第8話
慎重に確認した後にワートは紅茶を一口飲んだが、香りも味もよくあるものだった。
「毒入りではなさそうですが......一応この紅茶は私に飲ませていただけませんか」ワートは反対されるのではないかと危惧していたが、予想に反してルニスは了承した。
湯気が立つ2人分の紅茶をワートが飲み干してから30分程が経った頃、マスクが戻ってきた。
「お待たせしました。夕食の準備が出来ました」
「ありがとう、マスクさん」ルニスが立ち上がり、3人はダイニングルームへと向かった。
そこはかなり広く、何十人もの人が座れそうなテーブルがあった。皿やカトラリーは既に用意してあったが、料理は無かった。
「失礼を承知で申し上げるのですが、私は主君のルニス様以外に肌を見せるのを禁じられていまして」ワートが言う。
「そうでしたか。それではもう一つテーブルを持って来て、私はワートさんを視界に入れない位置で食事をする。それで如何ですか?」
「ご配慮頂きありがとうございます」
「今用意しますね」マスクは余分なテーブルと席を持ってきて、部屋の近くに置いていたカートから皿を2つ手に持った。
「前菜になります。例によって料理名は忘れてしまったのですが、簡単に言うと魚と野菜のサラダです」
皿にはマスクが入った通り魚と野菜がバランスよく、色とりどりに盛られていて見事だとワートは感嘆する。城にいたころはルニスがこのような食事をとっていたが、暫くこんな食事は見ていなかった。
マスクはもう一つ皿を取ってきて別のテーブルに置くと、ようやく席に着いた。
「お気に召すと良いのですが」マスクは壁の方を向きながら言った。
「素敵。どうもありがとう、マスクさん。いただくわ」
「お待ちください」ワートはヘルムとガントレットを外しながら言う。「マスクさん、申し訳ありませんが、確認させてください」
ルニスがカトラリーを置いた。
「構いませんよ。お気になさらず」
マスクの返答を聞いた後、ワートは食材を一つ一つ確認した。
「問題ありません」
夕食が終わった頃には外も暗くなっていたため、ワートとルニスはマスクの城に泊まることになり、案内された客室に居た。ワートはルニスが眠りについたのを確認すると、音を立てないように気をつけながら部屋を出て廊下を進む。
「既に人の道を外れたようですね」
「何者だ、お前」ワートは振り返る。全く気配に気づかなかったことに驚いた。神経はいつも尖らせているのに、こんな事は初めてだ。
「ただの記憶を無くした覆面です。貴方に協力したいだけで、敵ではありませんよ」マスクはポケットから何かを取り出した。「これはいつか貴方の役に立つでしょう。道が途切れてしまった時に」それは小さな茶色の植物の種のようで、2個紙の上に載っていた。
「どうぞ」マスクは返答せずに言う。ワートはその手を引っ張り、首に短剣を当てた。
「ルニス様に私の事を一つでも喋ればお前の命は無い」
「心配しなくとも、私は貴方達2人に協力したいだけなのです」マスクは一切恐れる様子を見せず、また手の平の種のようなものを見せて来た。ワートはそれを受け取ると、ルニスがいる部屋へと戻った。
あれから一週間が経った。ワートとルニス、そしてベスの旅は続く。北の地に近づくにつれ気温は下がり、寒さが厳しくなってきていた。それにつれてワートは日に日に体が蝕まれていくのを感じていた。2日に1回で十分だった血液の補充が、1日1回、2回と増えていく。常に血液のことが頭の隅にあった。
「ワート、とても体温が低いわ。大丈夫?」ルニスが隣に居るワートの手に触れながら言った。2人は洞窟の中、火を焚いて夜を過ごしていた。外はしんしんと雪が降っている。
「はい、問題ありません」自分が人間から遠ざかっているから、とは当然言えない。
「本当に?何でこんなに冷たいのかしら」ルニスは困惑しながら毛皮をワートに掛けるが、ワートはすぐに返してしまった。
「これではルニス様が冷えてしまいます」ワートは毛皮をルニスに返した。
「じゃあこうしましょう。失礼するわね」ルニスはワートの膝の上に腰を下ろし、身を寄せて毛皮を掛けた。「少しは暖かくなった?」
「いけません、私は穢れていますので」殿下を汚してしまうと、ワートはそう思った。もはや私は人の血液を啜らなければ生きられず、理性を失えばいつ殿下をも手にかけてしまうかも分からない怪物なのだ。
「何を言うの。貴方はとても美しいわ」ルニスは優しく微笑んでワートの胸に頭を預けた。甘い血液の香りがワートを誘惑する。しかし、ルニスを押しのけることなどは到底出来ず、ワートを探すその瞳から、目を逸らすくらいしかできない。
最近ワートには頭を悩ませることがもう一つあった。刻一刻と人間としての理性を失いかけ、化け物に近づいていっている今、本当にルニスを幻の花が咲く場所へ送り届けることができるのだろうかと。別の方法はないかと考えた。例えば誰かにルニスを託すのは、危険だしそもそもまともな生存者が居ない。では、幻の花が咲く場所を偽造するのはどうだろうか。適当な花畑を見つけて、嘘をつく。しかし、これも殿下を裏切る事になるから論外だ。こんな下劣な考えが浮かんでしまった自分にも腹が立った。様々な方法を考えたが、結局良い案は思いつかない。
「ワート。私と共に居てくれてありがとう」
感謝を伝えるルニスに、ワートは胸が苦しくなった。
「私は、ルニス様から感謝を頂けるような人間ではありません」
「そんなこと言わないで」ルニスの声色が少し強くなった。「ワート、貴方は素晴らしい人よ。優しくて、強い。貴方が居るから私はここまで生きて来れたの。もし貴方がいなかったら私はあの城か、隣国で死んだように生きているしかなかった。見ることは出来ないけど、ここに来てから沢山の新しい空気や匂い、音を感じたわ。素晴らしいものばかりだったとは言わないし、不適切かもしれないけれど、私は貴方とここに来れてよかった」ルニスの瞳は力強さがこもっていた。「もし私の体が花の一部となって魂が蘇ったとき、今度は私が貴方の目となるわ」
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