第7話

 2人が幻の花への旅を続けてから1か月が経った。ワートが懸念していたルニスの健康も特に問題なく、水も馬が見つけたものを煮沸することで賄えていた。

 しかし今、ワートの中で段々と大きくなっている心配の種があった。


「ルニス様、ここで少々お待ちいただけますか」ワートは建物の影にルニスを座らせた。

「ええ、分かったわ」ルニスは少し不安そうな顔をしながらも頷いた。


 ワートはルニスに音が届かないくらいまで離れると、転がっていた腐臭がする死体に迷いなく短剣を突き刺した。さらさらと流れる血液を掬って飲むと、ようやく頭がすっきりしてきた。


 首筋に痛みを覚えたあの日から、ワートは血液を欲するようになった。理由は分からないが放置しておくと理性が段々と削がれていくため、定期的にこうして死体を漁る必要があった。ワートは手を必死に拭う。何度拭っても落ちない汚れが、体の奥底まで染みついている。いっそこんな腕切り落としてしまいたかった。手が使えなければ、こんな下劣なことをしなくて済むかもしれない。自分など最初から純粋無垢な殿下に相応しくなかった。だが、私がいなくなってしまったら誰が殿下を幻の花のもとへ連れて行くのだ。

 いや、そもそもいつ正気を失うかわからない私が、連れていくことができるのだろうか......。

 

 ワートはルニスに隠れて血液を調達するとき、いつも葛藤に苦しんでいた。考えても対処法は見つからない。一通りの汚れを落としてルニスの元に戻っていると、話し声が聞こえた。ルニスと誰かが話しているようだった。警戒しながら走って向かうと、ルニスの前には白いマスクをし、フードが付いたマントを羽織った謎の人物が立っていた。


「ルニス様!ご無事ですか」

「ワート、おかえりなさい。何も心配いらないわ。この方が話し相手になっていてくれていたの」

 そのルニスの返答に安心したがワートは謎の人物に対して警戒を解かなかった。

「ルニス様の護衛騎士のワートです」挨拶をすると、謎の人物はワートに向き合った。

「こんにちは、ワート様。私も名前を述べたいところなんですが、残念ながら持っていないので私のことはマスクとでもお呼びください」マスクは丁寧すぎるほどのお辞儀をする。

 ワートはその喋り方や仕草から胡散臭い人物だと思ったが、ルニスがいる手前態度には出さなかった。

「私のことはワートで結構です。マスクさんはどうしてここに?」ワートが尋ねると、マスクは頭を掻いた。厳密にはフードなのだが。

「いやあ、恥ずかしいことに私は記憶を無くしてしまいましてね。助かりましたよ、やっと誰かに会えて」

「記憶を無くされた?」ワートは尋ねる。

「はい。黒竜が襲撃してきたことは微かに覚えているのですが、それ以前の記憶がさっぱりなんですよ。どうしようもないので近くの城で暮しているのですが、たまにこうして散歩をしているんです」

「それは災難でしたね」ルニスが心苦しそうな表情を浮かべながら言った。

「まあでも、基本的なことは体に染みついているみたいで、意外と苦労はしていないんです。今住んでいる城もかなり快適なんですよ。汚染されていない水も調達できますし。何しろ本来なら私はあんなに立派な城、一生住めないでしょう」マスクは突然思いついたように手を叩いた。「そうだ、良ければその城に来て夕食でもいかがですか?この国のことなど、何か知っていることがあれば教えていただきたいのです」

 ワートはそれを聞いてこんな怪しい者に着いていけないと思ったが、ルニスのほうを見ると答えは明らかだった。

「勿論、是非お邪魔させてください」その直後ルニスは首を傾げた。「ワート、ベスはどこに行ったのかしら?周りにいる?」ベスとは、あの白馬のことでルニスが名付けた。

「いえ、また気まぐれでどこかに行ってしまったようですね」

 普段からベスは、移動時以外は知らないうちに消えてしまうのだ。2人が移動の準備を始めると再び現れるので、そこまで心配していなかった。


 マスクが住んでいる城までは歩いて数十分程だった。木々に隠れていて見えなかったのだが、ルニスの城より一回り小さいくらいのもので、古いがマスクが言う通り立派だ。案内され2人が中に入ると、やはり外観と同様古びてはいるが掃除はされているようだった。


「では私は夕食の準備をしますので、お二人はこちらでお待ちください。今紅茶を持ってまいりますね」2人が応接間に連れて来られると、マスクはそう言って出て行った。


「ルニス様」ワートはマスクの足音が聞こえなくなったことを確認すると、すぐに口を開いた。

「どうしたの?」鼻歌を歌っていたルニスは尋ねた。

「あのマスクという人物、ずっと名前の通りマスクをして素顔も隠していますしどうにも信用できません」

「そうかしら?わざわざ夕食をご馳走してくれるみたいだし、私はとても親切な方だと思ったわ」ルニスは微笑んだ。「それに、ここには花が咲いているでしょう?きっとマスクさんが世話をしているのよ。優しい方だわ」

 ルニスのその返答に、ワートは何も言えなかった。目的は不明だが、何か裏があるに違いない。紅茶か夕食に毒でも混ぜて殺すつもりかもしれない。方法はいくらでもある。


 暫くするとマスクは2人分のティーカップとポットをトレイに乗せて持ってきた。

「どうもありがとう、マスクさん」ルニスは疑いを一つしていない純粋な笑みを浮かべる。

 マスクはティーカップに紅茶を注いでいく。ワートはマスクの動作を一つ一つ注視していたが、とても手慣れている、と思った。まるで執事長のフリードを見ているようだ。2人分の紅茶を注ぎ終えると、マスクは一礼してまた去っていった。


 ワートは早速ティーカップを手に取ろうとするルニスを止め、毒見のために紅茶に口を付けた。

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