『水紋を蹴って翔べ』8/18:COMITIA149

丹路槇

水紋を蹴って翔べ

十月一日(火)


 物語が目覚めの場面から始まると、その先いくら読んだって大抵は陳腐な小説だ、と聞かされたのはいつの話だっただろうか。

 知覚した映像が急速に脳へ流れ込んでくる。驚いて布団を跳ね除け飛び起きた。こんなふうに年に一度か二度、見えない何かに揺さぶられて覚醒することがある。俺にとってはそれがたまたま今朝で、目を開けると、長い夢も明け方に口走ったはずの寝言も、ひとつも憶えていないのだった。

 しまった寝過ごしたと慌てて端末のコードを引き寄せる。背中の後ろで同じ向きに眠っていた男ががばっと機敏に起き上がった。頭を軽く振ると、彼の緩くうねった癖毛がふわふわと揺れる。男は俺とは違って毎日目が覚めた瞬間にボタンスイッチが押し込まれたように動き出す。多くのひとが重たいレバーを徐々に持ち上げてだんだんと人間としての営みを再開させるのとはまったく違った、動物みたいな起動速度を見るたびにいつも感動した。

「おはようレイくん。今日、アラーム忘れた?」

 彼は立ち上がるとかけ布団の端を持ち上げ、ばっと煽って広げてから綺麗に三つ折りに畳む。ひと伸びしてからこちらへ振り返り、俺の両手首を掴むと体を一気に引き上げた。腰、膝、足の裏と体重を支える点が三秒たらずの間になめらかに移行していく。

 向き合うと鼻先が相手の肩の高さだ。顔を埋めるのにちょうどいい具合が、いつも少しだけ悔しい。

「違うよ、一時間早いの、いつもより」

 抱き合ったままそう答えると、耳元で無遠慮に「えっ」と叫ばれた。

「瀬崎さん煩い」

 くっついていると衣越しに相手の鼓動を微かに拾うことができる。寝過ごして慌てるはずだった俺を落ち着かせるために作った笑顔は完璧だったが、とくとくと前のめりに打つ速さまでは繕えない。大急ぎで俺を送り出さなくても良くなったことに安心したのか、いつもは軽く抱き合うだけの挨拶が、そのままぎゅうと力任せに腕に囲われた。

「しょうがないじゃあ、ほんとにびっくりしたんだで。じゃあ寝ようよ、僕も布団もどる」

「寝てもいいけど」

「けど?」

 和室の長押に掛けられた時計の針を見る。五時二十七分。瀬崎の言う通り、あと数十分布団の中で再び目を瞑り、定刻のアラームに意識を呼び戻されるまでの微睡は体に補給されるべきかもしれない。出っ張った肩骨に頭を振って両瞼を擦りつけてから、やはり意識はもう冴えてしまったことを確認して、ひょいと顔を上げた。角度が悪くて前髪の生え際あたりが男の顎にぶつかる。

「うあ」

「ごめん。やっぱり起きる。コーヒー淹れていい?」

 目のふちにうっすらと涙を滲ませた男と目が合う。こちらの問いかけに諾否の返事を要さないことをよく理解している瀬崎は、寝起きの髭面を頬にずりずりと擦った。こうしてつがいの喉元に頭をひっつける鳥を最近どこかの動画サイトで観た気がする。あれは何の番組だったっけ。

 背中を囲っていた両腕が緩んで、片手で軽く尻を叩かれた。はじめは何だかさっぱり分からなかったけど、瀬崎は機嫌が良いとよく俺の尻を手のひらでぽんとやる。変な景気づけだ、と思いながらそこからすり抜けると、湯沸かししておく、と声をかけられた。振り返って頷く頃にはもう瀬崎は寝室を出ていた。おかしなやつ。

 俺はそのおかしなやつのことを、人生の半分くらいずっと好きでいる。

 

 中途採用者が自部署へ配属になる日と聞いた時、二年九か月ぶりの補充か、と思考の中で期間を明示したのはきっと事務職の性だ。来春の人事異動をもっても増員はないと見限っていただけに、年頭から始まる一般入試を見計っての補充は手放しで喜びたい。朝礼で事務課の面々にそのことを告げた畔野事務長も、ここしばらくの終わりの見えない惣忙がいったん落ち着くのではないかという淡い期待と安堵で相好を崩していた。

 始業時刻、窓口のガラス戸にかかった薄緑のカーテンを開ける。古い薬局の受付みたいな造りは医療系施設特有のデザインなのだろうか。カーテンを紐で括っている間に、ガラスの向こうでホワイエを横切る学生たちが、わざわざこちらへ顔を向け会釈をしていく。礼儀正しい看護専門学校の学生は、入学して半年で、高校生の延長上から修練中の候補生の顔へ様変わりしていた。

 それを傍で見ていた新入職員が、学生に応えるように大きく会釈を返した。大きく、と言ったのは、本来の動きそのものは通常のひととさほど変わりはないのかもしれないが、その長身によるモーションの派手さに依る。

 本日付で事務課へ配置された職員、鈴木友は、身長が百九十センチメートルあった。スポーツ界ではままあるスケールなのかもしれないが、日常生活で視線を合わせるのに想定外の見上げ方をする。

 彼と初めて会ったのは三日前、部局全体の歓送迎会が開かれた日に、可哀想にも入職前の右も左も分からないまま呼び出されていた彼を連れ各所に挨拶へ回った時だった。

 俺も大概、不愛想で気の利いたことは言えない性分だが、鈴木は口下手というよりも臆病で、振る舞いが身丈に合わない小胆者という印象だった。心の優しい若者なのだろう、と汲み取るのはやや親切過ぎか。汗をかいたビール瓶を持って彼を連れ宴会場を行き来する間、そうだあれは確か、と朧な記憶を手繰っていく。

 

 凍(いて)鶴(づる)の 首を伸して 丈高き

 

 虚子がそう詠んだマナヅルの姿が浮かぶ。立つと、胸の藍鼠の胸から首がすうと縦になると人の影のようなのだ。澄んだ冬の空気の匂いが浮かぶ。鈴木も真冬に涼しい顔をして氷を渡りそうな男だ。

 開けた窓口のカウンターにプラスチックの底の浅いケースをふたつ置き、ガラス戸を半分開けるとそれを外側へ押し出した。手続き書類の申請書類と学生証の再発行願の様式を、記入例の紙とともに説明する。

「ここは単科の専門学校で、申請もいくつか種類はありますが、煩雑ではありません。住所変更、証明書の発行――あそこに自動発行機があるので窓口の申請は半分ほどです。身分証の紛失、校外に病院見学にいく際の手続き、そんなところかな。学生はしっかりしていて、訪ねる時に必ず学年と出席番号、名前と用件を言います。教員が来た時は教務担当か畔野事務長へ。鈴木さんは奨学金の担当をしていただく予定なので、問い合わせが来たら一緒に業務を確認しましょう」

 隣で熱心にメモを取る新人の手元を見ながら、ああこれからまたしばらくは普段の十倍くらい声を出して話さなくてはいけないのだな、と思う。現配置ではずっと自分が下っ端の新入りで、誰かに指南したり引き継ぎしたりということを一切やってこなかった。事務課にいる古参の職員も、俺がこんなに長いセンテンスを喋ることができたのかと、純粋に感動している様子でそっとこちらを注視しているのが伝わる。それから、と説明を続ける時に喉がごろごろしたので咳払いした。昼休みに出たらまずのど飴を買いに行かないと。こんな気苦労も目の前にいる凍鶴には縁のない話だろうが。

「あの、質問してもいいですか」

「はい」

「教務担当っていうのは」

「林田さんと、私です。林田さんは実習と卒試の担当をしています。事務長は運営委員会など、会議全般を」

 鈴木はまた手のひらに置いたリングノートにみっちりと文字を書き込んでいく。上辺でめくる形のメモ帳は彼が持つと子ども用サイズに見えた。

「それから、もうひとついいですか」

「なんでしょう」

「錫白さん、って……」

 彼が続きを問う前に、窓口にやって来た学生の対応のため、ガラス戸を引き開けた。

 訪ねてきた女子学生は数名の友人をすぐ傍で待たせている。カウンターにもたれてスマホをいじる学生、荷物を置いて髪を結い直す学生、見慣れない長身の事務職員にじろじろと視線を送る学生。

 用件に従って申請書を手渡している間、木の葉が擦れるような話し声がする。

 スズシロさん、おはようございます。

 わ、なんで事務課のひとの名前知ってるの。

 何言ってんの、知ってるに決まってんじゃん。一年の時からお世話になってる。

 そうだっけ。

 そうだよ、スズシロさん、いっつも優しいよ。

 笑うの、あのひと。

 笑うよ、超レアだけどね。

 私あれ、あの熊みたいなひとしか知らない。学校の脇で自転車積んでるおじさん。

 用務員さんだ。

 ああ、あれ、用務員さんか。

 よくある、豪邸の大きな庭で剪定や水まきをしている庭師がその大会社の会長だった、とかいう類の話に当てはめてみたが、どう頑張っても事務長を用務員と勘違いしたところで、畔野さんは畔野さんだった。俺が配属される更に数年前、入試課から現席の事務長職に栄転したと聞いている。それが最後の昇格で、今は定年退職まで残り一年半だ。もはや取り繕うことなく、自分はじきにいなくなるから、と言って諸所の業務を先送りにすることが多くなった。このままゴールテープの先を用務員としてクーリングダウン走してくれても構わないのだが、と俺は本気で考えている。学校の本体から切り離された陸の孤島は、やがてやってくる新任の事務長による改革に耐えられるような大きさの部局ではない。

「病院見学の申し込み方法は前回と同じです。太枠内に記入を」

 学生に手続きを促すと、彼女は幼さの残る大きな笑顔を見せる。飛び出た八重歯に自然と視線が吸い寄せられた。矯正せずこのままにしておいた方が断然正解と思える、愛嬌のある特徴だ。

「スズシロさんごめんね、書き方忘れちゃった」

「記入見本が裏側にあります、見ながら書いて」

「はーい」

 緩くウェーブのかかった茶髪を肩から落としながら、彼女は本当に記入例の通り、氏名のところに城南ユリ子、と書き込み、あっと声を上げる。

「やばい、お手本の名前書いちゃった」

 お手本、という言い方に優しさが含まれているのがその時なんだかいいなと思った。

「では、お手本の下に本当の名前を」

「すみません、スズシロさん怒らないで」

「怒ってないです。証明書は申請の翌々日、十五時以降に受け取りができます。手数料は三百円です。現金でご用意ください」

 彼女は余所見したらまた間違えるのではと怯えながら、一画ずつ手を止めては真面目にこちらに視線を送る。そうしてようやく梛木可乃と書き込まれた申請書を受け付ける頃、構内に予鈴が鳴った。手数料を預かる前に手早く領収印の日付ダイヤルを合わせて藍色の判を押した。長定規で点線を切り離して控えの方を渡す。

「三百円です」

「はあい、待って、カバンに財布ないの」

「急いで、一限始まりますよ」

「カノ、階段三段飛ばしできるから平気だよ。あ、そうだ小銭入れ……あった、はい、お願いします」

 差し出された硬貨を手のひらで受け、きちんと三枚あるか指でずらして数えている前に、茶色いウェーブはぱっと窓口の向こうで躍った。丈の短いパンツから伸びた生足が縦に階段をまたがったと思えば、あっという間に二階へと消えていく。

 受け取った現金の収納場所と受付後の手続きについて簡単に説明しながら、俺と鈴木は横に並んだ事務机へ戻った。どちらもベゼルの太い古いディスプレイが使われたデスクトップPCで、中に学籍データと呼ばれる基幹システムが入っている。

 彼は真新しい職員証に書いてある九桁のIDを入力して、あてがわれた端末でシステムにログインした。口頭で指示する俺に従い、証明書マスターを起動する。種別を選択、学籍番号で申請者を参照、必要項目を記入し、〈発行〉をクリック。別画面に生成された証明書がPDFデータになって現れた。斜めにSAMPLEと書かれた文字を印刷しないように一度画面を閉じてから、システムのメニューバーにある印刷ボタンを押す。畔野さんの隣にあるゼロックスの複合機が自動で手差しトレイから用紙を吸い取り、システムから送信した証明書を美しく忠実に書き出して排紙した。誰が操作しても間違いなく同じ結果になる処理が、今日も寸分違わぬ精度で行われている。

 できあがったばかりの証明書を封筒に合わせて三つ折りにする時、鈴木はなぜか、微かに口惜しそうな表情を見せた。複合機を通ったばかりでコピー紙が熱かったのかと思ったが、そうではないようだった。

「これから、何度もこれをやるんですね」

「はい、数え切れないくらい」

「承知しました」

 封筒を受け渡しのトレイに入れ、紙の発行簿に手書きで用件を書き込みする。大きな背を窮屈そうに丸くしていると、カウンターに並んで立っていても首が痛むほど見上げずに済んだ。

 これだけが仕事ではない、と慰めてやりたいが、残念ながら仕事の大半はこんなものだ。機械のように忠実に処理するもの、誰でもできそうな大量印刷、日付だけを今年度のものに変えた学生への一斉通知、什器の点検、落とし物の管理、教員の小間使い。それが毎日延々と続くのも、その中にふと別の仕事が紛れ込んだりするのが厭だったり面白かったりするのは、どこの部局に配属されても似たようなものだろう。

 鈴木の前職は内科医院の医療事務をしていたそうだ。大卒後、専門学校でわざわざ資格を取得して就職したが、そこを二年半で辞めてしまった。大きな組織に入れば大きな仕事ができるかもしれないと期待させてしまったか。配属初日に診療明細書や処方せんの発行とさして変わりのないことをさせてしまったのを少しだけ申し訳なく思う。

 

 午後、鈴木を連れて校舎二階の成人看護実習室へ向かった。放課後の時間に使用する際の簡単な設営をするため、本当はひとりでもできる作業だったが、せっかくだからと声をかけたのだ。

 契約している洗濯業者から届いたばかりのシーツと病衣の束をスズランテープを解いて運び、いくつかのベッドへ配置する。奥の戸棚から体位交換用の枕を出し、ベッドの間に引かれたカーテンを端にまとめて結んだ。

 学校の後期開講期間に合わせて始まった学校案内の動画撮影が順調に進行していた。入試実施期間を跨ぎ、完成は来春の予定らしい。作った動画をどこで流すのか、追加でどれだけ広告費をかけられるのかという具体的な算段もないまま、畔野さんはただ「上の許可は全部取ったから」と言って制作会社に発注したことを告げた。発注するまでが彼の仕事、スケジュール調整と制作内容に関する打合せ、校内の協力者要請などの雑務全般は錫白の役、といういつもの段取りだ。

 今日は十五時に制作会社が来校することになっている。演者をする学生には四限が終わり次第適宜集合するよう、教員を通じて依頼していた。

「これは」

「三日前に行われた、老年看護演習の授業風景を再現して、動画の撮影をします。リアルな空気感とは別に、シーツ交換とか体位変換の実践、教員の指導の様子を数カット撮りたいと要望があって」

「動画は、受験生向けですか」

「そうですね。でも受験生本人は、スマホの画面を縦にしたまま、小さい窓の中で見るんでしょう。今の若者がよく視聴する媒体に合わせた制作ができればなお良いですが、ご覧の通り、ここは小さな事務所で、プロモーションとか入試戦略とか、計画性は基本的にかなり未熟です」

 今のは指導でも伝達でもなく小言だと、分かっていて口に出してしまった。実際、母体の大学組織に比べれば看護専門学校のできることは大きく制限されているし、予算も最小に絞られており、ほとんどの新規事案は当初の想定はなかったので次年度以降に検討すべきと方便が使われ、見送られる。その中で動画制作はようやくこぎつけたプロジェクトと言っていい。という、一連の経緯を端折った一面性の情報として、批判的な部分をわざわざ持ち出して彼の気を削ぐべきではなかった。

 尻ポケットからスマホを取り出し、昨晩受信した教員からのメールを読み返した。指示された所定の物品は漏れなく整っている。手洗い場に置かれたままの雑巾が目に付いたので、足下の洗い籠にまとめて入れておいた。最後の原状復帰の時に忘れそうだ。

 俺が準備を進める時間、鈴木は何ができるでもなく、ただ実習室の中を金魚の糞のようについてくる。メモでは記録しきれないと思ったのか、途中からスマホで数枚の写真を記録していた。壁沿いに並ぶ大きな戸棚の方へ向かうのに、実習室の隅に畳んで置いてある車椅子の取っ手にジャケットのポケットを引っ掛けたのか、「わ」と小さく叫び、のろのろとその場から後退る。

 ハンドルを呑んでしまったポケットを外しジャケットを整え、また少しだけ眉を顰める鈴木を眺めながら口を開いた。

「……そういえば、さっき何か言いかけてましたね」

「えっと」

「午前中、窓口で。私で答えられるか分かりませんが、今なら暇なので、なんでも」

 なんでも、という最大級の親切心に、新人は小さく首を傾げるだけだ。問おうとしたことも忘れてしまったのかと窺いながらしばらく黙っていると、こちらへ向かって何歩かゆっくりと近づいてきた。そっと足を差し出して薄氷につくように靴を運ぶ動作がもう凍鶴のそれにしか見えない。

 両翼を広げると二メートルをゆうに超える。隈取のように目の周りが紅いのは皮膚が露出しているから。長い首を器用に動かしてつがいとコミュニケーションを図る。求愛のダンスをすれば羽ばたきの音がこの実習室いっぱいに満ちるだろう。

 無為な夢想を打ち切って、ブラインドのグリップを捻った。東側に位置する窓に切り取られた空は淡い群青に塗られている。窓口で出かかったはずの問いはやはり投げかけられない。聞く価値すらなかった、という意味として含むべきか。

 

 白衣の専任教員とユニフォーム姿の学生五名が参集し、カメラマンの指示のもとに演技する自分の影をレンズに吸い取られている。適当な表現が思い浮かばないが、意図して行う動作や作り笑いは実は最も整っていて見栄えがいいものではないかと思う。この時のためだけに集められたグループの女子学生たちの複雑な人間関係や、専任教員の褒めちぎるたびに声の縁にうっすらと浮かぶ白々しさは黒いモノアイを通過すればなぜか高潔で美しいものへと変換された。

 ベッドに敷いたシーツを手で撫でつけるシーンを繰り返し録画された学生が「なんだかくすぐったい」と笑う。この時に綻ばせた顔は嘘偽りのない素直な感情で、ずっと親しみがある。しかし親近感や易しい共感は最も記憶に残り難い印象なのだろう、このカットは採用されない。

 しばらくしてカメラを回され続けているということに慣れてしまった学生たちの中弛みを見計らって、カメラマンから提案があった。

「どなたかに患者さん役をやってもらって、実際に病院で勉強をしている雰囲気で撮る、みたいなことってできますかね」

 傍で聞いていた鈴木が俺と業者の人間を交互に見ている。あらゆる仕事はたったふたつで分類することができて、できるか、やらないかの選択肢だけだ。「できない」という選択肢は基本的にはない。大抵はできないという結論に至る段階までの検証が行われないから。俺は今までできる仕事を淡々とこなすことしか経験したことがない。怠慢で贅沢な職位、これを、家では立派だと褒めるやつもいる。ああ、変なことを思い出した。今はそういう時間じゃない。

「いいですよ」

 軽く請け合ってその場でスーツのジャケットを脱ぎネクタイを解いた。スラックスから裾を引き出してワイシャツも脱いでしまう。ライトグレーのエアリズムが体の動きに合わせて幾重も細い皺模様を作った。

 病衣を羽織って袖の下にある紐を結びながら、ズボンも履き替えるかと業者に尋ねる。

「いや、とりあえず上だけで。先生が患者さんを紹介するシーンとか、学生さんがお世話をするところとか、僕が思いつくのはそんな感じなんですけど」

 カメラマンが俺にいかがですか、と問う。俺が教員によろしいでしょうか、とまた上申する。良いとは思うけどねえ、と看護師は歯切れの悪い答えを出す。医師の見立ても患者の陳述もどちらも傾聴する立場の職種だからか、彼らはいつもその場で何かを決断をすることはない。

 バインダーに挟んである絵コンテのプリントを捲る仕草をして、台本にそう書いてありました、と言ってみる。

「先生は病棟のご担当をされていないでしょうが、少しだけご指導いただけますか」

「私でいいのかしら。でもそう台本にそう書いてあるんですものね……一度、副校長に……」

「副校長には試聴の時にご意見を伺いますので」

「そうね、なら良いです。……錫白さん、あなた随分元気な患者さんね」

 下はスラックスを履いたままの不自然な姿でベッドへ向かい、上体を起こした格好でシーツの中に足を隠した。脱いだ革靴は鈴木に頼んで画角の外まで運んでもらう。学生がひとり、ベッドの脇にしゃがんで血圧計のベルトを俺の腕に巻き始める。本来の実習であれば患者に向かって声をかけたり、体の調子を聞き取ったりするはずだが、俺の世話をする彼女はそれを忘れてしまったのか、無言に徹していた。実習ではなく撮影中の振る舞いをしなくてはならないと思い込んでいるのか、教員は接遇の拙い学生を咎めるようなことはしない。

 徐々にポンプの空気圧が腕にかかっていく。測定をする看護学生は顔を伏せたままだ。不意に、額からつ、と汗が落ちるのが目に入った。レンズの向こうのカメラマンにちらと視線を送る。自然な振る舞いの味気なさとは全く別に、自然に滲み出たものは映像としての魅力があった。こちらに気がついたカメラマンに寄って撮るように目配せすると、それが一旦の休憩を示していると思われたのかもしれない。手持ちカメラを持ってそろそろと歩み寄るカメラマンを見ながら、学生がユニフォームの半袖で額の汗を拭ってしまった。

「あ……はは」

 予期しないことが起こった拍子に声を出して笑ってしまう。紺色の袖を汗で濡らして血圧計に向き合っていた学生がびっくりして俺を見上げた。看護教員が変な顔をしてこちらへつかつかと近づき、「ほら、そんな元気な患者さんはいないんだから」となぜかこちらが叱られる。

 

 せめて初週は定時に退勤してもらおうと考えていたのに、撮影の途中で彼をうまく逃してやることができず、ふたりが実習室の片付けを終えて終業の打刻をしたのは六時半過ぎだった。畔野事務長の姿はもちろん既にない。事務室には未だ灯りがついていたが、残っているはずの杉田さんも離席していて誰もいなかった。

 教員室に退勤の挨拶をしてから校舎の正門を出る。私鉄の最寄り駅までの五分ほどの道のりを、長躯の新顔と並んで歩いた。

 朝の余分な早起きがあったのに、今でも妙に目が冴えている。それもじきに猛烈な睡魔と倦怠感に襲われて、帰りの移動時間は何もできずに終わってしまうだろう。こういう日に限って電車を逆方向に乗ったり寝過ごしをやったりするのだ。腕時計の文字盤を指で撫で、乗り換え駅の構内で眠気覚ましのものを買う数分の猶予があるか、記憶した時刻表から算段する。手首を振ってスーツの袖を上げる仕草を別の意味と読み取ったのか、鈴木もスマートウォッチの画面を点灯させた。

「錫白さん、このあと飯どうですか」

「すみません、もう支度されてるんです」

「ご実家ですか」

「いいえ」

「では、ご結婚されてるんですね。早いですね」

「ご結婚」

「指輪、これからですか。新婚さんかぁ……」

 静かな大股で歩く凍鶴が、業務中には見せなかった朗らかな表情を浮かべている。ちょうど今こちらへ向けられたような、相手の答えなど必要としない自己満足の相貌を目にすると、自然と体から力が抜けていった。明日、彼によって事務所の面々に錫白黎がいつの間にか入籍していた、などという虚偽の情報が流布されたとして、それを俺が感知しなければいいというだけの話だった。誤報を正して真実を口にする徒労と苦痛を考えれば何ということはない。

「聞きたいこと、それでしたか」

「あ、はい、朝からずっと気になってしまって……すみません」

 てっきり駅までついてくると思っていた新入職員は、商店街にあるコンビニの前で立ち止まり、ここで失礼します、と言った。奥さんによろしくお伝えください。月並みな言葉がスーツを着た凍鶴からするすると出てくる。よろしく、宜しく、良ろしく、まあ適当に、つまり「よろしく言っとけってさ」と何も置き換えられないヨロシクが受け継がれるだけのバトンが乱暴に渡されたということ。ゴールまで完走する義務のないリレーだ。

 コンビニの自動ドアが彼の背に反応して開くのをぼんやり眺めてから、踵を返して駅の改札へ向かった。次の電車の時刻には充分間に合うと分かっているのに、見えない衝迫に足が速くなる。

 電光掲示板の表示を読んでから、白線で囲まれた整列場所に立った。電池が残り三十パーセントを切っているスマホのロックを解除し、メッセージアプリを起動する。俺は一日に何度このアプリのアイコンをタップしているのだろう、そしてその他のアプリを何日塩漬けにしているのだろう。高性能も高画質も高解像度ディスプレイも不要な、短い活字のやりとりだけに使われる、最高級家電の画面は今も鮮明だ。

 画面の下にある文字入力エリアをタップする。キーボードバーが迫り上がってカーソルが点滅を始めた。鈴木の声で記録された単語が、手の届かないところでぐるぐると旋回する。文字がばらばらに砕けて本来の意味が分からなくなっていく錯覚に目の奥がちかちか瞬いた。瀬崎とのトーク画面に急いで打ち込み、紙飛行機のマークに親指の腹をぐっと押しつける。

《奥さんによろしく》

 ちっとも良ろしくなんてないその短いメッセージに既読がつく。怖くなって画面を閉じ、ポケットにスマホを戻すと乗り込んだ車両の吊り革を掴んだ。窓の向こうの街並みはひとの顔の形をしている。どれも似たような少し疲れた顔面が、ガラス越しに半透明でぼうっと浮かぶ光景は、走っても走っても、どこまでもついてきた。

 今朝淹れたコーヒーの出来を思い出している。いつも同じ店の同じ豆、十年使っているドリッパー、百円ショップのペーパーフィルターを折って漏斗に入れ、注ぐ湯の量はいつもぴったり二百ミリリットルだ。毎回まったく同じ作法で淹れて、毎回まったく違う味がする。

 美味いと感じる前に、苦味と酸味の不均衡が舌触りと嚥下に違和感を覚えさせる。なぜ前回からもこんなに変化してしまったのかと首を傾げるが、そもそも前回の工程も定かに憶えていないから疑問は解決へ至ることがない。解決に至らないから、毎回変容してしまったコーヒーをコップ一杯飲むという儀式を断つ術はないのだった。

 比べて瀬崎が作った方が不変かつ断然美味しい。彼に一言、俺の分も淹れてくれと甘えてみる、ただそれだけのことが、俺はきっとこの先ずっとできない。

 休みの日の朝に寝坊をすると、彼が朝食と共にコーヒーも用意してくれている。匂いに釣られてふらふらと起き出し、食事より先にその黒い液体に口をつけると、優しい香りと湯気で鼻がつんと酸っぱくなった。

 何度か隣で湯を注ぐところを観察しても、ふたりの抽出作業における差異を見出すことはなかった。どうして手解きが受けられないのかと八つ当たりをすると、瀬崎も困った顔をして笑い、「お互い、相手のが美味しいと思うからだで」とはぐらかす。いつまでも抜けない訛りがくっついた語尾の後味が良くて、マグカップはあっという間に空になる。

 降車駅で連絡改札を抜けると、ホームにひとが溢れて滞留していた。ラッシュに電車遅延が重なったらしい。腕時計を確認する。この調子では乗り継ぎのタイミングが噛み合わなくなって予定より一本遅い電車で帰ることになるだろう。

 帰宅が遅くなることと、夕食後に雪辱の一杯を試みたいということを伝えるべきだが、先のメッセージに彼が反応を示しているかを確かめたくない。今日の看護学生の言葉を借りれば、なんだかくすぐったいから。だがそれはおそらく今の俺にとって、決して心地良いものではない。

 ようやく降りられたホームに隙間を見出して前の人間の真後ろに立った。その場でじっと整列していると、スラックスの生地越しにスマホの鳴動が伝う。長いバイブレーションにどこからか着信かと思って手に取るとただの勘違いで、新着にはメッセージが一件入っているだけだった。

《奥さんはレイくんのコーヒーが飲みたいです。ケーキ買ってある、早く帰っておいで》

 


二月十三日(木)


 恨めしいと思うこと。俺がどう頑張っても子どもの頃の瀬崎には会えないこと。


 月初に最後の合格発表をもって、専門学校の入試シーズンは今期も恙無く運営を終えた。一月に大学の共通試験の補助で出勤をした分も入れると到底消化できない量の代休が溜まる。例年は年度末までに手つかずの休暇は全て定額の手当に換えられて消滅するのだが、今年は新規採用者で事務員の人手が増えているからか、平日に二日の休暇を取得できた。今日がその二日目で、今は瀬崎の所用が終わるまで居間の片隅で時間潰しをしている。

 本棚に無理やり押し込んだ昔のフィーチャーフォンの外装箱に古い写真が入っているのを見つけて、百円ショップで買ってきたアルバムにそれを時系列に並べる作業をしていた。L判の写真は二段に平積みで入れられていて、さらに隙間を縦の束みっちりと埋めている。写真には白い枠が入ったもの、絹目の素材に印刷されているものもあった。今は写真のほとんどがデータで、光沢紙に印刷するのも専らコンビニプリントで済ませてしまうから、昔の現像ってこんなに綺麗だったのか、と感心してしまう。

 思い出の束をすべて取り出して、箱に何か言付けが記されていないかと確認する。側面に印刷されたロゴタイプを撫でながら、J-PHONEなんて使ったことない、と独り言を漏らすと、瀬崎は居間の隅にあるPCデスクからこちらへ向き直った。彼を乗せたゲーミングチェアが滑らかに半回転する。

「うそ、もしかしてきみ、ツーカー知らない?」

「ツーといえばカー?」

「かなりぎりぎりな感じじゃあ。昔はツーカーというキャリアもあったんだで。僕の頃はプリペイド型の機種なんかがコンビニで売ってたな」

「コンビニで携帯が買えるの? 理屈が分からない」

 どっさり積み重ねられた大量の写真から一束を持ち上げる。角を揃えてから指で縁を挟んで一枚ずつめくっていった。オレンジ色に焼かれた日付の印字が右下に写っている。六十三年十一月四日。白い衣装を着せられた乳児が誰かの腕の中で眠っていた。写真でも長い睫毛がはっきり映っているのが確認できる。薄い頭髪がふわふわと顔の上に置かれ、今より広く見える額には大きな痣があった。お宮参りの日の瀬崎晧介は、近影も集合写真もたくさん記録されていたが、眠っている顔しか残っていない。同じ束をしばらくめくっていくと、別の日の写真にも額に痣があった。こめかみから眉の上まで三角州みたいな形で広がっている。色は赤っぽくて蒙古斑とは違う印象だ。

「すぐ消えたの」

「なに」

「ここ、おでこの痣」

 手にしている生後一か月くらいの彼の顔を見せながら、自分の額を擦ってみせる。もちろん今はこの痕すら分からない綺麗な額なのは知っていた。放射線治療で消したのだろうか。瀬崎は写真を見ると椅子から下りてきて、何枚か別の写真を手に取って見比べた。

「僕、これ知らない」

「そうなの」

「うん、たぶん内緒にされたら。末っ子でね、上よりずいぶん手がかかったらしい。親は僕の小さい頃のこと、ほとんど憶えてないさ」

 それはどういう複雑な事情が絡んでいるのかとこちらが身構えても、説明している本人はそぞろ寒い微笑を浮かべるだけだった。瀬崎の家は父親の事業破綻で家族が苦労したということと、俺が就職する少し前に、その父親が早逝したことは聞いていたが、それ以上のことは知らされていない。情報がないという点のみで判断すれば母親は健在のはずだった。兄弟は兄と姉がいて、兄は父似、姉と瀬崎の幼少期は西欧の人形みたいにはっきりした顔立ちで日本人ではないような雰囲気を醸し出している。彼らは未だ郷里である沼津にいるのか、時折瀬崎と連絡を取る程度の関係は続いているのか、何も聞かされていなかった。

 自分に兄弟がいないから、その存在が無いものとなってもさほど気にならない無神経さがあり、彼の家庭事情についても特に憂いはない。痣の話を聞いても、日常感じる瀬崎の身内への無関心を確かめるだけだった。昔の写真を引っ張り出して整理するのは過去の清算や肉親への孝行を促すものではない。つまらない嫉妬の手で彼の生い立ちに触れて痕を残したいだけだ。その行為自体に何の意味も持たない。

「これ、ゼロヨンって書いてある。平成四年、そっちのお遊戯会より古いね」

「うん、ありがとう。当たり前だけど、瀬崎さんの子どもの頃の写真もぜんぶカラーだね」

「また揶揄って。このままおじさんに悪戯されるで」

 カーペットの上に広げた写真をざっと乱暴に手で脇へ押しやり、瀬崎が俺の目の前に膝をついた。今は電熱のスイッチは切られていて、代わりに部屋の隅でストーブが焚かれている。白い琺瑯のやかんが上面に置かれ、短い湯気を吐いて部屋を暖気で満たしていた。

 男の顔がぐいと近づけられる。「ちゅう」と促しながら寄せられる唇が薄く開かれた。応じるより先に鼻先がぶつかり、驚いて瞬きしていると、子を叱る時のように手で鼻を摘まれる。

「冷たい、レイくん、もっと厚着しな」

「要らない、ストーブで、汗かく……」

 指の腹で鼻の穴を潰されたまま、軽く頭を傾げた瀬崎に口を塞がれる。いつも生意気なことばかり言う口、好物を食う時は咀嚼を忘れて吞むことに熱中する口、深酒するとアルコールで粘膜が腫れる口、時々許された日に、男の陰茎を慰める口。煩雑な用途をあまりに合理的に口でしているから既に衛生概念がまったく崩壊している。今、瀬崎に粘膜を付け合わせて舌を吸われているそれが、果たして相手の望む清潔感の許容内にいるかはまるきり判断がつかなかった。

 僅かの時間、口の中を愛撫されるだけで、それまで考えていたことや交わしていた会話についてどうでも良くなってしまう。履物の下が苦しくなるのと、そう仕向けた瀬崎の満足そうな顔が視覚から感知すると、喉を擽るような休日の怠惰な味が耽美に広がっていった。

 唇が離れた時、次を強請るために「あ」と掠れ声を上げる。それが聞き入れられるより先に、デスクトップが株の売り買いを報せるアラートを発した。

 大きな手が背中を軽くさすると、少し待って、と言ってさっと椅子へ戻る。さすられたのは正確に言えば俺の背ではなく部屋着にしている毛玉だらけのセーターなので、その感触がいつまでも残る侘しさは、きっと俺ではなくセーターに付着するものだろう。

 瀬崎の仕事風景は少し特殊で、自宅の居間の一角にあるパソコン一台とモニター二つで空間が完結している。長期投資や外貨購入で資産を分散しつつ、事業の主力は短期取引、いわゆるデイトレーディングで収入を得ていた。どれほどの資金があり、日々の勝敗による落差がどのようにあるのか、蝋燭足が並ぶ画面を見ているだけではちっとも分からない。

 マウスに右手を乗せ、切り替えた幾つかのウィンドウを確認した瀬崎は「アルゴだら、そんなの分かってたさ」とぶつぶつ言いながらキーボードに数値を打ち込んだ。連打されるエンターキーの表面はコーティングが剥げてつやつやしている。単調な諧調でできた電子音が何度か鳴ってからも、瀬崎はしばらく画面を凝視したままその場で静止していた。

 デスクの隅には白いマグカップが置かれ、中のコーヒーはとっくに冷めている。マウスパッドの代わりに置かれた手帳には方眼の目盛を無視した斜め向きの字が走り書きされていた。筆記用具は0.9㎜のシャーペン「タフ」、書き心地の良い2Bの芯と回転式でせり出す大型の消しゴムが気に入って十五年以上愛用しているらしい。

「レイくんが絵を描くのにもいいかも」

 俺が以前にスマホアプリで手慰みにイラストを描いていたのを憶えていて、自分用に買い揃えているタフとステッドラーの水彩色鉛筆をもらったことがあった。今日みたいなたまの休日に寝転がって何をするでもない時間を過ごすよりは楽しかろうと思ってのことだろうが、贈り物の文具は袋に入ったまま本棚の隅に置かれている。

 一度崩れた山からまた写真を拾い直し、分類を再開した。幼き日の瀬崎の貌を追う。洒落たストライプパンツとカーディガンを身にまとい、家族と並んでカメラレンズを射竦める双眸。ブランコに乗る姉弟のしかめ面が本当にそっくりだ。もしかしたら今でも双子のように似たふたりなのかもしれない。広大な空き地はどうやら実家の庭で、たまに海辺と近くの離れ島、富士山、酪農場の風景が出てくる。カメラを向けられた瀬崎晧介は不機嫌なことが多かった。ごくたまに笑顔の一枚があれば、それだけ別に選り分けてアルバムの後ろから埋めていく。

 ふたつめの写真の山を崩した時、動物園へ訪れた時の写真と思しきものを見つけた。菱形模様の柵の前に立たされ、大きなぬいぐるみを持った少年がやはりこちらを睨めつけている。おそらくその生き物の臀部がこちら向きになっていて、丸い尻尾がちょこんとくっついていた。この家でもう何年も寝室に転がっている、熊クッションによく似ている。

 さすがに同じ物ではないのは見ればわかるが、米俵のような寸胴の形が酷似しているのが可笑しい。同じ日付に撮られた写真を探したが、意図して抜き取られたのか、動物園の日の写真は数枚しか残っていなくて、熊クッションの親類が写っているのは一枚きりだった。選り分けた写真と共に後ろのページのポケットに差し込んでおく。透明の包みの中に入った写真は、光の当たり方が変わったからか、怒っている様子なのだと思った少年の表情を泣き顔に変えた。

 指先を当ててしまったところから写真の山が崩れてざっと床に広がる。溜息を吐く力も湧かずに、その場でごろっと寝そべった。ストーブからじんわり広がる熱がゆっくりと頬と鼻面を焼いていく。酸素が薄くなって呼吸が浅くなると、自然と睡魔が下りてきた。瀬崎が後場取引を終えるまでのひとときの転寝なら許されるだろう。毛玉だらけのセーターの袖を伸ばし、足を丸めて目を閉じる。

 

「レイくん、レイ、起きて、レーイ、ねーえ、レイくーん」

 呼びかけは既に耳に届いていたが、素直に従うのが億劫で動けない。起き上がらなくても頬に床の痕がくっきりと残って、垂らした涎で頬を濡らしているのが分かった。うつ伏せのまま体を起こし、男に背を向けてティッシュを引き抜き、顔を拭けるか。いや、そんなに都合良くできるはずがない。このままみじろぎもせずここで転がり続けても再び眠りに落ちることはできないはずなのに、瞼を押し開けるだけの動きが途方もなく重く感じた。

 反応しなければ、瀬崎がまたレイ、と名前を呼ぶ。俺は生まれて十四年経ってから、ようやく錫白黎になった。両親が離婚して母方の苗字を使うようになったからだが、それまでの姓が他人のもののように手に馴染みにくいと感じていたから、錫白という字と音の親和性に「ああやっと俺の持ち物になった」と思ったのをよく憶えている。

 黎という文字が日本人に知られているのは黎明という熟語くらいではないか。意味は暁、夜明けのことだが、字の通り日の光を指すのは「明」、黎は闇、黒の方を指す。中国語では庶民や群衆を意味することもある。巴(パ)黎(リ)という字の情趣や華やかさの印象と重なるからか、名付けた母は「結構いい名前よ」と得意げにしていた。

 もう彼女に名前を呼ばれることを欲してはいなかったが、身近な人間に「おい」や「お前」ではなく、きちんと自分をさし示す言葉を使ってもらうのは大事なことだと思う。

 のろのろと上体を床から持ち上げ、セーターの袖で頬を拭って起き上がる。ティッシュで床を拭き、平たいところで昼寝した後の怠さに軽く身震いした。返事をしなければ未だ呼びかけは続くかもしれない。沈黙してぼんやり床に尻をつき座っていると、男は顔の片側に貼りついた髪を手で払いながら小さく笑った。

「いい子、随分ぐっすり寝てた」

「そうかな。終わったの、株」

「拗ねてるじゃあ、悪かったよ、きみと遊ぶって言ったのにね」

 床に手を置いた時、眠る前に散らかしていた写真の山がそこから無くなっているのに気づく。もとあった本棚を見たが空のままだ。きょろきょろとあたりを見回すと、PCのモニター前に適当に積み上げられている束をようやく見つけた。仕分けが未だ途中だが、今日はもう着手するなということのようだ。床に置かれていた携帯電話の外装箱に裸の写真の束を戻して蓋をして、モニター前のラックに作りかけのアルバムと共に乗せた。膝立ちの格好から床へ腰を下ろそうとすると、瀬崎がセーターの裾を捲って手を弄り入れる。

「遊ぶって、そういうこと」

 脇腹についた肉の浮き輪を撫でた手は背中の窪みに指先を沿わせた。そこ、うっすら滲み出た汗が溜まっている。微かに滑った感触に下腹はすぐに熱を帯びて反応した。臍の辺りからさわさわと鳥肌が上って、胸の突起が鋭敏に膨らんでいく。

「違うけど、違わないなぁ。イヤ? きみはその気じゃない?」

「あんた本当性格悪い」

「うん、嫌いになった?」

「そんなわけないだろ。瀬崎さんの方が、何かあればすぐに手を解く方だと思ってる」

 解く時、すげなくするりと抜けていくのではなく、優しく握ったり指を揉んだりして放すのも知っていた。相手からの好意が失せたと思えば瀬崎は呆気なく関心を削ぎ他人事のようにできるのだが、自分から去る場面ではとことん〝良い人〟に徹するのだ。

 そうやって女を切らさずに繋いできただろうし、俺がここへ来てからも、何度か良い人らしく手を離しかける瞬間を感じていた。

 情の重みを愛だと思い込んで、雄をつがいにする憐れな男。百舌鳥は托卵されたカッコウを育ててしまうが、同性に求愛することはさすがにあるまい。囀り、給餌し、嘴を擦りつけ合い身を寄せる鳥は常に雄雌のつがいだけだ。瀬崎にはそれができる、俺にはできない。俺の方だけできないことだから、自分がいっぺん握ってしまった手を、やり過ごした時間の嵩だけ、振り解く頃合が分からなくなる。

 情けなく張り出ているズボンの合わせ目を瀬崎の太腿に擦りつけて、履物を脱がせるのを目で促した。今朝、ひとりで入ったシャワーの間に、後孔へ栓をしておいたことはもう伝えてある。女性器のことはよく分からないが、男性の場合、本来は排泄口であるそこに常の生理機能として使用する以上の伸縮可動を求める際には訓練が必要だ。しばらく交合に使っていなければ食めるだけの質量を記憶させなければならない。無機物が裡に嵌っている時間は、脇の下に体温計が挟まっている感覚より敏感で、歯磨きで口内の粘膜を擦るよりは鈍感、といった印象だった。

 仕込みをしておいて使われないのは口惜しい。しかし物を乞うように誘うのも惨めさが浮き立つばかりだ。

「瀬崎さんの」

「うん」

「首のほくろ、舐めたい」

「ふふ、どうぞ。舐めて」

「耳たぶも」

「美味しくないら。レイくん、くすぐったいよ」

 はじめは軽く身を捩って照れ笑いをしていた瀬崎が、そのうち表情をつくるのを止め、こちらを引き剥がすと乱暴に口を塞ぐ。今の相好は小さい頃のしかめ面に近い。いったい何に反抗し、どれが彼を苛立たせていたのだろうか。カメラのレンズを向けられた時、自然とそんな表現をするようになってしまったのか。

 瀬崎少年の顔は、大人の彼がやるとずっと恐ろしかったし、独りであることが際立って見えた。一緒にいたからといって共に営巣できるわけではない。俺もこの雄も、それぞれ別のうろの中に棲み続けている。何度繋がってもやるせなさばかりが募るから、セックスがやめられないのだ。無理にこじ開けたその中にある快感は、触れれば冷める前から自分の手からすり抜けていく。

 

〈中略〉 




四月二十五日(金)


 席を立って事務所を出る時、いつも便宜的に使っている定型文で「ちょっと大学行ってきます」と告げた。言葉だけ取れば違和感ばかりが際立つが、学校勤めの内部の人間であればものの数日でそんな細かなことはどうでも良くなる。

 いつも何も反応しない畔野さんが、珍しく「どこ行くの」と聞いてきた。大学の本部へ行くのは分かっているが、どこの部局へ向かうのか、ということらしい。

「厚生課です」

「ありゃ、そうか。ちょっと遠回りだけど、ハンコいいかな。あっちの部長さんには電話しておくから」

「分かりました」

 稟議書が挟んであるバインダーを受け取り、起案者と決裁者の印鑑欄を確認した。予算執行のための伺いで、実際の請求が発生する前の段階のもの、決裁者の一名でも疑義や反対があれば執行はできない。事務長が「あっちの部長さん」と呼んだ総務部長は前部署の上長で、俺の買い被りでなければきっと向こうもこちらを記憶しているだろうから、出先で事故が起こる可能性は少ないだろう。

 事務長席から引き返す間に、鈴木が脇から寄って来て「俺が行きましょうか」と声をかけてきた。

「いえ、大丈夫です。どちらも長い時間はかかりません。すぐ戻ります」

「でも錫白さん、今月すごい残業……」

「仕事捌けてないのは、自分の問題なので。厚生課は、すみません、個人的な用件です」

 個人的な用件。何と耳触りの良い言葉だろう。言葉にした途端、自然と口角が上がってしまうのを必死でごまかす。長身の新入職員はええっと大袈裟に背を仰け反らせ、俺と畔野さんへ交互に視線を送り、誰かなんとか指摘してくれとでも言わんばかりに意味のない手ぶりを繰り返した。暫くそれを見守っていたが、自席にいた林田さんが堪えきれず「やだぁ」と吹き出す。

「鈴木さんの疑問にお答えできるかは分かりませんが、辞表など、労務の所管部署は厚生課ではなく人事課、また提出は退職希望者ではなくその上長がすることになっています。今から私が申請するのは住宅手当の内容変更届です」

 彼を前にしてしまうと普段より余計にくどくどした言い方になってしまうのは、秋に彼が入職してからの半年間、ずっと続いていた。もはや自分は元来こちらの方が素の性分で、普段は意識して無口に過ごしているだけなのかもしれないと思える。

 鈴木の反応を見届ける前にバインダーと書類を不織布の手提げ袋へ入れて事務所を出た。スクールカラーを基調としたマチ付きの手提げ袋はプリントされたイベントロゴのデザインが好評だった。今年もはじめのオープンキャンパス開催が二月足らずまで迫ってきている。新年度のオリエンテーションや学籍処理が落ち着いた今のうちに、ノベルティグッズやチラシの印刷を進めておかなくては。

 大学構内はちょうど学生の昼休み時間を狙ってキッチンカーの駐車が始まっている頃だった。石畳の通路を通って本館のエントランスを抜けていく。本館事務局は昨年度の改装工事ですっかり様変わりして、明るく広々とした雰囲気になっていた。各課の席配置も細かな組み換えがあったらしい。プレートで確認した厚生課の場所を目に留めながら通路を奥へ進み、総務部長のデスクへ向かう。

 稟議書の説明をして押印してもらえたが、畔野事務長からの電話はなかったそうだ。

「すみません、アポ無しで突然お伺いして」

「いいえ。錫白くん、今年も異動なかったね」

「……そうでした。またよろしくお願いします」

「うん、畔野のこと、よろしくね」

 呼び捨てされる事務長の名前を頭の中でなぞりながら、そういえばふたりは同級生だったことを思い出した。高卒の畔野さんは部長より早い入職でも課長職の事務長ポストで頭打ちだ。分かっているがゆえの諦めと、この歳になれば総務部長との関係のように顔がきく面々がいるからできる諸所の強行を厭わない捨て身が今年は特に目立った。自身のやりたいことをすべて済ませて定年の年ぴったりにあっさりと去るつもりだろう。決裁者も事務長のやろうとしていることは汲んでくれているように思う。

「あとね」

「はい」

「こないだ、動画見ました。受験生向けの。いいね、とてもかっこよくて。いつものうちとは違う感じあったよ」

 半年前に制作のピークだった専門学校の動画は、ちょうど一般入試の合格手続き締切日に公開となった。今は母体の法人のSNSアカウントや付属施設のサイネージで配信している。夏には近くにあるターミナル駅の電光掲示板でも十五秒の広告を流す予定で調整していた。

 制作した動画による訴求は、学校を知らない様々な人に見てもらうことに本当の意義があるが、内部の人間の目に触れて好感を持ってもらうことも重要だ。評判が良ければまた次を、という話になる。

 組織の中で働く年数は長くなってきてはいたが、こういう成功の実感を得られることは未だ何度かしか経験できていない。普段は眼前の業務に忙殺され、すべて自分ではない別の誰かによって代替が可能と分かっていながら手を動かす。もちろんプロモーション動画においても、業者が制作しているから舵取りや内外の取次ぎさえできれば個人の能力に依存されることはない。ただ、それでも日常に埋没していく業務に比べれば別格の達成感があった。現に、こうして上司からの反応まで得られている。こちらが催促するでもなく、良かったと伝えたいと思い至るまでの何かを突き動かすことができたのだろう。

「お陰様で滞りなく公開ができました。またご指導をお願いします」

「うん、ご苦労様」

 総務部長から受け取ったバインダーを腕に抱えて頭を下げた。すぐに後ろから近づく別の影が俺を追い越していき、続けて決裁を伺っている。 押印するひとの背には水色のコンテナボックスが組み立てられていて、縦に折り重なって置かれた夥しいバインダーが見えた。案件の大小にも依るかもしれないが、毎日この量を捌かなくてはいけないのか。多岐にわたる起案元ひとつひとつの要件を記憶しておくのはきっと容易なことではない。憶えて気にかけてもらえるだけありがたいことだ。

 不織布のトートバッグに押印がひとつ増えた決裁文書をしまい、長細い通路の先にある厚生課の窓口に立ち寄る。手続きの待ち時間に、校舎の近くにある蕎麦屋のクーポン券を見つけ、何気なく手に取った。

 

 蕎麦屋のテーブルで昼定食のざるをふたつ注文する。向かいの鈴木が先におしぼりを手に取った。手の甲あたりだけをぱっぱっと拭き、畳まずくしゃくしゃにした布をそのままテーブルへ置く。いつも食事に行く相手が、丹念に手指を拭いてから袋にしまわれている元の形よりきっちりと円筒状に巻き直すので、自分がそれに倣うことに慣れてしまっているが、普通はそうではないのだということに少し驚いた。

 温かいほうじ茶と蕎麦かりんとうが運ばれてくる。ざる籠の器にのったかりんとうをひとつつまんで口に入れた。鈴木は手に持ったスマホの画面を見ながら、今日の事務長は機嫌がいいですね、と月並みなことを言う。ここ、よく食べに来るんですか。今日も忙しそうですよね。週末の連休、どこかへ出かける予定は。

 このひとは相手に対して特に話す内容がなくても、なんとなく聞けば答えられそうな当たり障りのない雑談をするのが得意な類の人間だった。偏った言い方をすれば、女性の多い医療事務をしていた時の人間関係における生存戦略のように思える。我が強い俺はそれに対し、「今日はいい天気ですね」といった語調の、味も匂いもしない返答ができなかった。早く蕎麦を啜るのに勤しむ沈黙の時間がほしいと、厨房の様子を窺ってしまう。

「午前中の、厚生課の手続き、すぐ終わりましたか」

 そう言って、かりんとうをつまんだ手をくしゃくしゃに丸められたおしぼりで拭く鈴木を見ながら、自分もひとかけ指でつまんで口に運んだ。歯を立てて噛むとぱりっと大きな音がするのを知っているので、ゆっくり舌の上に乗せてふやけるのを待つ。

「ええ、住所が変わっただけですから。引っ越しもそろそろ済みそうだし」

「へえ、お宅、購入されたんですか?」

「中古ですけど。少し広いところへ住み替えを」

 いいなぁ、それ……と言いかける鈴木の前に、正方形の盆に乗った昼定食が運ばれてきた。メンチカツと炊き込みご飯が添えられたざる定食は高カロリーで頼もしいボリュームだ。ぜんぶ食べてしまうと眠くなるのが心配だが、食べ始めるとその加減も考えられなくなる。

 ソース瓶を先に使わせてもらい、メンチカツとキャベツの千切りにかけた。蕎麦をめんつゆに浸けてから刻みネギの存在を思い出し、上から箸で掴めるだけかけて絡ませる。啜るのが下手で、蕎麦が口の中へ吸われる前にぴしっとめんつゆが跳ね、顔に滴がかかった。おしぼりで頬を拭く時に伸びた前髪が目尻に刺さる。今月の老健施設や介護施設へ実習用の自転車を運び入れる作業の時に屈むたび邪魔くさくて気になっていた前髪の手入れをすっかり忘れていた。もはや床屋へ行くまでもなく、自宅にある鋏で済ませてしまえないだろうか。

 片手で束ねるように前髪を持ち上げてから、めんつゆに次の蕎麦を浸した。一心に定食の盆に向き合っている俺とは違い、鈴木はあたりをきょろきょろと見回しながら咀嚼し、すぐに飲み込み、また箸で口に運ぶ動作を続けている。

「錫白さん、あの」

 余所見をしていても、同僚は蕎麦を啜る時にめんつゆを飛ばしたり、メンチカツのころもをぼろぼろと落としたりしないようだった。話しかけられて「はい」と応じるだけで、こちらはキャベツの千切りをいくつも器の下へ落としているというのに。

「本当は結婚、してないんですよね」

 不意に投げかけられた問いに、落ちたキャベツを集めるのを諦めて箸を置いた。頷きながら、薬指に嵌った細い銀の指輪を隠すように左手をテーブルの下へ引っ込める。あの日に鈴木が言った「奥さん」の真相を知った瀬崎が、別の日に面白がって贈ってきたものだった。揃いの指輪を作るのにどちらも男の手であることに気後れする俺に、彼はけろっとした顔で「店だって商売だから、言えばその通りにするさ」と言う。

 地元の名店の看板がかかったショップに入って、小一時間デザインを選び、サイズを測って彫る字を決めていく作業は悪くなかった。注文してから届くまで半月以上かかるのがなぜか心もとなくて面白かったし、いよいよショップで試着して納品を確かめる日には、仕切り直しと言ってその足で片道二時間かけて向かった海辺でプロポーズごっこをされた時も素直に笑えた。

 何を言っても涙が出るほど笑い転げる俺を宥めるのを諦めて、瀬崎がむくれながら「手、寄越しな」と腕を掴む。まるで手錠を嵌められるような剣幕だな、と震える声で言うと、たぶんそのつもりなのだと彼も神妙に頷いた。

「外れない指輪なんて、この世にはないけどさ」

「浮腫んで取れなくなれば、消防署で切ってもらえるしね」

「レイくんの奥さんって呼ばれたの、僕けっこう気に入ってるよ。今度、鈴木くんにお礼言っといて」

 誤解を与えてしまった詫びよりも、まずはこれだけは伝えておくべきだ、と咄嗟に思ったのはそのせいだろう。

「ありがとう」

 硬くて抑揚のない声は、瀬崎が日ごろ発する人懐こい声から遠くかけ離れていた。先の問いかけとまったく噛み合わない返答に、鈴木が居心地悪そうに背筋を伸ばす。

「それ、どういう意味ですか。今まで気づかないふりをしてってことです? 実際、最近まで分かってなくて。錫白さんの話がまるっきり意味不明なこともなかったし」

「意味不明」

「はい、正直に言って、理解し難い存在であるのは間違いないです。専門職ではないにしろ、医学や医療技術に触れる仕事をしていれば、思いませんか。ヒトの健康や生殖には男女の結びつきがなくては成立しない、たとえ昨今のセクシャルマイノリティへのリテラシー向上が進んだとはいえ、価値観の多様性の一言では片付けられないことが」

 徐々に声を大きくしていく鈴木の前に軽く手を翳した。自分の耳にはじゅうぶん届いている、という意味で「聞こえますから」と言ったが、彼にはそうは捉えられていないようだった。

 隣のテーブルにざる定食が運ばれる。レジ脇の長椅子には持ち帰りの受け取り待ちか、ひとり足を組んで腰かける背が見えた。店内にはほどよい騒めきが変わらず流れているが、気配りのある好奇心が俺たちへ注がれている空気までは隠せない。

 制止され一度ぷつりと途切れた鈴木の声は、次に発せられる時にいっそう鋭くなった。肩をいからせ諸手を振りながら彼は主張を続ける。

「少子化によって不妊治療が一瞬で普通のことになって、高度医療への助成が手厚くなりましたよね。国は人口減少を食い止め、少しでも次世代の社会進出が広がることを望んでいます。つまり、より多くの納税者を。生産力のある国民をひとりでも多く確保することによって社会を支えるのです。それは最近になって始まった仕組みではありません、昔から社会がそう在るべきだと無意識に求めていたことだ。健康な成人は男女ひとつがいとなって結婚・出産のプロセスを辿るのが当然だと思われていました。それが、今は同性愛をはじめ多元的な価値観が共生しているから一概にそう捉えてはいけないと言われます。しかしなぜです? 同性どうしが連れ合うのは婚姻関係とはまったく逸脱することだ。添い遂げても彼らに生殖能力がないのだから、扶養家族の概念もありませんよね。納税を控除しても何らメリットが無い、なぜなら、貴方たちには種を保存するためのものがないから。淘汰されるべきなんです、繁殖の才能がないので」

「つまり、駆除されるべきだと」

「そこまでは言っていません。ただ、自己肯定を他者へ押しつけるのは違うんじゃないかって。存在は否定しない、しかし貴方たちが社会の主になることはないでしょう。その状態を、心身ともに健康だといえるのでしょうか。むしろ、疾病と言われた方が、今よりも多少は共感できたかもしれないな」

 発せられた言葉の刃先はよく磨かれていて、指でなぞればつうと血の玉が浮かぶようだった。率直で攻撃的な指摘は、俺が瀬崎に会ってから自身に刺し続けていたのと殆ど変わりなかった。傷を憶えているから同じところが的確に切れる。他者からの非難による痛みは、自分がまだ真面な人間の心を失っていなかったのだという安堵にも繋がった。

 もし、俺がこれを法人にある人権啓発推進課に相談すれば、譴責を受けるのは鈴木の方だろう。入職して早々の不届、異動の対象になるかもしれない。しかし告発とともに俺は自らの性趣向について周知のものとなることを覚悟しなくてはならないだろう。そのリスクを負えないことを分かっての、面と向かっての糾弾なのではないか。

 このやり取りを知った畔野さんの顔を想像してみる。あからさまな拒否反応は見せないだろうが、これから先、俺が自転車の配送で助手席に乗せられることはないだろう。トランスジェンダーと履き違えて軽く肩を叩くことはおろか近づくことさえ躊躇うかもしれない。定年退職までの一年弱、厄介物を預かったという心緒を繕えない不自然な笑顔を向けられる。申し訳ないと思うだろうな、あのひとには今まで良くしてもらえたから。たまたま事務長になったところの部下がそうであったというだけ、当人の生活には一切の関係ないことだったのにと。

「鈴木さんは、意義を感じますか、生産者になり、労働し、滞りなく納税する……社会に寄与することが」

「はい、健康なことだと思います」

「健康な者どうし、いずれ結婚して、家族が増えていき、そしてまた、家族のために貴方は働く」

「はい」

「俺は、それを自分の身では想像できませんでした。繁殖力のない、淘汰される存在と聞いて、少し安心している。もとより、社会とか互助とかにあまり興味を持っていないので」

「なるほど」

「ただ、迷惑をかけたくないひとはいます。貴方が時と場所を選ばすこうして騒ぎ立てたことを少しでも後ろめたいと思うのなら、今年度いっぱい、この話はこれきりにしてください」

 ランチのピークを過ぎた蕎麦屋は食後に談笑する数人の姿があるだけだった。湯呑みにほぼ残っていないほうじ茶を無理に啜って、ようやく落ちてくる滴と器に残る仄かな匂いを吸い取って沈黙を埋める。

 

 午後から浜松の協定高校への訪問へ出た畔野さんは、しばらく入試広報のための行脚で事務所に戻らない予定になっていた。残り半日上長が不在だったからか、他の職員も定時を過ぎると早々と退勤していく。

 俺が席を立つ時、たまたま鈴木がどこかへ出ていたのか、姿が見えなかった。灯りを点けたまま施錠して鍵を守衛に預けようか一寸迷ったが、短いメモだけを残してそのまま鉄扉を出る。

 大通りの交差点で立ち止まった時にぽつっと一粒の雨が顔に落ちた。吸い込む空気が途端に湿って重たくなる。小走りで駅へ向かうまでの道、雨がぱたぱたと音を立ててアスファルトを濡らした。電車に乗る頃にはあたりがうっすらと白く烟るほどに降雨の量は増していく。乗り込んだ車両のなかほどで吊り革を掴んで立つと、横長の大きなガラスの上から水の波が幾重にも被さって落ちていった。

 最寄り駅の改札を出る。雨は垂直に叩きつけるように降り続いている。鞄に手を入れて底をまさぐったが、そこにあるはずの折り畳み傘が見つからない。財布とペットボトルを取り出し、もう一度中身を確認したが今日に限って持っていないようだった。改札外のコンビニに寄るがビニール傘は売り切れている。二千円以上する折り畳み傘を買う気は起こらなかった。

 ネクタイを外し、脱いだジャケットを小さく畳んで鞄に押し込む。短くした鞄の紐を肩にかけ、胸の前で抱える恰好をして外へ出た。ロータリーの雨よけからどつどつと鏃が降るみたいな音がする。実際にそんな悍ましい武器に襲われる情景にはもちろん遭遇したことがない。恵みの雨と喜ぶ教養もなく、ただ浴びるごとに苛まれる心と必死に闘った。

 革靴が水溜まりに嵌る。次に左足をあげる時にはすっかり濡れて重くなり、内底から水が漏れ出る感覚が伝って不快だった。傘を届けてくれるように瀬崎に頼めばよかっただろうか。あの男は家で何をしている。別に同居人のことを四六時中構う義務は決してないのだが、こんな天気の晩に、連絡のひとつも寄越さないのは俺への当てつけか。

 理不尽に相手を罵りながら髪からも雨を滴らせる。足を引きずり下を向いて歩く様は囚人のようだと思った。否、あれはジャン・バルジャンを描いた舞台上での姿であって今の受刑者はそんなふうに行進をすることもないのかもしれない。

 車のヘッドライトよりも眩しい光が瞬いて、がらがらと乾いた破壊音が響いた。近くの建物の屋上に立つ避雷針に落ちたようだった。

 傘をささずに土砂降りの中を歩くのは初めてかもしれなかった。当然だ、子どもの頃はまだしも、まったく非効率で感傷に酔ったとしかいいようのない迷惑な振舞いに自分自身がもう呆れている。二度と使わないかもしれない高価な折り畳み傘を駅前で買う方が正解だった。かつてマンションのベランダへ訪ねてきていた仔連れの三毛猫も、天候が崩れた日には、本降りになる前に普段の棲家から風雨を凌げる軒下へ機敏に移動してきていた。瀬崎がコナツと名付けた野良猫は、ある時からぱったりと姿を現わさなくなっていた。半年以上見ていないかもしれない。もうこの家へは立ち寄らなくなってしまったのだろうか。

 マンションの通路へ入ると体に雨がかからない代わりにすごい速さで水の粒が落下していった。ぐっしょり濡れて肩や腕に貼りついたワイシャツのせいで思うように動けない。伸びた前髪から数珠繋ぎのように水の玉が落ち続けるのが鬱陶しいのと造形が面白いのとで半分ずつの気持ちになった。鞄のジッパーが滑らずなかなか開かない。今から家の鍵を探すのが億劫で仕方がなかった。呼び鈴を鳴らせば中の人間がすぐにドアを開けてくれるのは分かっているのだが、わざわざ醜態を披露するみたいでそれも気が乗らない。

 苛立ちを払い落とすように何度も大きく深呼吸して、ようやくキーケースを取り出した。中に入っている鍵は四つ、ひとつは浦和の実家、ひとつは今の家、車、そして新居の鍵。

 週末に最後の荷物を運んで引っ越しを完了させる予定だった。物の処分は粗方終わっている。立ち退きまでに寝泊まりするのは残り二日ほどだろうか。今になってもまったく実感が湧かない、ここを出たいと言ったのは俺の方だったのに。

 ディンプルキーを鍵穴に挿すと、先に中から開錠する音がした。内側からドアが押し開けられて、玄関の暖色の灯りがぼうっと広がる。腕を伸ばしてドアを開けたままにしている瀬崎が、さして動じていないような声で「どうしたの」と言った。

 別に、どうもしていない。傘を持っていなくて、買うのが惜しかっただけ。

 普段であれば簡単に返せるはずの言葉が、頭には浮かぶのに体の外へ出ていかない。頭がじいんと熱くなり、もしかすると俺は今、少し具合が悪いのかもしれないと思った。

 黙って三和土に立っているのさえ怠くなって、両腕に抱えていたずぶ濡れの鞄を早く放り捨てたくて仕方がない。瀬崎が洗面所からタオルを取ってくる。未だに吸った雨粒を滴らせる髪を丹念にパイル地の布で擦り、肌にひっついたシャツのボタンに手を掛けようとするのはまったく自然な彼の所作だった。腕を横に払ってそれを思いきり押し退ける。鞄がフローリングに落ちた。咄嗟にしてしまったことを釈明しようとしたはずなのに、何か言葉にするよりも先に大声で怒鳴っていた。

「触るな! くそ、触るなって言ってる」

「それはどうでもいいじゃあ。ねえ、今日帰る時間も聞いてない」

「煩い、待たずに勝手に飯食って過ごしてればいいだろ、頼んでないんだよ、俺がここに寄るなんていつ言った」

「寄るって、レイくん、いいからまずお風呂……」

「だから手を出すなって! 不感、情無し、能面男」

 ここぞという時に不満はきっぱりと簡潔に告げる、と心に決めていたのに、出てきた言葉はどれをとっても子どもじみていて情けないものばかりだ。だが本当にそう思っているのだから仕方ない。瀬崎も心に覚えるものがあるのか、下品な語彙に頬を紅くしてぶっと吹き出した。頭に被せていたタオルの端をつまんで俺の顔をごしごしと拭く。

「こんな大怒り、初めて見た。昔は静かに詰る子だったのに」

 そう言われて、ようやく自分が号泣しているのだと気づいた。返す悪態の代わりに嗚咽が漏れる。定時に上がってきても残務は堆く積まれたままのこと、昼の蕎麦屋で穏便に場を収められなかったこと、濡れ鼠の姿で帰宅したこと。今日はなにひとつ巧く立ち回ることができなかった。もう少し賢くやっていればここまで決壊は広がらずに済んだに違いない。もっと思考が成熟していれば、瀬崎のように感情を置き去る場所をいつも決めていられれば。

 涙も洟も垂らしたまま、瀬崎の肩に掻いつき、膝から崩れ落ちて床に突っ伏した。そうではないと否定し続けたけれど、消えたくて消えたくて仕方のない衝動は澱みから湧き続ける。

「……ゲイだってバレた」

「うん、いずれくるよ、それは」

「あんたを庇えなかった、俺と同じだと思われたかもしれない、汚い言葉で罵られる、誤解をとけなかった……ごめんなさい、瀬崎さん、ごめん……」

 最後の方はほとんど悲鳴で、言葉の形をしていなかった。今度は床が顔から流れ落ちた滴と嗚咽と共に出た涎で汚れた。居るだけで穢れるのから逃れられないと思った。苦しい、苦しい、いっそ殺してくれ。

 その時ふと、俺が長い間答えを見いだせなかったひとつの問いに対する解を得た気がした。それまで、この止め処のない渇望は、子どもの時に失踪した父という欠片がないまま満たされていないのだと思っていた。俺の瀬崎への情愛は姿を消した父から与えられなかった代わりなのだろうと。分かっていて瀬崎にしがみついた。ふたりとも相手に向ける感情がまったく異なるのものでも、拗れたままでも擦り寄っていられればそれ十分だろうと自分を納得させていた。

 しかし、それは思い違いかもしれない。俺は父の蒸発によって欠乏した要素の補填を瀬崎に求めていたのではないのだ。家族の前から姿を消した父のその後を、侘しく生き延びているのでも、生まれ変わって別の幸福を作っているのでもないと勝手に物語を作り出していた。きっと自死している。いなくなってすぐに。

 俺は不確かな記憶とそのとんでもない妄想で再構成された父親の像に自分を近づけようとしていた。最後には自分のことを躊躇いなく殺してくれるひとが傍にいれば安心した。瀬崎は俺の嘆願であれば逃げられないだろうと盲信したのだ。俺とは違う生き物だから。瀬崎晧介は同性愛者ではない。きちんと雌の気配を嗅ぎ分け求愛し、つがいを作れる立派な雄だ。

 床にしがみついて謝り続けているうちに、頭と耳の奥がぼうっと重くなっていた。怒りにのぼせたのか、体が濡れて疲弊したのか、睡魔の波が徐々に意識を浸していく。

「うん、ぜんぶ出しな。出したもの、綺麗に流すで。ほら、お風呂」

 腕を持ち上げられ、介護されるみたいに時折足の裏が軽く浮きながら洗面所までゆっくりと運ばれた。肌と同化しそうになっている服を剥いでいく。冷え切った体ぜんたいに鳥肌が立った。瀬崎はTシャツの襟に手をかけては下ろしという動作を繰り返し、散々迷ったあげく、「もういいや、着て入ってもどうせ濡れるら」と言って自分も裸になる。


〈中略〉


八月二日(土)


《スーパー終わった。飲みたい酒があれば買ってきて》

 メッセージを送ってすぐスイッチを切り、スマホをポケットにしまう。履いてきたステテコは生地が薄くて腰ゴムが脆弱なので、端末の重みに耐えかねてやや斜めに引き下げられた。新居の最寄り駅近くにはスーパーが三つあり、酒や冷凍食品が安いところ、生鮮食品が良質のところ、終電の時間まで営業しているところとそれぞれの売りが均衡を保ち共存を成立させていた。ユーザーは選択肢があるのでありがたく三つとも利用している。職場からやや通勤に時間がかかるベッドタウンだからできる競合関係だ。

 先週、専門学校は前期の講義と演習がすべて終了し、臨地実習中の学生を除き夏季休暇へ突入した。すぐに入学から学生寮で生活していた二名から退寮の申し出があり、手続きを済ませている。女子寮はふたつ、校舎と同じ通り沿いでワンルームだが八畳ある。家賃は周辺のアパートに比べやや良心的ではあるが、その立地ゆえ、食品や日用品を買い出しに出るのに苦心する場所だった。最寄りのスーパーは店舗が狭く割高、少し離れた大型店へ行くには自転車が必要で、雨の日が続くとそれも難しくなる。電車通学をしてでも生活物価を下げたいと思う学生の考えはもっともなことだった。看護専門学校は母体の大学の学納金とは異なり、高等教育の修学新制度が適用される場合、入学金や授業料が減免される。必要な生活費であっても、できるだけ在学中の出費を抑え、就職に備えたいという考えは多くの在学生に見られた。

 手続きに来たうちのひとりに、自分もあちこちスーパーへ通って醤油が安いところと好きなチーズの銘柄がある店は憶えている、と手を動かす合間になにとはなしに話をする。それは単に苦労への共感という意味で示したものだったのだが、彼女は目を丸くして、本人も自分で驚くような大きな声を出した。

「え、スズシロさんって、ご飯のこと考えたりするんだぁ、意外」

「意外ですか」

「毎日コンビニご飯みたいな見た目してるのに」

「こんな見た目ですが、けっこう美味しいもの食べてます」

「わぁ、いいなぁ! 一緒に住んでるひとが作るんです? 上手なんだね、すっごい自慢顔だもん」

 そんなふうに言われても、最近はもうきっちりと念入りに取り繕ったり誤解のないように釘を刺すということはしなくなった。概してヒトというのは自分が他者に憂いるほど、周囲は自分に関心を持ってはいないのだ。慢心はいけないが、ある程度の小さな誤解は、その後に消し忘れた小火になるところまではいかない。

 事務所で隣席にいる鈴木のこともさほど気にならなくなった。一時は痛いほど視線を注がれ、しばしば愛想のない返事をされることもあったが、本人も剣呑なのだろうとこちらも都合良く解釈して深追いしなければそれで終わりだった。

 おそらく、何かがきっかけで俺のことを誰かに気持ち悪がられても嫌われても、そうなってしまえば俺自身はなにも気に病まないと思う。母も昔から、世界じゅうの全員と友人になることは不可能で、もしもどこかに違和感があればそっと距離をとるのが最良の選択だと言っていた。

 春先の暴露は畔野事務長の耳には入らなかったらしく、俺への態度や接し方を変えることもなかった。先月の終わりに数日かけて行った実習用自転車の運搬作業で、一台、チェーンの外れた自転車が放置されていて、それを担いで車の荷台へ上げた。近くで見ていた事務長が、やはり錫白は根性がある、と背中を叩く。

 もはや根性だけで走れるところまで体を引き摺ってでも前に進んでいければと思う。彼が定年退職して事務所から去れば、またいつどんなことが起こるのか分からないのだから。もっともスモールスケールなところで、自分が関心を持つ、日々の暮らしについてを考えるのが確実に有意義だろう、それこそ、駅付近で鎬を削る各スーパーのもっとも効率的な利用術に思考を割くこととか。

 

 帰宅して、五円のポリ袋に詰め込んだ食材をキッチンへ運んだ。瀬崎からの返事はまだ来ない。

 シンクの脇に置いたスマホの画面を触りながら、今日の夕食を作るためだけに選ばれた、おそらく分量過多の野菜を並べる。外装を破って開けた焼きそばの麺はすぐに電子レンジへ、ワット数を調整してあたためボタンを押す。

 レシピ代わりのメモはいつかのメッセージで送られた吹き出しをつぎはぎしたものだった。人参は長方形に切る、皮は剥かなくても良い。短冊切りと言っても俺には理解できないと思っている人間からの指南だ。麺は加熱して柔らかくしておく。もやしは水っぽくなるため入れない、ピーマンは種を取り除いて細切りに。細切りと言うのだから縦長に切るのだろう。刻んでいる間に何度か刃が中指の爪を擦った。そういえば、瀬崎がまだ若い頃に、ひとりでパスタを作っている最中、アボカドの種を取り除くのをし損じて小指を深く切ってしまった話を聞いたことがある。止血をしながら急いで救急病院へ向かい(片手で運転したと言っていたがどうかしている)、局所麻酔で縫合してもらったが神経が再び繋がるまではかなりの時間とトレーニングを要すると告げられた。手先が商売道具の職人というわけではなかったが、生活に支障が出ると思えば怖い話だ。だが何を思ったのか、彼は帰宅した後、種の残ったアボカドを再び手に取り、パスタを作って食べたのだという。

「お腹が減っていれば、材料を片付けるなんて気がすまないさ」

 今もまっすぐに伸ばすことはできないと言っていた左手の小指を見せてもらった。過ぎてしまったことに何もしようもないのだが、その時に未だ切創が塞がらない生傷を見せられている気分になっていたのか、何も言えなかった。

「ばかなやつ」

 独り言は様々な音を絶えず立てているキッチンにあっという間に吸い取られていく。

 人参が終わったら豚肉を炒める。バラ肉が丸まってくっついたまま固くなってしまうのを防ぐ方法が分からなくて、一枚ずつ剥がしては落とし、としていたが、埒が開かないのですぐに苛々した。メモにはそこまでの手解きは書かれていない。

 言われた手順で野菜を炒め、ちぎったキャベツを敷き詰め、水気が飛ぶように少し火力を上げた。車が加速すると方向転換で切るハンドルを速く回さないといけないのと同じで、じゅうじゅうと音が高くなると身振りも大げさになった。

 ソースは少量の湯で溶け、という。プラスチックのコップにカランの浄水を半分注いで適当にレンジにかけた。これでもいいやと自己解釈して代用を探した時点で、料理は失敗な気がしてしまう。すべて感覚でするから敢えて文字にする方が答えを求められているみたいでいやだと言われた時、料理は物理ではなく音感と同じだと居直った。

 俺にはできない。できないのでレシピに隷属し主文から逸脱しない。少し余所見をすると大抵けがをする。

 麺がソースの色になったので、味はともかく焼きそばのような風体になった。これでよし、今から不味いものが美味くなることはない。

 メモの最後には心強い一文が添えられていた。そこだけは読まなくても暗記しているので、スマホのスクロールバーに触れずに冷蔵庫のドアを開ける。

 きりとり線で半分に切り離し、ひとつの密閉パックを端から剥がして開けた。赤と白の円筒形。薄いフィルムから押し出すと、にゅるっと身が飛び出てくる。

《黎が食べる用は、最後にかにかま。大きく裂いて、好きなだけかけます》

 指南書の作成者は紀子さん、俺の母だった。昔から紅生姜が嫌いで、焼きそばが好きなのに赤と接したところだけ食べられないのが悔しい、と泣いて訴えた幼い息子のおかげで生まれたレシピらしい。彼女に揶揄われると、俺は不満どころか我が侭を言った甲斐があると得意顔をする傲慢だから、最後にレシピが送られた時も、すげなくこう返事していた。

「聞いてもきっと作らない。紀子さんのを食った方が早いから」

 ばかなやつ、その言葉の形が、そっくりそのまま自分に返ってくる。大きく溜息を吐いて、次のタスクを口にした。

 冷凍たこ焼き、茶豆のナムル。一度画面が落ちて黒くなったスマホを指先でノックして、ロック画面を解除し再びメモアプリを開く。中には九つ指南が書かれていて、俺が再現できるのはそのうち六つ、残りの三つは瀬崎じゃないと作れない。

 まだ猛暑の盛りだがこの頃は日没が早かった。夕焼けがあっという間に淡い藍になろうとしている時に、パンと乾いた空砲の音がする。予定通り定刻で始まる合図だ。

 食器棚の上の方にある、使い捨ての器やプラコップを背伸びして取り出すと、テーブルの上に集めて置いておく。ソファからリモコンを拾ってテレビのチャンネルを押した。ローカル局で花火大会の中継が始まっている。レースカーテンを引いて線路の鉄線が走る南西の空を見た。テーブル代わりにするエアコンの室外機を拭こうと雑巾を取りにリビングを出ると、折良く玄関で鍵が回る音がする。

「ただいまぁ」

 瀬崎が帰ってきた。何が入っているのか分からない、大きな手提げ袋をふたつ抱え持っている。

「悪い、遅くなって。もう始まってるら」

「間に合ってるよ。今は会場で市長挨拶とかの時間」

「あったね、そんなの。あー、レイくんおった……家っていいなぁ」

 荷物を受け取るつもりで差し出した手をぱっと掴まれ、そのまま握手をされた。おかしな挙動に付き合ってやるお返しに薄く睨んでやる。外を歩いてきた肌は火照っていて蒸気が上がりそうだった。そういうのを母や瀬崎の郷里では〈いきれる〉と言って表すらしい。息切れするほど暑い、とかそんな意味だろうか。

「珍しいね、汗」

「かくさ、そりゃこうもいきれる日は」

「いきれるって言った」

「え、なにもう、楽しそうにして、ねえレイくん」

 手提げのひとつが肩からかたんと落ちる。紙箱に入った、嵩はあるが軽いもの。コーヒーメーカーみたいに見えたそれに掻いついて、何これ、と頭を突っ込んだ。外装にポップな書体で〝大人のふわふわ〟の文字が躍っている。スチームミルクが作れるエスプレッソマシンか何かだろうか。それにしたとしても不自然に軽い。

「こら、えっち」

 手提げの上から箱を持ち上げようとすると、靴を脱いだ瀬崎がさっさと三和土を上がり廊下を進んでいった。もうひとつの荷物を受け取ると中にウォッカの瓶が入っていた。ラベルはグレイグース、品種改良で家畜化されたガチョウの原種と言われるハイイロガンのことで、山岳の上空を飛翔する姿が描かれている。

 いそいそとキッチンへ運び、未開封の瓶をそのまま冷凍庫へ横倒しにして入れた。酒は強くないが飲む時間が楽しくて好きだ。瀬崎と違って自分は加減を誤ると翌朝に響くが、懲りずに日を置かずまた嗜んでしまう。

 花火を見ながらの酒盛に気が逸るのが顔に出ていたのか、知らずに尖らせていた唇の形を指でなぞられた。

「洗濯物もう寄せた?」

「もちろん。じゃないと見えないでしょ」

 楽しみだね、と言いかけた瀬崎の口に視線をやっている時、どんと腹にくる心地の良い音がした。

「始まった」

「いけない、急ぐで」

 てきぱきとフライパンの焼きそばを大皿に盛りつける。紙皿と割り箸、プラコップに注ぐ缶ビールの準備をしていると、コンロに火を入れた男はフライパンに油を引き直していた。まだ何かするつもりか、と呆れる俺に、「これがあれば文句なく嬉しいら」と言って蓋を閉じている。目玉焼きができあがる前に、冒頭の花火のピークが窓の外で華やかに散り始めている。

 

〈中略〉

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『水紋を蹴って翔べ』8/18:COMITIA149 丹路槇 @niro_maki

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