第7話 私のせいにして?
「……えっと、なにしてるのかな、梢ちゃん?」
「見て分かりませんか? 旦那さまに、おはようのキスをしようとしてたんです」
「……梢ちゃん」
俺がため息を吐くと、梢ちゃんが俺の上からおりる。
目を開けたら、目の前に梢ちゃんがいたのだ。
「昨日はキスさせてくれたじゃないですか!」
「あれは……ていうか、覚えてるんだ? かなり酔ってたのに」
「はい。私、酔っても記憶はなくさないタイプみたいです!」
面倒なタイプだなぁ……。
「それで私、思ったんです」
「なにを?」
「1回しちゃったんだから、あと何回やっても一緒かなって!」
「……梢ちゃんはもう……」
「ね、いーくん。ちゅーしましょう、ちゅー」
にこにこと笑いながら、梢ちゃんが耳元で囁いてくる。
本当にこの子は、心臓に悪い。
「梢ちゃん」
「はい? キスする気になりました?」
「そうじゃなくて……えーっと、そうだ。俺、朝ご飯食べたいな」
「朝ご飯?」
「うん。梢ちゃんの料理、すごく美味しいから」
音を立てて、梢ちゃんが勢いよく立ち上がる。
「任せてください! 妻として、最高の朝食を用意してみせますから!」
♡
梢ちゃんとの同居生活にも、もうずいぶん慣れてきた。
平日は梢ちゃんに笑顔で見送られて出勤して、梢ちゃんの作ってくれたお弁当を食べて。
帰ってきたら、梢ちゃんが作ってくれた美味しい夕飯を一緒に食べる。
土日は朝からずっと梢ちゃんと一緒に遊んで、だけど、俺を気遣って疲れないような過ごし方を提案してくれて。
でももうすぐ、夏が終わる。
蝉の鳴き声が聞こえてくる。小さく深呼吸をして、玄関の扉を開ける。
「ただいま、梢ちゃん」
「おかえりなさい、旦那さま!」
いつまでもこのままじゃいられないってことは、分かっているつもりだ。
♡
「梢ちゃん。夏休みって、9月末までだよね」
「はい。そうですよ? あ、でも安心してください。単位は足りてるので、後期の授業は出席しなくても大丈夫です」
「……卒論は?」
梢ちゃんは気まずそうに俺から目を逸らした。
やっぱり、思った通りだ。
「単位は足りてても、卒論はまだ出してないでしょ」
「そ、卒論なら、ネットで提出できます。先生とのやりとりだって、メールでできますから」
「そりゃあ、そうかもしれないけど」
「私、言ったじゃないですか。婚姻届を書いてくれるまで、北海道には戻らないって」
言った。確かに言った。
さすがに俺も覚えている。
「というか、いーくんはそんなに、私に帰ってほしいんですか?」
拗ねたような声で言い、梢ちゃんが俺を睨みつける。
「そんな顔しないでよ」
「……だって」
梢ちゃんとの生活は楽しい。正直なところ、このままずっといてくれたらいいのに……とも思う。
「俺はさ、梢ちゃんにちゃんと大学生活も楽しんでほしいんだ。北海道には、友達もいるんでしょ?」
「……でも、いーくんはいません」
「そりゃあそうだけど。梢ちゃん、就職は東京でしょ? 来年からは、すぐに会えるよ」
「だったら、婚姻届を書いてください。そしたら私、ちゃんと帰ります。……私、お風呂入ってきますから!」
大きい足音を立てながら、梢ちゃんは浴室へ向かった。
少しして、シャワーの音が聞こえてくる。
「……言い過ぎたのかな。でも、もう8月だし」
そろそろ、帰るための飛行機を予約しないといけないはずだ。
「婚姻届を書かなかったら、このままずっと、梢ちゃんはここにいてくれるのかな」
恋人でも家族でもない、曖昧な関係なのに?
駄目だ。そんなの、俺が梢ちゃんに甘えているだけ。
「……ダサいな、俺」
曖昧な関係なのは、俺が臆病だからだ。
いつか梢ちゃんに飽きられるんじゃないか。それが怖くて、踏み出せないだけ。
大人として、梢ちゃんのことを考えている?
幼馴染のお兄ちゃんとして、梢ちゃんに手は出せない?
全部、自分を守るための言い訳だ。
「いーくん!!」
いきなり、風呂場から梢ちゃんの大声が聞こえてきた。
慌てて脱衣所へ移動する。
「梢ちゃん、どうかしたの!?」
「大変です……シャンプーがなくなっちゃったので、詰め替え用のシャンプー、とってくれません?」
「……え?」
「洗面台の下の棚に入ってますから」
「……えーっと、出して、扉の前においたらいい?」
「いえ。私にください」
浴室の扉が開く。
「こ、梢ちゃん……!?」
「もう、なんで目を逸らすんですか?」
「いや、そりゃあ、そうでしょ……!」
大人として、俺はすぐに目を逸らした。
だけど、一瞬。たった一瞬だけ、見てしまったのだ。
梢ちゃんの、一糸まとわぬ姿を。
「その反応。いーくん、見ましたね?」
「い、今のは不可抗力っていうか……」
「ふふっ、私の作戦、大成功です」
「……作戦?」
「はい。なにやら悩んでいるいーくんを、強引に押しきっちゃお! 作戦です」
なにその作戦名……!?
ていうか、俺がいろいろ悩んでたの、梢ちゃんにバレてたんだ……。
「ねえ、いーくん」
「……なに?」
「いーくんはただ、私に流されちゃえばいいんです。全部の責任は、私がとりますから」
そう言って、梢ちゃんは大人っぽく笑った。
「いーくん。いーくんは、難しいことなんて考えなくていいです」
「……梢ちゃん」
「いきなり押しかけてきて、こうやって強引に迫って……全部、私が悪いんです。だから、私のせいにしちゃってくれませんか?」
……なにしてるんだろう、俺。
梢ちゃんに、こんなこと言わせるなんて。
「……とりあえずシャンプーの詰め替え、おいていくね」
棚から詰め替え用のシャンプーを取り出し、床にそっと置く。
「梢ちゃん。お風呂から出たら、時間もらえない? ちゃんと、話したいことがあるんだ」
年上として。
男として。
さすがにこれ以上、梢ちゃんのせいにはできない。
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