第3話 嫁のいる生活

 アラームの音が鳴り響き、樹はゆっくりと目を覚ます。

 それと同時に、キッチンから料理の音が聞こえてくる。


「あ、いーくん。目覚まし鳴りましたよ! もう起きる時間ですよね?」

「……ん、ありがとう」

「ちゃんと疲れとれました? ソファーなんかで寝て……」


 拗ねたような声で言う梢。


「大丈夫だから。心配してくれてありがとう」

「そうじゃなくて! 私と一緒にベッドで寝ればいいのに、って言いたいんです! ていうか、私がソファーで寝るべきでした……」

「それはだめ。梢ちゃんはちゃんとベッドで寝て」


 俺の部屋は、一人暮らし用のマンションだ。当然、ベッドは一個しかない。

 寝室とリビングを分けるカーテンがあったのが、せめてもの救いだ。


「いーくん、優しい……結婚して」

「だから、すぐ婚姻届出さなくていいから」

「……いーくんの意地悪」

「どこが!?」


 まったく梢ちゃんは……。


「いーくん、朝ご飯は卵焼きと銀鮭です。いーくん好みの甘い卵焼きですよ?」


 ぎゅる、とお腹が鳴る。


「ふふ。いっぱい食べてくださいね。今日はお弁当も、昨日より気合を入れて作ったんですよ。ほら、起きて、起きて」

「分かった。すぐ起きるから」





「旦那さま、行ってらっしゃいませ」

「うん。もう行かないといけないんだ。だから、早く鞄を渡してくれない?」

「まだ駄目です。だって……行ってらっしゃいのキスが終わってないんですから」

「梢ちゃん」


 ちょっと怒った声で名前を呼ぶ。


「……いーくん、怒ったら怖い」

「えっ!? ご、ごめん。怒ってないから。ごめんね? 泣かないで」

「旦那さまがキスしてくれたら元気になります!」


 ……絶対にわざとだろ、これ。

 分かっている。分かっているけれど、俺はとことん梢ちゃんに弱いらしい。


「……本当に、俺のこと好きなの?」

「はい! 世界で一番!」

「……それ、小さい時の記憶を美化してるんじゃなくて? 今の俺は、ただの冴えない男だよ」


 まあ別に昔だって、特別なところなんてなかったわけだけど。

 自分で言っていて悲しくなるけど、俺は平凡な男だ。

 イケメンじゃないし、一流大学を出たわけでも、一流企業で働いているわけでもない。


「いーくんから見たら、もしかしたらいーくんは冴えない男性なのかもしれません」

「たぶん、誰から見てもそうだけど」

「だとしても私にとっては、最愛の旦那さまなんです」

「梢ちゃん……」

「いーくんは、私じゃ嫌ですか?」


 嫌なわけない。梢ちゃんは俺にはもったいなさすぎる子だ。

 美人だし、家事だって上手だし。

 だからこそもっと、自分を大事にしてほしい。


「梢ちゃん」

「はい」

「行ってきます」


 本当はお兄ちゃんとして、もっと突き放してあげるべきなんだろうけど。


 ちゅ、と梢ちゃんの額にキスする。


「とりあえず、今日はこれで。鞄、もらうね」

「い、いーくん……!」


 梢ちゃん、顔真っ赤だ。

 結婚するなんて言ってるのに、おでこにキスしただけでこうなるんだ。


 ……可愛い。


「今日も、なるべく早く帰ってくるから」





「お先に失礼します」

「あれ、今日定時?」

「うん。仕事、終わったから」

「マジ? お前、そんな仕事早かったっけ?」


 同僚が驚くのも無理はない。俺はいつも、定時とは程遠い時間に帰ってるんだから。


 でも、今日はいつもよりやる気が湧いてきて、頭の回転も早くて、仕事がもう終わってしまった。


 家で梢ちゃんが待っていると思うと、どうしても早く帰りたくて。

 結婚って、こういうことなのかな。


「じゃあ、おつかれ」

「おー」


 梢ちゃんに、ケーキでも買って帰ろうかな。





 ガチャ、と玄関の鍵を開ける音。


「ただいま」

「おかえりなさい、旦那さま!」

「うん。そうだ、これお土産」

「ケーキ?」

「梢ちゃん、甘い物好きだったでしょ? 好みが変わってないといいんだけど」


 梢ちゃんは昔、チョコレートが大好きだった。そして、ケーキはいつもチョコレートケーキを選んでいた。


「嬉しい! 開けてもいいですか?」

「いいよ」

「わ……っ! こ、こんなに!?」


 うん。そうだよね。俺だって逆の立場なら、きっと同じリアクションになる。


 箱の中には、六個もケーキが入ってたんだから。


「……梢ちゃんが好きなの、分からなくて」


 店に行って、俺は迷いなくチョコレートケーキを選んだ。

 でもすぐに、もしかしたらケーキの好みも変わってるんじゃ? と思ったのだ。


「ごめん。こんなにあっても困るよね」

「そんなことないです!!」


 よかった。梢ちゃん、嬉しそうだ。


「本当に、すごくすごく嬉しいんです。いーくんが私の昔の好みを覚えててくれたのも、今の私の好みに合わせようとしてくれたのも」


「私、いーくんのこと、もっと、もーっと好きになっちゃいました」

「ケーキくらいで大袈裟だよ」

「ケーキくらい、じゃないです。いーくんが私を思ってしてくれたことが、嬉しいんです」


 ふふ、と幸せそうに笑う梢。


「いーくん。私のこと、お嫁さんにしてくれてありがとう」

「……いや、さすがに流されないからね?」

「えー? 上手くいくと思ったのに!」


 まったく、油断も隙もない。


「梢はいつでも、入籍準備万端ですからね!」

「はいはい」


 困ったな。

 結婚もいいかも……なんて、思い始めてしまっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る