ツギハギキャンバス

狂酔 文架

第1話

僕が自殺してから、最初に見えたのは、病室で死ぬ僕では無い誰かの姿、ベットの上で一人に看取られ閉じる目に抗うこともせず、死を受 け入れて眠りにつく壮年の男だった。


 白羽 恭介、その老人の記憶が流れ込む。

 幼少期から死に際までの人生の全てが。死因や家族構成。およそ僕ではない誰か の記憶が僕の頭に押し寄せる。

 僕というキャンバスに広げられる白羽 恭介という人間の人生の色は、 僕にはなかったその鮮やかな記憶で、僕の白無地だった世界を塗りつぶした。

 流れ込む僕ではない白羽 恭介という人間の人生、 その全てがキャンバスに描かれた時、僕は、白羽 恭介が生きることのできないはずの今日で目覚めた。


 白い天井と無機質な部屋。腕に刺し込まれた針に少し違和感を感じる。


 これは夢ではない。時折胸を掠める凍傷のような痛みが、僕にそう確信させた。どうやら白羽 恭介という人間はまだ 生きているらしい。


 流れ込んで来た記憶を整理していると、自分とは違う人生の形に、 絵に書いたような幸せに少し嫌気がさす。


 ―幸せか


 白羽恭介以外誰もいない部屋の中で、僕は静かにため息を吐いた。


 体は思うように動かない。これが老人の体であるから、理解することは簡単だった。けれど、肉体的な不便さに慣れる事は案外難しいらしい。


 早々に諦めて、僕はこの老人の中で、少しの間目を瞑った。

 幸せ。それを僕は、感じたことがない。

 いや、明確には、幸せを感じようとしたことがないのだろう。別に友達が いなかったわけでもなければ、家族関係は良好だった。


 ただ誰かに頼るだけで、僕もそうなれた。


 僕は、人を頼るにはもう、闇を見すぎてしまったのだ。

 当たり前の人間関係の中で繰り返される、相談に乗る、愚痴を聞く、信用されるといった行為の数々の中で、僕は気づいてしまった。誰かに信用される度に、人の笑顔の裏に見え隠れする闇に気づくようになってしまった。


 もし僕も誰かを頼ってしまえば、僕もなにか変な事を言ってしまえば、彼らの裏で何を思われているか分からない。

 そう気付いてしまった時から、僕のキャンバスは色を失った。

 その褪色の中で、クラスメイト達の見え隠れする闇に飲まれないように気を付けて、当たり障りない事を言って、話して、笑って、疲れてしまった。


 たまたま同じクラスになった幼なじみが僕を見ていた事を覚えている。悲しげな目で、何かを憐れむような表情で。それでも、僕に何かを言うことはなかった。


 付きまとってくるような視線と、そこに感じる闇、幼馴染だけじゃない、自分を失くした僕を眺めるその憐憫と嘲笑は、日を増すごとに増え ていった。

 どこに言っても『なんで、生きているの?』と問うてくるような その目に、僕は耐えきれなかった。


 白羽 恭介が僕のキャンバスに広げた幸せは、誰かに満たされる幸せだ。

 頼れる誰かがいる幸せ、僕にはいなかった信頼できる人間がいるという幸せ、それに気がついた時、病室のドアが開く音が耳に入っ た。


「お父さん、また悩んでるの?」


 聞いたことのない声のはずだった、少し高くて老けている声。


 初めてのはずの声、でもどこか聞き馴染みのある声に自然と視線が向く。

 大人しめの服装をした女の人、彼の奥さんが、そこには立っていた。

 不思議な感覚だった。まるで映像を見ているみたいに、僕ではない自分が口を開く。


「母さん、そんな毎日毎日来なくても」


「そんなこと言って、また悩んでるんでしょう、顔を見ればわかるわ」


 白羽 恭介の目覚め、それは僕という存在を否定している。

 白羽 恭介は生きている。ならば、これはなんなのだろうか、白羽さんの体で、僕は何をすればいいのだろうか。

 そんなことを考えても、僕という存在に気づくこともなく、二人は会話を進める。


「そうは言ってもなぁ、家の用事もあるだろう?」


 白羽さんは枯れた声でやさしく言った。


「大丈夫ですよ。それより、今抱え込んでいるのはお父さんの方ですよ。孫の顔、見たいんでしょう?」


 老婆は、同じ目をしていた。僕を憐れむようなあの目と。でも、 どこか違う気がする。

 僕の記憶じゃない、それは分かっている。けれど奥さんの言葉は 確かにその通りだった。

 読み取った記憶で、彼の娘は妊娠していた。自分が死ぬのが先か、孫が生まれるのが先かの瀬戸際だった。

 そして、孫の顔が見たい白羽さんは、けれどもその思いをひた隠しにしているのだ。もし言ってしまえば、娘に気をつかわせるから。もし自分が孫を見る前に死ねば、優しい彼女はきっと、そのことを一生後悔してしまうから。

 その思いに妻である老婆は気づいたのだ。そして、彼の隠れた思いを口にした。


「言うなよ、沙紀にはな。変な気を使わせて、あの子が一生後悔するなんてことにはなって欲しくないんだ」


 白羽さんがそういうと、奥さんはふっと優しく笑った。


「……大丈夫ですよ。言う必要もなくなりましたから」


 鞄からタブレットを取り出して操作する。

 数秒と少しの着信音のあと、元気な赤ちゃんの鳴き声が 病室中に響いた。


「お父さん、」


 タブレットに映ったのは元気に泣く赤ちゃんを抱きかかえる白羽さんの娘、沙紀さんの姿だった。


「そうか、生まれたのか……」


 ぐちゃぐちゃな視界がぼやけたのと同時に、白羽さんはそうこぼした。


「だから、お父さん。もう大丈夫ですよ」


 穏やかな微笑みを浮かべて、老婆はそう言った。まるで白羽恭介のすべてを理解した ように、そう言葉を重ねた。

 憐れんで、かわいそうなものを見ていた目は、いつしか優しさを孕んだ目に変わっていた。

 同じ目のはずなのに、奥さんの言葉が、あの目に違う意味があると思わせる。

 もし僕の幼馴染たちが浮かべていたあの目も、彼女と同じ、優しい目だとしたのなら。


 その時、目に映ったのは最初の景色だった。

 ベットの上で奥さんに看取られ、ゆっくりと閉じる自らの目に抗 うことをせず、死を受け入れて眠りにつく白羽 恭介という人間の、 幸せな最後の記憶だった。

 そこで、僕は気付いた。僕が生きたのは昨日死んだ者の今日ではない。昨日死んだ者の、死ぬ間際の記憶だった。幸せを僕に教えるように、白羽 恭介の最後を、僕は見せられたのだ。


 それだけではない。これでやっと死ぬのかと思った時には、再び、別の誰かの死に際に、その誰かとして立ち会う事となった。何度も、僕はたくさんの死に際を見せられた。


 願いが叶う幸せ、好きなものに囲まれる幸せ、誰かの喜びを見る幸せ、僕のキャンバスが、僕の知らない無数の幸せたちに上書きされる。

 沢山の死に際が、僕に幸せという言葉の意味を教えてくれる。

 その度に目に映る、死を見つめる遺された者たちの優しい目が、あの日飛び降りた、僕の間違いを正そうとする。


 —幸せか。


 今なら言える。感情や鬱憤の掃き溜めとしてら都合よく使われる事なんて怖くなかった。自分から吐き捨てられたゴミがあふれるのなんて怖くなかった。本当に怖かったのは、下手に愚痴を吐いて、みんなに嫌われることだった。

 心の中を知ろうともせず、優しさから目を逸らして、自分のことも、そして彼らのことも、勝手に決めつけて逃げだしたのだ。自分の人生から、逃げ出してしまったのだ。


 だから思う。もし逃げなかったら、僕は幸せな人生だったのだろうかと。みんなと一緒に愚痴を吐いて、それなりに悩みを打ち明け合っていたら、僕は幸せを、彼らのように当たり前に、僕のキャンバスに描けていたのかもしれないと。


 でも、僕はもう死んだ。今更だった。全部が遅すぎたのだ。きっと、このまま死に続けるのだろう。そんなことを思った。その時だった。


 目に映ったのは、飛び降りた僕の最後だった。


 流れ込んでくる記憶はなくて、ただ朝の陽光に目覚めるみたいに、あたりまえに僕は目を開けた。

 屋上で飛び降りる寸前のところだ。震える 足が、僕を先に行かすまいと止めている。


 これがもし、僕の人生のやり直しなら、自らの手で生き果てた僕は、死ぬはずだった今日を、自分の手で人生というまっさらなキャンバスを、もう一度描くことができる。

 生き果てたはずの今日を生きれば、僕は明日を再び生きていく事が出来る。


 少し強い風が、僕を煽るように吹き付ける。

 僕はこれを押しのけて死んだのだ。それくらい、生き急いでいた。でも今は違う。ゆっくりとフェンスを越えて、眼下に映る景色から目を背けようとした時だった。

 階段を駆けあがってくる音が、風の音以外ない静かな屋上に響く。

 勢いよく扉を開けて顔を出したのは、一人のクラスメイトだった。

 瞼に涙を浮かべて、心配そうな顔で僕を見つめる彼の姿が、僕の目に映った。

 あの人同じ目だ。僕を殺した、かわいそうな僕を見る憐れんだような嘲笑の目。でも今の僕には分かる。きっとこれは、優しい目だ。


 色々な人の幸せが、僕に教えてくれた。目の前のクラスメイトは、僕に気が付いてくれたのだ。限界を迎え、生き急ぐ僕の思いに、彼女は気が付いてくれた。

 白羽 恭介の思いにその妻が気づいたように、僕の思いに、彼女もまた気付いてくれたのだ。


 視界はもうぐしゃぐしゃだった、友人の顔はぼやけてよく映らない、ただ一人目に入る人影は、僕の手を取って、僕を抱きしめて。僕は、塞がった口で、頑張って言葉を紡いだ。


「ありがとう」


 僕を思ってくれる人が、僕に気が付いてくれる人が、こんなにも近くにいた。その事実と共に、溢れた涙を浮かべる彼女の姿に、僕の心は一つ、名状しがたい感情を覚えた。


 幸せ、きっとこれがそうなんだろう。


 彼女は、僕を友人だと思ってくれていた。彼女の目を、ずっと恨めしく憎んでいた僕とは違う。彼女はずっと、僕の友達だった。僕がみんなを遠ざけていた。


 だから思う。僕だけじゃない。僕がこれから頼る人。僕をこれから頼る人。その全員の手で、僕というキャンバスにたくさんの色が乗るのだと。

 生き果てた皆の幸せが教えてくれた。そして今、彼女がそれを証明してくれたのだ。


 幸せとは、多くの人で紡ぎ合う、ツギハギであるということを。

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