなくなるくらい、梢ちゃんと過ごす時間が自然になっていった。


 なのに俺は今、どうしようもなく、緊張している。


「やっぱり梢ちゃんには、北海道に帰ってほしいんだ。それが、梢ちゃんにとってもいいと思うから」

「……でも」

「うん。俺だって、ただ帰れ! って言うわけじゃないよ。でもやっぱり、婚姻届は書けない」

「……いーくん……」

「待って、泣かないで! 続き、続きがあるから!」


 考えてみれば、いきなり家にやってきた梢ちゃんを拒否できなかったあの日から、俺たちの答えは決まっていたのかもしれない。


「俺、有給とったんだ」

「……有給?」

「うん。去年は全然使えなかったけど、どうしてもって頼んで3日間も休みをもらった」


 心臓がうるさい。心臓の音、梢ちゃんに聞こえてるんじゃないかな。

 こんな時でさえ格好つけられないなんて、俺は本当に情けない男だ。


「だからさ、俺も行こうと思って。北海道に」

「えっ!?」

「一緒に行こうよ。それなら梢ちゃんも、北海道に戻りたいでしょ?」

「た、確かに……で、でもでもっ……」

「それでさ、俺に、梢ちゃんの両親に挨拶させてよ」

「……え?」

「梢ちゃんの、婚約者ですって」

「いーくん!!」


 大声で叫んだ梢ちゃんが、俺に抱き着いてきた。


「待たせてごめんね、梢ちゃん」

「いーくん……」

「こんな俺のこと、好きになってくれてありがとう」


 俺はきっと、どうしようもなく梢ちゃんのことが好きだ。

 だから、梢ちゃんを手放すことなんてできない。


 ……梢ちゃんには、俺なんかよりずっといい人がいるかもしれない。

 だけど。


「梢ちゃんのこと、俺に幸せにさせてほしい」

「いーくんと一緒にいるだけで、私は最高に幸せなんですよ……っ!」


 泣きながら笑った梢ちゃんは、天使みたいに可愛い。


「ありがとう。俺も、梢ちゃんといると幸せなんだ」


 梢ちゃんの声、笑顔……存在全てが、疲れきった俺を癒してくれた。

 ただ眠るだけだった家が、いつの間にか幸せな場所になっていた。


「ねえ。梢ちゃん」

「はい」

「今度の土曜、指輪見に行こうか」





「気に入ったの、あった?」

「待ってください! すぐには決まりませんよ。だって、すっごく大切な指輪なんですから……!」


 告白してすぐに指輪……なんて、早すぎるかもしれない。

 でもこれは、俺なりのけじめだ。だって、梢ちゃんの親に会いに行くんだから。


「ねえ、梢ちゃん」

「はい?」

「指輪、大学でもちゃんとつけてね」

「いーくん……!」


 そして、年上らしからぬ嫉妬だ。

 大学生活を楽しんでほしいと思っているのは事実だけど、梢ちゃんが男子と仲良く話している姿を想像するだけでもやもやする。


「絶対、つけます。もう、全校生徒に自慢します。いーくんからもらった指輪だって!」

「……それは恥ずかしいよ。それに、そんなにいいやつは買えないかもしれないし……」


 社会人とはいえ、まだ働き出して2年目だ。そんなに貯金があるわけじゃない。

 まあ、残業代のおかげで、それなりに余裕はあるけれど。


「いーくんがくれる指輪だから、自慢するんです。本当、どれにしようかな」

「梢ちゃんが気に入ったやつでいいからね」

「ありがとうございます! 本当にどうしよう。やっぱり、憧れのお店がいいかなぁ……」


 ……あ。

 そういえば昔、お菓子についてきたおもちゃの指輪を、梢ちゃんにあげたことがあったっけ。


 あの時も梢ちゃん、みんなに自慢する! なんてはしゃいでたな。

 俺の母さんにまで自慢したせいで、さんざんからかわれたし。


「いーくん? 急に笑ってどうしたんです?」

「ごめん。ただの思い出し笑いだよ」

「なにを思い出してたんです?」

「昔の梢ちゃんのこと。なんか、変わってないなぁって」

「そうですよ。私、全然変わってません」


 にっこりと笑って、梢ちゃんは俺の手をぎゅっと握った。


「今も昔もずーっと、いーくんが大好きなままだもん!」

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