第3話

鴛鴦夕星エンオウユウヅツです。みんなよろしくお願いします」

 おれの教室が全国大会に優勝したように湧き上がった。

 いつもはあくびやヒソヒソ話ばかりの教室が、夕星の登場でツボを突かれたように覚醒する。

 生徒達の大音声に圧倒されたのか、担任の汗が止まらない。

 勤めを果たそうと、夕星に空いている席に着席するように促すと、

「私の席はそこじゃないので」

 夕星は示された方ではなく、おれの隣の席の前に立った。

 目の前に立たれた女子生徒は、初めて女神に遭遇したかのように瞳を潤ませている。

「どいて」

 夕星は指で机を叩いた。

「聞こえなかったの。どいて。ここは今から私の席」

 助けを求めるように左右を見る女子生徒の顎を捉えると、耳に近づいた唇が音もなく動いている。

 微かに聞こえたのはこんな一言。

「骨まで焼き尽くされたいの」

 女子生徒は飛び上がる。目から涙が溢れている。

 後ろの席に背もたれがぶつかる勢いで立ち上がると、私物も持たずに席を譲って、同級生の女子の元に飛び込んでいった。

 夕星は元々自分の物であったかのように椅子に座る。身体をおれの方に向けて。

「えへへ。これで学校にいる間は、ずぅっと一緒だね」

 吐息が熱さに、頭が思考停止した。

 教室は凍りついたように静まる。授業中はもちろん休み時間になると、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。


「いいじゃん。あいつらいなくたってさ、私がいるんだから」

 学校からの帰り道、一人になった事を漏らしたら、こう返された。

「困ることないよ。もし望を敵視する奴がいたら、私にお任せあれ」

 夕星が指を鳴らす。偶然にも、前にある電線が火花を散らして道路に落ちてくる。

「危ない」

 避けようともしない夕星の手を取って路地に入る。

「どうしたの」

「どうしたのって、電線垂れたの見えなかったのかよ」

「でんせん、ああ、さっきバチバチしてたアレの事。大丈夫だよ。あれくらいで死なないから」

「馬鹿。人間なんて呆気なく死ぬんだよ」

「私は死なないよ。でもありがとう」

「なんでお礼なんて言うんだよ」

「心配してくれたお礼」

 突然手を引かれ、夕星の胸の中に飛び込む格好になってしまう。

「言葉じゃなくて、こっちの方がいいかな」

 唇に指が伸びてきて、焦らすように撫でられた。

 路地は薄暗く物静かで、何かしても気づくものはいない。

 けれども。

「ストップ、ストップ。おれはそんな事したくはない」

 しつこく来るかと思ったが、反発する磁力のように引き下がった。

「そっか。喜んでくれるかと思ったんだけどな。嫌な気分にさせたらごめん」

 素直に引き下がった。自分に非があったように感じてしまい、責める事ができない。

「いいよ。もう。だいぶ暗くなってきたから帰ろう」

「あー望。夜が怖いんでしょ。可愛い」

「違う。早くしないと怒られるんだよ」

「誰に、一緒にいた男に」

 何も答えずに頷く。スマホを見ると門限ギリギリ。

「先帰るから」

 走り出すと、追いかけてきた。

「一緒に走らなくていいんだよ」

「帰らないと怒られちゃうんでしょ。なら私に手伝わせて」

 手を掴まれた。どんどん速度が上がっていく。

 ジョギングしている人を追い抜き、ママチャリも追い抜き、走るスクーターに追いつく勢いだ。

 信号が赤に変わる。引っ張られながらも足を止めた。

「ストップ、ストップ」

 靴底が擦れる。おれの声が届かないのか、速度は弛まない。

「捕まって」

 首元に寄せられて抱きつく格好になった直後、身体が軽くなったような錯覚を覚える。

 下には何台もの車が通っており、こちらを見上げる信号待ちの人と目が合った。

 身体の中の物が上がってくるような感覚によって羞恥心が途切れる。口から逃げようとした内臓が元に戻ると同時に、地面に足がついた。

「ま、間に合った」

 アパートに着いて時間を確認。本当に門限に間に合っていた。

「時間、大丈夫そう」

「うん。これで怒られなくてすむよ」

「良かった。じゃあまた明日ね」

「なあ」

「どしたの」

「えっと、今日はありがとう」

 口に出した途端、一緒に火も吹き出しそうになった。

「どういたしまして。そうだ。今度家に来てよ。望だったらいつでも歓迎するからさ」

 軽やかにウインクをする。こちらの返事を待たずに行ってしまった。

 家に帰って自室でノートに向き合っていると、書斎の方から物音。

 あいつが暴れているのだろう。過去の栄光に縋って。もう書けないくせに。

 おれも書けなくなっていた。騒音被害もあるが、夕星の言葉が頭から離れない。

「家に、行ってみようかな」




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