第二章
「どうして……使え……」
「それは……スマホはこの時代に……物語を乱す……使えないのです」
「折角……の寝顔……るチャンス……」
「六月さんの……撮りたいのですか?」
「え……ちが……」
何やら言い合う声が聞こえたので目が覚めた。
ベッドに寝たまま首を回して隣を見ると、僕のベッドのすぐそばにスマホを手にした四ツ谷とミューズがいた。
「うわあ! せんぱい、起きてたんですか⁉︎」
「いや、四ツ谷とミューズの声が聞こえて今目が覚めたんだよ。何を話してたの?」
「萌さんがスマホのカメラを使ってむつ」
「あー! そういえば先輩、この世界でスマホを使えない理由がわかりましたよ! 時代にそぐわない現代機器は物語に矛盾を起こすので、使えないようになってるんですって!」
顔を真っ赤にしながら何やら勢いよく捲し立ててくる。普段は落ち着いた物腰の四ツ谷にしては珍しい。念願の探偵役ができる事にテンションが上がっているのだろうか。
身体を起こしてぼんやりと昨日の出来事を思い出す。
もしかしたら昨日の出来事は全て夢で、自宅のベッドで目覚めるなんて事があるかもしれないと思ったけれど、夢ではなかったようだ。メルオスと唱えると僕の前に本が現れる。パラパラと捲ると最後にはさっきの四ツ谷とミューズのやり取りが載っていたけれど、途切れ途切れになっている。
「しっかり聞き取れていないと、ちゃんと記載されないみたいですね」
横から本を覗き込んだ四ツ谷が言う。その後に「危なかった……」と呟くのはしっかり聞こえたけれど。果たして僕が寝ている間に何をする気だったのだろう。
扉をノックする音が聞こえたので返事をする。扉を開けてお盆を手にしたおばちゃんが入ってきた。
「おはよう、探偵さん達。朝ごはんを持ってきたよ。って、野良猫が入り込んでるじゃないかい」
ミューズを見つけたおばちゃんが彼女を追い出そうとしたので、四ツ谷がミューズを庇うように前に出る。
「この白猫は私のペットです。野良猫ではありません」
「なんだい。早とちりしちゃったよ。壁を引っ掻かないように気をつけといてくれよ」
そう言って昨晩の食器を片付けながら朝食の準備をする。
「ちなみに私の声は萌さんと六月さん以外には聞こえませんし、六月さんの本も私とお二人にしか見えません」
ミューズの声におばちゃんは何の反応も示さずに黙々と手を動かしている。ミューズの言う通り声は僕たちにしか聞こえていないようだ。
「ちょうどいいので「登場人物」と「非登場人物」について説明しましょう。六月さん、あなたの本の登場人物一覧に、あの方の名前はありません」
僕はページを捲って登場人物一覧を開く。確かにそれっぽい役割の人はいない。近いのは料理人セイラだろうけれど、この人はベルナール家の料理人だろう。
「本当だ、どうして?」
急に声を上げた僕に、おばちゃんが驚いた顔で振り返る。僕は慌てて四ツ谷と会話している風を装う。ミューズとの会話は周りから不審に思われないよう気をつけなければいけない。
「あの方はこの物語における主要人物ではありません。この物語は推理小説の世界であり、あなた方の役割は犯人を見つける事。容疑者の範囲を煩雑にしないために、犯人も被害者も、登場人物一覧に書かれている者に限ります。あの女性含め登場人物一覧に載ってない人物は、犯人にも被害者になる事はありません。また、登場人物は全員、事件が起きるまでの間にお二人の前に登場します」
随分と親切設計だ。何もしなくても「犯人はこの中にいる!」と言えるらしい。
「ちなみに登場人物一覧に載ってはいませんが、設定上彼女には「オリヴィア・フィッツジェラルド・ヘルキャット」という名前があります」
モブキャラなのに名前カッコよすぎじゃないだろうか。
おばちゃんことヘルキャットさんが部屋を出ていったので、朝食を食べるためにベッドから立ちあがる。
「そういえばミューズ、あなたも私たち同様、登場人物の誰かになっているんですか?」
「私はお二人にこの世界の事を解説するために、猫の姿を借りてここにいるに過ぎません。私の役目はあくまでこの世界の解説役と、物語の進行役。よって物語に関わることはないので、登場人物ではありません」
納得したのか、四ツ谷は椅子に座って朝食を口にする。僕も四ツ谷の向かいに座ってパンを食べ始めた。
食事を終えたころ、ヘルキャットさんが再びやってきた。
「探偵さん達、ベルナールさんとこのお迎えが来たよ」
「わかりました」
四ツ谷と一緒に部屋を出ようとすると、ミューズが床に飛び降りて僕たちの後に続いた。
「あれ、ミューズもついてくるんだ」
てっきり説明は全て終わったのかと思った。
「まだ基本的な説明をしただけで、細かい説明を随時こなしていかなければなりませんから」
「ルールが多すぎて頭がパンクしそうなのに、まだあるんだ」
思わずぼやくと、四ツ谷が大丈夫ですと言う。
「私が全て覚えてますし、この世界のルールが推理に関わってくるものは、少なそうです。先輩は安心して記述役に徹してください」
そう言ってミューズを抱きかかえ部屋を出る。
探偵とワトソン役、そして猫。珍妙な一行は宿を後にした。
外に出ると、艶やかな焦茶色の毛並みをした一頭の馬と、その馬の胴体にぐるりと取り付けられたベルトに連結された、窓付きの四輪車が停まっていた。
そして馬車の前にはスーツ姿にブーツを履いた人物が立っていて、僕たちを見るなり一礼する。
「初めまして、モエ・ヨツヤ様、ムツキ・ミカサ様。僕はベルナール家に仕える御者のユリウスと申します。館までの案内人を仰せつかっています」
年齢は二十代半ばだろう。肩よりはやや短い黒い髪を真ん中で分けており、ヘルキャットさんよりは顔の彫りが浅く、中性的な顔立ちをしている。
「よろしくお願いします、ユリウスさん」
四ツ谷が挨拶をし、僕も続いて挨拶する。
「それでは早速ベルナール亭に向かいましょうか。さあ、馬車にお乗りください」
どうにも喋り方と仕草がいちいち芝居がかっている気がする。なんだかナルシストっぽい。
ユリウスさんは馬に連結された四輪車――馬車の扉を開き、僕たちを促す。馬車の中には赤い二人掛け椅子が進行方向に向けて設置してあった。四ツ谷の隣に腰を下ろす。車のシートよりもふかふかで座り心地がいい。
馬車の扉を閉めるとユリウスさんは馬車の前に設置された椅子に座る。
「それでは出発します。舌を噛まないようにお気をつけを!」
窓の向こうでユリウスさんが手綱を振るうのが見える。馬が歩き出し、だんだん加速していく。宿屋がみるみるうちに遠ざかっていく。
「馬車に乗る体験なんて生まれて初めてだよ。何だかいよいよ本の中の世界にやってきた実感が湧いてワクワクするね」
「そうですね。気分はまさしくシャーロック・ホームズです」
そう言って手のひらを上に向けて何かを掴む動作をしている。どうやらパイプを持つ仕草らしい。この後輩、ノリノリである。
「ところでユリウスさんって男性なんでしょうか」
「確かユリウスは男性名だから、普通に男性なんじゃないかな……って、この考えは通用しないんだっけ」
この世界では全てが作者次第。現実的にはあり得なくても、作者がそういう設定にすればあり得ることになるのだ。
「この物語でもユリウスは男性名ですよ。外の世界ではジェンダーレスの観点から、性別違いの名前をつける事がありますが、この物語では、生まれたばかりの女児にユリウスと名づける者は存在しません」
四ツ谷に抱かれたミューズの説明で、ユリウスさんが男性である事があっさりと明かされた。なるほど。こうやって注釈をする為についてきてくれるのか。
林の中の道を、馬とそれが牽引する馬車が突き進む。道はあちこちと分岐しているようで、どうしてユリウスさんが案内人と呼ばれるのがわかった。彼の案内なくしては道がわからないからだろう。仮に昨日、僕たちが宿をスルーしたとして、ベルナール亭に辿りつくことは不可能だったに違いない。
途中で橋を渡り、しばらく森の中を突き進み、馬車は塀に囲まれた館の前に到着した。
「さあ、到着しました」
ユリウスさんが馬車の扉を開ける。僕がまず馬車から降り、続いて四ツ谷が馬車から降りようとした時。案内人は「お手をどうぞ」と言って四ツ谷に手を差し出した。
「え、はい」
面食らいつつも四ツ谷が言われるがままにユリウスさんの手を取り、馬車から降りる。そのキザな動作を見て、無性にムカムカしてきた。彼に対し敵愾心が湧いてくる。
胸のムカつきを振り払うように僕は薔薇を形どった鉄門の向こうに目を凝らす。
色とりどりの花が咲き誇る庭に挟まれた、石畳の向こう。
そこには煉瓦造りの荘厳な館が建っていた。
風化した壁は、この館の刻んできた時間を見る者の心に訴えかけ、それでいて長い時を耐えてきた頑強さも感じさせる。
ここが、ベルナール邸。
木々に囲まれ外界から隔絶されたこの館で、事件が起きるんだろう。
解かれることのないまま葬り去られるところを、ミューズによって掬われた事件が、謎を携えて。
四ツ谷が僕の隣へとやってくる。
「これは……なかなか威圧感がありますね」
「うん。こんな豪華な屋敷に住んでいるベルナールさんはすごいお金持ちなんだろうね」
「ムツキ様。旦那様――ジェラール・ベルナール様はここに住んでいるわけではありませんよ」
「むっ」
優男の華麗な声で間違いを指摘されて、些か気分が尖る。けれどよくよく考えたらこんな不便なところに住むのも不自然な話だ。
「それじゃあここは別荘ですか?」
僕の問いに、ユリウスさんは革手袋をはめた手を顎に当てて思案する。
「別荘ともまた違いますね。まあ、詳しい話は旦那様にしてもらう方がいいでしょう」
そう言うと鉄門を開き、僕たちを先導する。
庭に足を踏み入れると、左手から一人の少女が駆けてきた。年齢は僕たちと同じくらいだろうか。腰まで届く綺麗な金髪と、澄み渡る空のような青い瞳。そして彫りの深い綺麗な顔立ち。白いシャツと青いスカートから伸びる手足は健康的かつスラリとしなやかで、まるで妖精のようなその美貌に、僕はしばし見惚れる。
「ユリウス。その方々が探偵さんとその相棒なの?」
「ええ。探偵のモエ・ヨツヤ様と、相方のムツキ・ミカサ様です。モエ様、ムツキ様。こちらの方は旦那様のお子様である、コレット・ベルナール様です」
「モエさん、ムツキさん。コレット・ベルナールです。よろしくお願いします」
その優雅な一礼には育ちの良さが伺える。僕が今まで出会ったことのない、お嬢様然とした少女だ。
「よろしくお願いします……先輩、どうしたんですか?」
四ツ谷に呼ばれて我に返る。
「えっと、よろしく、コレット」
上擦った声で挨拶をすると、コレットが僕に詰め寄って手を握る。
白魚のように細い指先で握られて、僕の心臓が鼓動を早める。
「ムツキさん。私、小さい頃から探偵小説が大好きですの。よければ後で、実際の探偵のお話を聞かせてくださらないかしら?」
ずいっと顔を近づけられる。心臓の鼓動はもはやそのまま手を握るコレットに聞こえてしまうんじゃないかと思えるくらいだ。
「えっと、僕でよければ……」
「あの、探偵の話なら探偵本人の私に聞くべきじゃないですか?」
しかし四ツ谷が僕とコレットの間に割り込んできたのでコレットは手を離す事になった。
「あら、探偵の活躍譚は、探偵の相棒が語るものじゃないかしら?」
「先輩では無理ですよ。先輩は読んだ本の内容を次の日には忘れるくらい記憶力がお粗末なんですから」
四ツ谷の物言いがいつになく棘がある気がしたけれど、事実なので何も言い返せない。
「コレット様。探偵様方は旦那様に会わなければいけないので、そろそろよろしいでしょうか」
「あら、ごめんなさい。探偵さん達、また後で会いましょう」
「うん。また会おうね」
後ろ髪引かれながらもコレットに別れを告げ、僕たちは再び館に向かう。
「先輩。随分と鼻の下を伸ばしてましたね。そのまま地面につく勢いでしたよ」
「そそそ、そんな事はないよ。いつも通りじゃないか」
「私に対してあんなにデレっとした事ありましたっけ?」
「それはまあ、四ツ谷は後輩だし……」
「なるほど。先輩は年下は趣味ではないと。熟女好きですか」
「それは極端じゃない⁉︎」
随分と話が飛躍した。そもそもその言葉は僕がコレットにデレデレしていたという自分の言葉と矛盾してはいないだろうか。やっぱり今の四ツ谷の物言いには棘がある。
「ちなみに原作の物語の流れでは、さっきの場面で探偵アーサーは相棒ウィリアムに『はっはっはっ。ウィル。僕の活躍をちゃんとコレット君に伝えておいてくれよ』と言っていました」
「どうせ私は本物の探偵に比べて心が小さいですよ」
明らかに不貞腐れている。なんだかこんな四ツ谷の姿は珍しい気がする。
「ミューズ。もう実際の物語と変わっちゃったけど、大丈夫なの?」
「この程度なら問題ありません。一番の目的は物語通りに事件が起きることと、それを解決する事ですから。事件に関わる変更があったとしても、私が上手く事を運びます」
「モエ様方、どうぞこちらに」
館の前に辿り着いた。ユリウスさんが豪奢で重厚な玄関扉を開ける。
真っ赤な絨毯が敷かれた広間が僕の目に飛び込んでくる。置かれた机や暖炉、その他の調度品はヘルキャットさんの宿屋のものより明らかに高級品である事がわかる。
扉を開ける音に反応して、机を布で磨いていた赤毛のメイドが顔を上げた。
「セイラ、探偵さんたちがご到着だ。僕は応接室に案内するから、旦那様を呼んできて欲しい」
セイラと呼ばれたメイドは「わかりました」と言って広間去っていった。
「それではこちらに……」
ユリウスさんがそう言って僕たちを再び先導しようとした時、暖炉の横に蹲っていた黒い塊がのそりと立ち上がった。
それは、黒い毛並みの大型犬だった。ゆっくりと絨毯の上を歩いて僕たちの元に近づいてくる。
「あら、可愛いワンちゃんですね」
大の犬好きの四ツ谷は目を輝かせて屈む。
「この子の名前はバレット。普段はのんびりとしていますが、優秀な狩猟犬なんです」
「バレット……もしかして、この犬が狩人ですか?」
「おや、ムツキ様はご存知でしたか。この子が、狙った獲物を必ず追い立てる、狩人と呼ばれていることを」
狩人という説明分を読んで、髭を生やした修行僧のような狙撃手を想像していたので、拍子抜けしてしまった。
バレットは四ツ谷の元に近づくと、彼女に抱かれたミューズに顔を寄せてクンクンと匂いを嗅ぐ。
「あ……まずい」
ミューズがそう言うと同時、バレットはミューズに手を伸ばした。間一髪、ミューズは四ツ谷の腕から飛び降りてその腕を回避する。
絨毯の上に着地したミューズに、バレットはお気に入りのおもちゃを見つけたかのように尻尾を振りながら近づく。
「おおお落ち着いて話し合いを……ひっ」
後退りしながら悲鳴を上げるミューズ。初めて彼女が感情を露わにした場面を見たかもしれない。
踵を返して逃げ出すと同時、バレットがミューズを追いかける。ミューズの悲痛な悲鳴が僕の脳内に響き渡り、バレットの楽しそうな鳴き声が広間に響き渡り、追いかけっこをする二匹の姿は廊下の向こうへと消えていった。
「すみません。うちのバレットは猫が大好きでして……怪我をさせる事は決してないので安心してください。放っておいても大丈夫ですよ」
「どうしましょう、先輩」
「ユリウスさんもこう言ってるし、大丈夫じゃないかな」
猫の姿とはいえ、女神が犬に敗北する事もないだろう。僕たちはユリウスさんの後に続いて応接室へと向かう。
「それにしても、自分で作った世界の生き物に追いかけ回されるって、どういう事なんだろう」
「案外、自分の世界のことをコントロールできていないのかもしれませんね」
「なるほど。女神でも意外と抜けてるところがあるのかもしれないね」
「マスコットキャラっぽいですよねそういうの。ちょっとポンコツだったり。もしかしたら、先輩よりミューズの方がワトソン役が向いているかもしれません」
ユリウスさんの後ろでそんな会話をしているうちに、応接室にたどり着いた。
高級そうな机を挟むようにして、二人がけの革張りのソファが向かい合っている。そして壁には湖畔で釣りをする老人の絵画が掲げられている。この絵画のデザインはちゃんと物語に描写されていたものなのか、作者がイメージはしていてただけのものなのか。あるいはそのどちらでもないのでミューズのセンスで選ばれたものなのか。
「旦那様が来るまでこちらでお待ちください。私は馬車をしまってくるのでこれで失礼します」
そう言って四ツ谷に流し目を送り、一礼した。さっさと去ってくれ。
珍しさから部屋をキョロキョロと眺めていると、扉が開いた。旦那様とやらきたのかと思ったけれど、そこにいたのは二足歩行で立ち上がりドアノブを両手で掴んで扉を開けたミューズだった。
「ひ、酷い目に会いました……」
後ろ足で蹴るようにして扉を閉めたミューズは、よたよたと四ツ谷に近づき、彼女の膝の上に飛び乗る。心なしか白い毛並みが乱れている。
「ところで私がいない間、抜けているだのポンコツだの、好き勝手に言ってくれましたね」
ギョロリと睨んでくる。けれど見た目が猫なのであんまり怖くない。
「あれ、僕たちの話声が聞こえてたの?」
「当然です。この世界は私の作り出した世界。ここで起きる全ての出来事を私は把握できます」
バレットに追いかけられながらもちゃんと僕たちの会話を観測していたらしい。これがマルチタスク脳というやつなのだろうか。迂闊な事はできないようだ。
「一応言っておきますが、私は言ってみればこの物語におけるゲームマスターのようなものです。プレイヤーであるお二方が想定外の行動をしたとしても、物語を円滑に進めるために、登場人物の行動や物の位置を変えることができます。バレットさんに追いかけ回されたとしても、バレットさんの行動を止める事ができるんですよ。ただ、バレットさんの猫好きという設定は作者がバレットへの想いを込めて与えた設定。それなのに我が身可愛さでその行動を止めることはしたくなかったのです」
強がり。ではないのだろう。行動や言動を操れるような発言は昨日もしていたし、ミューズの声色からは、慈愛のようなものを感じる。
自らの身を顧みない、作者と、作者の作り出した登場人物への深い思いやり。それは書物の女神ならではのものだ。
「私にミスがあるとすればただ一つ。バレットさんの猫好きの設定をうっかり忘れて、猫の姿をとってしまった事です」
やっぱり抜けているじゃないか。
「そういえばミューズは猫の姿以外にもなれるんですか?」
ミューズの毛を手櫛で整えながら四ツ谷が尋ねる。
「正しくは猫の姿を借りているという形です。私は登場人物を除く、この世界に存在するものの姿を借りる事ができるのです。今回は猫の姿をしていますが、ある時はパン屋の女性に。ある時はカラスに。またある時はフランス人形に。またある時はペンダントの姿となって。こうしてこの世界へ呼び出した人たちのサポートを行います。以前フランス人形になったら、やんちゃな子供の手によって体をバラバラにされたので、今度は猫になったのですが、まさかこんな事になるとは……」
「女神も大変ですね」
四ツ谷がミューズの頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。僕も四ツ谷の膝に頭を乗せて撫でてもらいたいものだ。
「ミューズ、僕も猫になれないかな」
「何を考えているのか察しがつきますが不可能です」
「何を考えているのか察しはつきませんけれど、先輩が碌でもない事を考えている事は察しがつきます」
そんなやり取りをしていると応接室の扉が開いた。
「お待たせしました、探偵さん方。ジェラール・ベルナールと申します」
そう言ってスーツ姿の男性が入ってきて向かいのソファに腰を沈める。歳は四十代だろう。金色の髪は綺麗に整えられ、立派な髭を生やし見事な貫禄を感じる。
「探偵の四ツ谷萌です。よろしくお願いします。こちらは私の相棒の三笠六月で、この子は飼い猫のミューズです」
四ツ谷の膝の上でミューズがにゃーと鳴いた。
「突然のお呼び立て申し訳ありません。私の依頼を受けてもらえた事、深く感謝します」
「あ、頭を上げてください」
突然、年上の、しかも見るからに地位のある人に頭を下げられた四ツ谷が慌てふためる。
「とりあえず、その依頼とやらのお話を聞かせてください」
「モエさん、ムツキさん。今から私が話す事は到底信じられないかもしれません。しかし、どうか最後まで聞いてください」
頭を上げたジェラールさんは、懇願するように僕たちを見上げる。
「信じられない話ですか?」
「ええ。まず念頭に置いて欲しい事があります。この周囲に住む人々は、この屋敷をこう呼びます」
そこで一呼吸おき、口を開く。
「魔女屋敷。と」
そう告げた時。部屋の温度が数度下がった気がした。
魔女屋敷。その名は、どこか退廃的なこの館にぴったりの名前だと思ったから。
僕がこの屋敷を始めて見た時、畏敬の念を感じた。けれど、今思えば正しくは畏怖だった。現実離れしたこの屋敷のどこかに、魔女や悪魔が潜んでいるような予感を、僕は無意識の内に感じ取っていたのだ。
「まずは、我がベルナール家のことを話さなければなりません。我が家系は先祖代々、造酒を行ってきました。村の小さな工場でウイスキーを造っており、従業人も丁稚が一人いる程度の酒造所でした。それが変わったのは三百年ほど前。当時のベルナール家の当主……というほどの規模の家系ではまだありませんでしたが、後継である長男が、魔女と出会った事から、我が家系の運命が狂い始めます」
「その魔女というのは何かの比喩表現ですか? それとも正真正銘、魔術を扱う魔女ですか?」
「あれ、四ツ谷は魔女の存在を信じる性格だっけ」
その質問にはミューズが答える。
「六月さん。ここは本の中の世界。作者が魔女が存在する物語を書けば、その通りに魔女が実在する事になるのです」
そういえばそうだった。確か、特殊設定ミステリだっけ。
「最初は比喩表現でした。今となっては正真正銘の魔女だと思っています」
「やはり最後まで聞いた方が良さそうですね。話の腰を折ってすみません」
ジェラールさんは話を続ける。
「どう出会ったのは幾つか逸話があり、どれが本物かは分かりません。森の中で出会っただの、外国に行に行った時に出会い連れて帰国しただの様々です。確かなのは、その魔女の名前が「マライア」だったという事、そしてマライアは占いができ、彼女の言う通りに酒造所を経営し、事業に手を出すと面白いほど儲かったと言う事です。それこそ、マライアのためにこの館を与えるほどに資産が潤っていました。代々長男は当主を名乗るようになって家督を得、ベルナール家はマライアと共にどんどん繁栄していくかと思われました。しかし、時勢が宗教改革の頃に入った事により、そうはいかなくなります」
「魔女狩り、ですか」
「ええ。宗教改革によって窮地に立たされた当時のカトリックが、信仰を集めるために教会の力を誇示しようとして行った、あの忌まわしき行いです。疑わしきは罰せよ。魔女の疑いがる者は、口するのも悍ましい拷問にかけられ、最後は火で焼かれていったと聞きます」
魔女狩りは僕も聞いた事がある有名な話だ。
あいつは魔術を使っていただの、あの傷は悪魔との契約の証だのという根も葉もない密告によって魔女裁判にかけられた女性は、自分が魔女ではなく普通の人間である事を証明するために、人間ならば死ぬような目に遭わされるという。拷問されて死ぬか、拷問されて嘘の自白をして死ぬか。倫理観も論理的な思考も破綻している。話に聞いた時は当時の人間は頭がどうかしていると思ったものだ。
「そして魔女狩りの手は、当然マライアにも伸びます。誰が告げ口をしたのかはわかりませんが、我が一族が魔女と結託していると糾弾されました。そして悲劇が起きます。当時のベルナール家当主は保身のために、自分を裏切るはずがないと安心し切っているマライアに睡眠薬を盛り、眠っている彼女を縛って魔女狩りの集団に差し出したのです。目を覚ましたマライアは絶望し、激怒し、呪詛の言葉を浴びせたそうです。そしてマライアは翌日処刑されました」
僕は内心首を傾げる。今の所、べルナール家の昔話、魔女と呼ばれる占い師によって発展し魔女狩りによって彼女を失ったと言う話だ。どうして探偵を呼んだのかがわからない。
「そしてここからが本題です。マライアが死んでから三十年後、ちょうど彼女が処刑された日に、当時のベルナール家長女が庭師に殺害されました。さらに三十年後、同じ日に今度は当主とその妹が、弟に殺害されました。その三十年後も……ベルナール家は三十年周期で、マライアの処刑された日に何者かに殺害されるのです。あたかもマライアの呪いの如く」
そう訴えるジェラールさんの目は血走っている。
恐怖。
魔女への恐怖が、ジェラールさんの魂を汚染している。それこそ、呪いのように。
「でも、毎年人が死ぬなら呪いみたいだけれど、三十年もあれば呪い関係なく誰かしら死ぬ事件は起きそうだし、偶然起きたそれを呪いだとこじつけてるだけじゃないかな」
「先輩にしては現実的な分析ですね。けれどぴったり三十年周期の同じ日に、しかも事故ならまだしも殺人事件というのは異常ですよ」
ぐうの音も出なかった。
「ムツキさんがそう思うのも無理はありません。実際、三十年というのは子供の頃に起こった殺人事件がだいぶ大人になって再び起きるという期間。その間にも呪い関係なく死ぬ者は出ます。呪いの実感が湧かずに偶然だと感じるには十分な時間です。危機感を抱かせる事なく、じっくりとベルナール家の者を苦しめる。それがマライアの呪いです。しかし今から百年ほど前……曽祖父がフランスに訪れた時に出会った、チベットの修行僧によって大きく変わります」
随分と話が長い。
長い話を聞くのが苦手な僕はお尻がむずむずしてきた。横目で四ツ谷を見ると、真剣にジェラールさんの話に聞き入っている。普段から本を読んでいるだけあって、長い話に耐性があるんだろう。視線を落とし四ツ谷の胸を見て目の保養をした。
「その修行僧はたまたま出会った曽祖父を一目見ただけで、呪いにかけられていると見抜きました。彼曰く、その呪いは術者の命日に、対象の家系の者が誰かに殺される呪い。血を引かない配偶者や養子はその呪いを免れますが、血縁者ならば赤子から隠居まで漏れなく呪いの対象になります。その呪いを解く方法はただ一つ。術者の怨念に許しを乞うしかありません。マライアの命日の前日、私の先祖が過ちを犯した日に、術者が住んでいた場所に行き、呪いの対象者全員で祈りを捧げるのです。それを繰り返し行うことで、術者の怨念を鎮める……それを聞いた曽祖父の頃から今に至るまで、我々は本宅から何人か使用人を連れてこの屋敷に来て、毎年この祈りの儀を行なっています」
「そういう事ですか。ジェラールさんがわざわざ魔女の住処だったここにいるのは」
「ええ。今日もこの後、祈りを捧げる予定です」
ベルナール家の事はわかった。呪いのこともわかった。
けれど。
「それで、私たちには何をして欲しいのでしょうか」
そう。それが不明なのだ。
「それは」
ジェラールさんが口を開いた時、扉がノックされる音がした。
「旦那様、そろそろ祈りの時間です。エリオット様もお子様方もお待ちです」
扉を開け、燕尾服を着た老人が入ってきた。
綺麗な銀髪は後ろに撫でつけられ、顔に刻まれた深い皺は長寿の貫禄を湛えており、柔和な瞳は聖職者を思わせる。
「もうそんな時間か。すっかり話に夢中になってしまった」
立ち上がり、老人を僕たちに紹介する。
「アンディ。この方が探偵のモエ・ヨツヤさんとムツキ・ミカサさんだ」
「モエ様、ムツキ様。私はベルナール家の執事、アンディと申します」
老執事は洗練された優雅な一礼をする。高くも低くもない声色も上品であり、聞くものに安心感を与えてくれる。
執事の格が主人の格であるという話を聞いた事があるけれど、確かにこれほどの気品溢れる執事は、貫禄のあるジェラールさんの執事に相応しい。
「モエさん。私は先ほど言った祈りを行わなければいけません。なので続きは私の家内に聞いてください。アンディ。モエさん達をアルマの部屋に」
そう言いつけてジェラールさんは部屋を出て行った。
「それでは探偵様方。奥様の部屋に案内しますので、どうぞこちらに」
僕たちはソファから立ち上がると、アンディさんに続いて部屋を出る。
先導するアンディさんは歩き方すら洗練されている。いちいちキザな動き方をするユリウスさんとは大違いだ。
「あれ、そういえばアンディって名前の人は登場人物一覧に載ってなかったけれど、あの人は非登場人物なのかな」
囁くように四ツ谷に尋ねると、彼女は首を横に振る。
「執事の名前がダリアン・ディーノだったでしょう。真ん中をとってアンディという愛称なんじゃないですか?」
「なるほど。ハイドロポンプをドロポンって略すようなものだね。アンディさん、あなたの本名はダリアン・ディーノですか?」
確認の為に尋ねると、執事は足を止めた。
そしてこちらを振り返る。
「さすがは探偵さんですね。依頼人の執事の名前まで事前に調べ上げているとは」
そう言い上品な笑みを返してくる。調べたわけでは無く本の登場人物一覧で知っただけなのに、四ツ谷の探偵としての株を上げたようだ。
「先々代の方針で、使用人たちはファーストネームの最後と、ファミリーネームの最初を繋げた愛称で呼ばれることになっているのです。また、名乗る時も愛称を名乗ります。探偵さんたちも、私のことは気さくにアンディと呼んでください」
前に向き直り、再び歩き始めた。
「窓の外、曇ってますね」
四ツ谷に言われて廊下の窓から外を見ると、来る時は晴れていたのに雲行きが怪しくなっていた。
「本当だ。雨でも降りそうだ」
後輩はクスリと笑う。
「先輩。この世界は作者によって書かれた世界。ここで起きる出来事は、全て作者が意図して起こしているんです。つまり、わざわざ曇りにするのも雨にするのも、意味があるんですよ。この雨も何かの布石という事です。そうですね? ミューズ」
「物語の展開に関する質問は、回答を拒否します。ぜひ、これからのストーリーを新鮮な気持ちでお楽しみください」
「なるほど、そういうメタ読みもできるんだね」
さすがは四ツ谷だ。もうこの世界に順応している。
「ここが奥様の部屋になります」
距離を空けて前を歩いていたアンディさん扉の前で振り返る。僕たちが追いつくと、ノックをして部屋の扉を開ける。
広い部屋の内装はこれまた豪華なものだった。装飾の施された机と椅子に箪笥。天蓋付きベッドなんて現実では初めて見た。いや現実じゃないんだけど。
その部屋の中央に、丸い机に向かい車椅子に座って読書をしている金髪の女性がいた。
「奥様。旦那様が呼んだ探偵様方です。旦那様が、奥様に話の続きを彼らにして欲しいと」
奥様――登場人物一覧から察するに、アルマさん――は、本を閉じると僕たちを見て微笑んだ。
「こんにちは、探偵さん。私はアルマ・ベルナール。ジェラールの妻です」
「こんにちは。私は探偵のモエ・ヨツヤです。こちらが助手のムツキ・ミカサ。この子が飼い猫のミューズです」
今日に入ってからもう何度したのか覚えていない自己紹介をした後、僕たちは丸い机を挟んでアルマさんの向かいに座った。
「奥様、セイラの手伝いがあるので、私はこれで失礼します。」
アンディさんは優雅な一礼をして部屋から出ていく。
アルマさんの年齢は四十前後だろうか。皺が刻まれ、微笑みを讃えた頬には、見た目の年齢通りの落ち着き、そして慈愛が備わっている。
「主人からはこの家の事は聞きましたか?」
「はい。魔女の呪いによって三十年周期で殺人事件が起きる事と、その呪いを解くために、呪いを受けている者達で毎年祈りの儀式をする事を」
「あら、じゃあ全部聞いているじゃない。あとするべき話は……私とあの人との馴れ初めの話かしら。やだ、恥ずかしいわ」
「いえ違います」
頬を赤らめて両手で覆っている。どうやら見た目の年齢より乙女らしい
「馴れ初めといえば、ウォレスというのはアルマさんの旧姓ですか?」
登場人物一覧では、アルマさんはベルナール性ではなくウォレス性だった。一人だけ浮いていたから、読んだ本の内容を翌日に忘れる僕でも覚えていた。
いやいやと恥じらっていたアルマさんの動きが止まる。
「まさか……三十数年ぶりにその名を聞くとは思っていなかったわ。さすがは探偵さん。昔の事までしっかりと下調べをしているのね」
また登場人物一覧のおかげで四ツ谷の探偵としての株が上がった。
アルマさんは目を細め、「あれから三十年以上……」と、どこか遠くを見ながら口を開く。
長い話が始まる予感がした僕は、覚悟を決めた。
「私は元はワイン工房のウォレス家の長女として生まれたの。酒造所同士だから私の両親は当時のベルナール家当主……ジェラールの両親と仲が良くてね。親に連れられてベルナール邸に行った時に、よくジェラールと一緒に遊んだわ。幼い頃の私は本ばかり読んでいる内気な少女だったけれど、そんな私の手を引いて、ジェラールは外に繰り出したの。外の世界をあまり知らない私にとって、ジェラールが見せてくれる外の景色、教えてくれる遊びはすごく新鮮だったわ。青空の下でジェラールと一緒に笑い、時にからかわれて怒って、泣いて、けれど最後にはやっぱり笑って……彼がいたから、内気で陰気な少女は、次第に明るく元気な少女へと変わることができた。そんな彼に対し、私は幼いながらも恋心を抱いていたわ。いずれ、彼と結婚して、幸せな家庭を築く。いたいけな少女はその未来を信じて疑わなかった。けれど私が十歳の頃……両親と共に馬車で出かけている最中、落石事故に遭ったの。両親は亡くなり、私は二度と歩けない体になってしまったわ。工場は他の人の手に渡って、私はアメリカに移住した叔父の元へと引き取られたわ。マルコ・ミラーというのが叔父の名前で、私の名前はアルマ・ミラーになった。英国から大西洋を挟んだ遠く離れた場所で私は悲しみの渦中にいたわ。両親を失い、ジェラールとも離れ離れに……けれど、私の心が折れる事はなかった。私には、ジェラールが教えてくれた逞しさがあったから。またジェラールと会う。その思いだけが私の生きる目的になったわ。必死に勉強をし、カレッジに入学して英国留学をした。そして十数年ぶりにジェラールに再会したの。ふふっ。十年以上経ってもわかるものなのね。久しぶりに帰ってきた故郷の街中。私は一目見て、目の前の男性がジェラールである事がわかったわ。そしてあの人の方も、一目見て私だと気づいたわ。「アルマ、アルマなのか……? まさか、また君に会える日が来るなんて」と言ってね。その場で私を抱きしめれくれたわ。私も彼を抱きしめて、二人してその場で泣きはらして……あとは結婚までトントン拍子。晴れて私はベルナール性となって、アルマ・ベルナールとなってあの人の妻となったの」
ようやくアルマさんの長い話は終わった。
横から嗚咽が聞こえてきたのでそっちを見ると、四ツ谷が涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「よかった……アルマさんとジェラールさんが、ちゃんと結ばれて……本当によかった」
「ふふっ。探偵さん、案外涙脆いのね」
そう言うアルマさんも、当時の事を思い出してか少し涙ぐんでいる。四ツ谷がこんなに涙脆いなんて意外だった。
「四ツ谷、これ」
「ありがとうございます……」
ハンカチを渡すと、ぐしゃぐしゃになった顔を拭う。
探偵が使い物になりそうにないので、僕がアルマさんに質問する事にした。
「アルマさん、結局僕たちは何のためにこの場所に呼ばれたんでしょうか。魔女の呪いによる殺人事件を事前に防いで欲しいんでしょうか」
「あの人から聞いた話だけれど、かつて魔女の呪いを防げた試しは一度もなかったそうよ。どんなに手を尽くしても必ず殺人事件は起きるみたい。探偵さん達に頼みたいのは、その後の事」
涙を引っ込めたアルマさんは真面目な顔を見せる。
「私がアメリカに渡ってから数年後……三十年前の呪いの日。ジェラールの祖父が殺害されたわ。けれど警察が捜査しても犯人がわからなかったの。その後、叔父が殺され、従姉が殺され、妹が殺され……正体不明の殺人鬼は四件目の事件の後にようやく判明したのだけれど、その時に生き残ったのはジェラールと彼の父、弟の三人だけになってしまったわ。だからその二の舞にならないよう、事件が起きたらすぐに犯人を見つけて欲しくてあなた方を呼んだのよ」
「なるほど。これでようやく事情がわかりました」
要するにこの館で絶対殺人事件が起きるから、それを解決して欲しいという依頼だ。それだけを理解するのに随分と遠回りした気がする。多分僕の本は、ミューズの説明含め前半に設定がゴタゴタと詰め込まれた読む気の失せる本になっているに違いない。
「一応聞いておきたいのですが、今の呪いの対象者は何人いるんですか?」
涙を拭いようやく冷静さを取り戻した四ツ谷が尋ねる。
「四人よ。私の旦那のジェラールと、彼の弟のエリオット。あとはジェラールと私の、息子と娘ね」
「コレットですよね。さっき庭で会いました」
彼女の魅力的な姿を思い浮かべると、心が浮つく。
「あら、コレットにはもう会ったのね。あの子と、あの子の双子の兄妹であるクリス。この四人で全員よ。何せさっき言った通りベルナール家は三十年前に三人だけになったし、ジェラールの父は数年前に病で亡くなったからね」
「わかりました。それではこの館にいるのは?」
「本宅から必要最低限の使用人と一緒に来たから人数は多くはないわ。私とジェラール、エリオット、コレットとクリス。あとはアンディとユリウスとセイラ、そして愛犬のバレットの八人と一匹よ。探偵さん達を加えれば十人と二匹ね」
「なるほど。では最後に一つだけ。呪いの対象者が犯人になる事はありますか?」
「ジェラールの話だと、過去に何回かあったらしいわ」
つまり、僕と四ツ谷とミューズを除けば、四人の被害者候補と、七人容疑者がいる事になるわけだ。いや、バレットも含めれば七人と一匹の容疑者候補か。動物が犯人のミステリがあるって四ツ谷がこの前言ってた。
「さて、長旅でお疲れでしょうから、そろそろ探偵さん達には部屋で休んでもらおうかしら」
アルマさんは車椅子のタイヤを自分で漕いで扉の前に行き、扉を開けると「誰かいないかしら?」と廊下に呼びかける。
やがてアンディさんがやってきた。
「奥様、お呼びでしょうか」
「話が終わったから、探偵さん達を客室に案内して頂戴」
「かしこまりました」
「それじゃあ探偵さん達。また会いましょう」
僕たちはアルマさんの部屋を後にすると、アンディさんに続いて階段を登っていく。
「こちらが探偵様達の部屋になります。間も無く昼食をお持ちしますので、ゆっくりとおくつろぎください」
美しい旋律のような声で告げて一礼すると、老執事は去っていった。
部屋の内装はヘルキャットさんの宿屋のように、机とそれを挟むように椅子、そして二つのベッドが間を開けて配置されていた。ただしそのグレードはやはり高い。さらには引き出し付きの書き物机やドレッサーまで用意されている。
「疲れたー」
昨日と同じように僕たちはベッドにぽふっと音を立てて飛び込む。やはり宿屋のベッドより高級品のようで、体がより沈み込み、疲れた体を柔らかく包み込んでくれる。
僕はベッドに寝転がりながら「メルオス」と唱えて本を出現させる。
「セイラって人が館に入った時にいたメイド服の人なら、まだ会ってない登場人物はクリスとエリオットの二人になるね」
「そうですね。そしてその二人に会えば容疑者候補全員と顔を合わせる事になります。ところで先輩、登場人物一覧を見て、本来、殺人事件にの話にいなければならない役職の人がいないと思いませんか?」
ミステリに慣れていない僕には酷な質問だったけれど、少し考えて四ツ谷の言いたい事がわかった。
「そっか、警察官がいないんだ」
「その通りです。探偵ものにおいて警察官は脇役か引き立て役になりがちなので、モブ扱いにして載せていない可能性もありますが、もう一つの可能性の方が高いと思います」
「もう一つの可能性?」
横を見ると四ツ谷はベッドに寝転がって天井を見上げたまま、勿体ぶるようにして髪をくりくりと弄ってから答えた。
「多分ですが、この館は孤立します。そのせいで警察を呼べなくなってしまうんです。来るときに渡った橋。あれが雨による川の増水で流されてしまうとか、犯人が橋を破壊するとか、その辺りでしょうか」
「あ、聞いたことがあるよ。確かそういうのをクラウドファンディングって言うんだっけ」
「クローズドサークルです」
そう、確かそれだ。吹雪や台風などによって物語の舞台が孤立してしまい、助けを呼べない中、殺人事件が起きる話。
「はあ……。先輩ならダイニングメッセージとかいう定番のボケをやらかしても驚きませんよ」
「流石にダイングメッセージくらいは知ってるよ」
「ダイイングメッセージですよ。ダイングだとダイニングになる時に字足らずです。ところで先輩、その本に館の見取り図は書かれていますか?」
僕はページをぱらぱらと捲るも、目につくのは文字ばかりだった。
「無いね。文字以外何もない」
「ミューズ、こういう館ものでは見取り図が提示されるのが定番じゃないですか?」
「作者が作っていませんからね」
横になっている四ツ谷の胸に抱かれた白猫は、彼女の身体の上で立ち上がると、床に飛び降りた。
「つまりこの物語の推理において館の構造を把握する必要はないのです」
「そうですか。館もので見取り図が無いのは寂しいですね」
「そうですね。その気持ちはわかります」
白猫は二足歩行で立ち上がって書き物机の引き出しを前足で開けると、中から紙を口に咥えて取り出し、床に置いた。
さらに開いた引き出しの上に飛び乗り、そこを足場にして天板に飛び乗ると、ペン立てから万年筆を口に咥えて取り出し、机の上から飛び降りた。
万年筆を前脚と後脚で固定し口でキャップを外すと、紙の上に腹ばいになって万年筆を前足で挟んで何か書き始める。
そして書き上がったものを口に咥え、四ツ谷に渡す。
「はい、できました」
口に紙を咥えているけれど、ミューズの声はテレパシーのように僕たちの頭の中に響くので問題ない。四ツ谷は上体を起こしてベッドに腰をかけると、ミューズの差し出した紙を手に取り顔を顰める。
僕もベッドから身体を起こすと、四ツ谷の手に持った紙を覗き込んだ。
「これが……見取り図?」
そこに描かれていたのはフニャフニャの図形だった。何やら文字が書かれているけれど下手くそすぎて全然読めない。かろうじて上に書かれた「見取り図」というミミズのような文字は判別できた。
「残念ながら、猫の体ではこれが限界です」
申し訳なさそうにミューズが言った。心なしか髭が力なく垂れているように見える。
「取り敢えず、館の構造が推理に必要ないとわかっただけでも収穫です」
そう言ってミューズ渾身の作品をぞんざいに机の上に放った。
扉をノックする音と、無駄にハスキーな声で「探偵様方、昼食をお持ちしました」と言う声が聞こえる。
顔を顰めながら扉を開けると、手にお盆を持ったまま芝居がかった動作で一礼するユリウスさんがいた。
「うちの料理人が作った昼食のサンドウィッチと、そちらの飼い猫のためのご飯です。どうぞお召し上がりください……おや、早速館の見取り図を書くとは、さすがは探偵様。捜査が迅速ですね」
「よくこれが見取り図ってわかりましたね」
「読みづらいですが見取り図って書いてありますからね。それにしても、失礼ですが随分と悪筆ですね。これはムツキ様が書いたものですか?」
根拠もなく僕が書いたと決めつけるその物言いにめちゃくちゃ腹が立つけれど、四ツ谷のせいにするわけにはいかないし、ミューズが書いたと言うわけにはもっといかない。渋々「そうです」と答えた。
「タイプライターが発明されて良かったですね」
そう言いながら机の上にサンドウィッチの乗った皿と水差しとコップを乗せ、ミルクの入った皿と何やらよくわからない餌の入った皿を床に置いていく。ミューズが床に置きっぱなしにした万年筆を踏んで転べばいいのに。
願い虚しく優男は何事もなく部屋から出ていった。僕は万年筆を拾って――ミューズの牙の跡が無惨に残っている事には目を瞑り――ペン立てに戻し、食事の置かれた机に向かって椅子に座る。
四ツ谷も僕の向かいに座り、ドングリを食べるリスのようにサンドウィッチに口をつける。
「そういえば四ツ谷と一緒に食事をするのって初めてだね」
僕はいつも教室で友達と一緒に購買で買ったパンを食べているから、学年の違う四ツ谷と食事をする事はまずない。
「本当ですよ。そもそも先輩はいつも校舎一階の購買でパンを買ってるのに、なんで教室に戻って食べるんですか。中庭とかで食べようとか思わないんですか」
なんで責めるような言い方なんだろう。たまに四ツ谷はこうなる。地雷がどこにあるのかはわからない。
「ところで四ツ谷ってお昼はお弁当なの?」
「ええ。料理は割と得意なので、自分で作ってます。先輩はいっつも購買のパンばっか食べてますけれど、お弁当を作ったりしないんですか?」
「いやあ、購買のパンばかり食べてたら、それを見かねたクラスの女子が『三笠君、パンばっかりだと栄養が偏るよ。だから、はい。お弁当作ってあげたよ』みたいなイベントが起きないかなって」
「先輩、頭の中を徹底的に洗浄してもらった方がいいんじゃないですか?」
「酷い!」
「六月さん。こんな事を言うのは憚られますが、一般的な女性の観点からすれば非常に気持ち悪い発想だと思います」
女神様からもダメ出しされた。泣いちゃう。
「とはいえ萌さんからすれば好都合で……」
「ミューズー?」
四ツ谷が低い声で名前を呼ぶと、白猫の言葉は途切れた。
食べ終わってしばらくした頃に再びユリウスさんがやってくる。
盆の上に空になった食器を回収すると、白い手袋を嵌めた手でスーツの内側から懐中時計を取り出す。
「今は午後一時ですね。七時から一階の食堂で夕食が始まります」
この部屋にも時計があるのに、わざわざ懐中時計を取り出す動作が明らかに格好つけていて非常に鬱陶しい。
「それまでの時間はこの館を自由に見て回って構いません。それでは私はこれで失礼します」
例によって芝居がかった一礼をすると、部屋を出ていった。
「僕、あの人好きになれそうにないな」
「珍しいですね。どんな相手にも人当たりのいい先輩が、嫌悪感を露わにするなんて」
四ツ谷の言う通り、ここまで誰かに嫌悪感を抱いた事はなかった。けれど、どうしても馬車から降りる時に四ツ谷の手を取ったあの光景が脳裏に焼き付いてムカムカする。
「それに、懐中時計を持ってるなんてカッコいいと思いませんか?」
四ツ谷の口からあいつをカッコいいと評する言葉が出た事に、ムカムカが倍増する。
「全然カッコよくないよ。ただのカッコつけだ」
「そうですか。先輩は以前、腕時計をしている女性は仕事ができそうでカッコいい。と言っていたので、懐中時計を持った男の人もカッコいいと思うんじゃないかと考えたんですが」
そんな事言ったっけ。確かに腕時計をした女性は仕事人みたいでカッコいいけれど。
「それで、館を自由に見て回っていいって言われたけど、どうする?」
「そうですね。探偵はこういう時どうやって過ごすのか、今まで読んだ本を思い出しているんですが、事件が起きることがわかっているならそれを防ぐために色々と行動を起こすんです。けど」
「残念ながら事件の発生を防ぐ事はできません。正確にいうならば私がさせません。何をどうしようが、この世界を自由にできる私が事件を起こします」
必ず事件を起こす。
そう力強く断言するミューズに、思わず慄いてしまう。
「なんだか物騒だなあ。ミューズがまるで敵に回ったみたいだよ」
「ミューズは敵ではありませんよ。さっきミューズが言った通り、私達とミューズの関係は、TRPGでいうところの、ゲームマスターとプレイヤーのようなものです。今回のゲームは推理もののシナリオなので、事件は絶対におこさなければいけません。別にミューズは私たちの推理を邪魔するわけではないのでしょう?」
「当然です。むしろ、萌さんが推理を行えるよう、手掛かりを要所に配置しなければいけないくらいです」
ほっと胸を撫で下ろす。急に信念を抱いた犯罪者のような事を言い出したから驚いたのだ。
「それじゃあ事件が起きるまでできる事はなさそうだし、折角だからこの館を見て回ろうか。こんな経験、そうそうできる事じゃないよ」
「そうですね。事件が起きた後の捜査もしやすくなりますし」
そう言って四ツ谷がミューズを抱こうと手を伸ばすと、白猫はするりとその手をかわした。
「どうしたんですか、ミューズ」
「……もうバレットに追い回されるのは懲り懲りです」
僕と四ツ谷は顔を見合わせると、くすくすと笑った。
部屋を出て階段を降りると、暖炉の横で寝そべっていたバレットが四ツ谷目がけて一目散に駆けてきた。しかし四ツ谷がミューズを抱いていないとわかると、悲しそうな鳴き声をして、再び暖炉の横で寝そべった。
「ミューズの判断は正しかったみたいですね」
「だね。ところで、どこに行こうか」
館を探索すると言っても、流石に各々の部屋を覗くわけにはいかないだろう。
「ミューズが書いた見取り図に地下室が載ってましたし、そこに行ってみませんか?」
「いいね、行こうか!」
「なんだか食いつきが良すぎて怖いんですけど……地下室で私に変なことをしようとか考えてませんよね」
「違うよ! 地下室って秘密基地みたいで、男心をくすぐられただけだって!」
身を守るようにして腕を抱えて僕から距離をとったので、慌てて弁明した。すると、四ツ谷はクスクスと笑う。
「冗談ですよ。先輩がそんな事をする人じゃない事はわかってます。それに、私だって地下室って言葉にはワクワクしてるんですよ。秘密の部屋って好奇心をくすぐられますからね」
先輩をからかう悪い後輩だった。思わず彼女のふわふわした髪の毛をわっしゃわっしゃと掻き回してやりたくなったけれど、あるかわからない先輩としての威厳を守るために、我慢する。
地下室への入り口は階段の裏にあった。階段の影に隠れた陰気極まる入り口は、まるで地獄へと続く穴のようだった。あたかも人を果てない地の底に誘うようで、あるいはここから此の世のものではない化け物が溢れ出してきそうで、全身が震える。
「や、やっぱやめようかな」
「さ、さっきまでのノリノリの態度はどうしたんですか」
僕は震える手で四ツ谷の制服の裾を掴む。かく言う四ツ谷も震える手で僕の制服を掴んでいる。彼女の胸が密着する多幸感も、恐怖の前には意味をなさない。
「お化け屋敷にいくようなものですよ。さ、さあ、行きましょう」
覚悟を決めたのか、四ツ谷は僕から離れると、暗い地下への階段を降りていく。
自分の中にあったはずの、さっきまでの秘密基地への期待感はどこにいったんだろう。地下室ってどこもこんな不気味なんだろうか。
僕も観念して四ツ谷の後へと続いていく。
階段を降りてすぐのところに、随分と錆びついた扉があった。その横、僕の背丈くらいの高さの場所に穴が空いて、燭台とマッチが置かれている。
「折角なのでこれを借りますか」
そう言って燭台に刺さった溶けかけの蝋燭に火をつけると周りがぼんやりと照らされる。光とはここまで人に安心感を与えるのかと感動する。電灯が開発され夜闇が照らされた時、人類は闇へ恐怖を克服したのだ。
「それでは、開けますよ」
鉄扉に手を伸ばす四ツ谷を僕は制止する。
「先輩……?」
「この先に何があるかわからない。四ツ谷を危険な目に遭わせるわけにはいかないから、僕が先に行くよ」
「せん、ぱい……」
四ツ谷が僕を見上げる。その頬は揺らめく蝋燭の炎に照らされ、微かに赤く染まっている。
彼女を安心させるように、僕は微笑む。
「安心して。僕は四ツ谷を絶対に危険な目に遭わせたりは……」
「私たちはこの世界では安全ってミューズが言ってましたし、危険な目には遭いませんよ?」
八つ当たり気味に思いっきり鉄扉を開けた。古そうな外見とは裏腹にスムーズに開いたので、さらに気持ちの行き場が失われる。
後ろに立つ四ツ谷が手に持った燭台で、部屋の中が照らされる。
「ここは……なんだろう。まるで理科準備室みたいだ」
「情緒のない例えですが、言わんとする事はわかります」
四ツ谷が僕の横から部屋に入り、部屋をより照らす。
部屋の奥には幾多の書物が積まれた机が鎮座している。その上には、僕たちからすれば時代錯誤なこの館の中でも、さらに時代錯誤な羽ペンが置かれている。
左右の両壁には棚が置かれ、左の棚にはぎっしりと書物が詰まっていて、右の棚にはさまざまなラベルが貼られたビンが陳列されている。そして天井からは色んな植物が干されている。
「理科準備室が情緒がないなら、錬金術師の部屋ってのはどうかな」
「そうですね。けれどこの館の名前を思い出せば、ここがなんの部屋かわかると思います」
そうか。どうしていの一番に出てこなかったんだろう。
「ここは――」
「魔女の部屋だよ」
「うわああああっ!」
突如背後から響いた声に、僕と四ツ谷は悲鳴をあげてお互いに抱きついた。
「ごめんごめん。驚かせてしまったみたいだね」
後ろから声をかけてきたその人物は笑う。
年齢はコレットと同じくらいだろう。肩まで伸びた金色の髪は前髪が長く、目元まで覆っている。白いシャツから伸びる腕は細く色白で、それが目の前に立つ人物をどこか儚げに思わせる。コレットが幻想的ならば、この人物は神秘的と言っていい。
「僕の名前はクリス・ベルナール。コレットとは双子の兄妹だ」
鈴の音のよう可憐なコレットの喋り方と対照的に、クリスは空気に霧散するような儚げな声色だった。もし背後から声をかけられず、この地下室いる所を目撃したのなら、きっとここに住んでいると勘違いしただろう。
「ゴホン。初めましてクリスさん。探偵の四ツ谷萌です」
僕から離れた四ツ谷は咳払いをして自己紹介をする。
「コレットから話は聞いているよ、モエさん。そこのムツキさんも。確かにコレットが言ってた通り、優しそうな人だね、ムツキさんは」
「コレットが、そう言ってたんだ」
「随分と嬉しそうですね、先輩」
じとっと後輩が睨んでくる。
「探偵さんのことも褒めてたよ。頭が良さそうで、二人はいいコンビに見えるってさ」
「そうですか、いいコンビですか……へへ」
さっきまでの視線とは裏腹に急におとなしくなった。どうもコレットが関わると四ツ谷の情緒がおかしくなるらしい。
クリスは僕たちの横を通り過ぎ、ゆっくりと部屋を見渡す。
「ここは数世紀前まで魔女マライアが使っていた部屋。そして当時の当主に裏切られた部屋だ」
全ては、ここから始まったわけだ。
僕が地下室への入り口を見て不気味に思ったのも仕方ない事だろう。
ここには魔女の呪いと、そして怨念が渦巻いているのだから。
「さっきムツキさんが錬金術師の部屋みたいだと言っていたけれど、あながち間違いじゃあないよ。僕は興味本位でよくこの部屋にあるものを調べてるんだけれど、驚いたよ。マライアがいたのは数世紀前なのに、現代化学に肉薄した思考を持って研究をしている。もし今の時代まで研究を続けていたのなら、現代化学を通り越して本当にただの石ころを黄金に変えれていたんじゃないかとすら思えてくる。さらに天体の研究もしていたみたいで、当時は天動説が主流だったはずなのに地動説に気付きかけている。それだけ優秀な頭脳を持っていたんだから、ベルナール家を繁栄させる事くらいわけないはずだ。僕はあまり詳しくないけれど、ニホンにはオンミョウジとかいう、王に使える科学者集団がいたみたいだし、それに近かったんじゃないかな」
「先輩、陰陽師ってそんな役割だったんですか?」
普段は僕が四ツ谷に質問をする立場だけれど、この手のオカルト話に関しては立場が逆になる。
「朝廷に仕える陰陽師が天文学を使って吉凶や暦を占っていたというのは本当らしいよ。あと陰陽師が使役する式神も、鬼だって言われてる。魔女が迫害されたのは教会が嫌う悪魔と契約したからって言われてるし、鬼を使う陰陽師も似てなくもない、って感じかな」
ただ、陰陽師が化学を使ったという話は聞かないから、やっぱり魔女マライアとは別物なんだろう。
「ムツキさんはニホンに詳しいんだね」
そりゃ日本人だし。クリスの認識では日本に詳しい英国人ウィリアム何某になっているのだろう。
「話を戻すけれど、マライアは優秀な科学者だったんだ。生き残っていればどれだけの叡智を僕たちに授けてくれただろう。それなのに、魔女だのなんだのと言われて処刑されたのが、残念でならない、しかも、そのせいで僕たちは死の運命が架せられたんだ」
僕たちに背を向け、急に机に拳を叩きつけた。
「ひっ」
穏やかな雰囲気を携えたクリスの突然の行為に驚き、悲鳴をあげてします。
「僕は心から許せないよ。魔女狩りを行った愚かな教会も、彼女を教会に売り渡した僕のご先祖さまも!」
その声色に、異常なほどの憎しみを感じる。
さっきまでの今にも消え去りそうな儚げな雰囲気とは真逆に、全身から確かな憎悪が溢れていた。あたかもクリスという透明で無垢な器に、この部屋に籠る魔女の怨念が満たされていかのように。
四ツ谷が僕の制服の裾を掴む。彼女も、大人しそうだったクリスの突然の豹変に恐怖を抱いている。
声を荒げ肩を上下させていた彼はゆっくりと僕たちの方へと振り向く。
般若のような顔をしているかと思っていたけれど、その顔はさっきまでと同じ、穏やかで今にも闇に溶けてしまいそうな儚いものだった。
「すまないね。つい興奮してしまった」
そう言って、くしゃりと自分の前髪を掴む。
「どうにも気が立っているみたいだ。何せ……明日には必ず僕たちの中の誰かが死ぬんだ。気丈に振る舞おうと思っても、恐怖や理不尽に精神が参ってるみたいだ」
「クリスさん……」
死を待つ状況。逃れられない呪い。抗えない理不尽さ。そんな状況、僕の今までの日常には皆無だった。どんな気持ちでいるのか想像もつかないし、どう声をかけてあげればいいのかわからない。
「探偵さん」
クリスは泣きそうな顔で僕たちを見上げる。
「もし僕が殺されたとしても、犯人を恨むきはこれっぽっちもない。その犯人も、言ってみれば呪いによって犯人にさせられた被害者だ。恨むなら愚かな教会や先祖を恨むよ。けれど、犯人は絶対に見つけて欲しい。父さんやコレット、叔父さんが殺される前に」
四ツ谷はその悲壮感漂うその懇願に、言葉を発することなく首を縦に振ることしかできなかった。けれどそれで十分だったのだろう。クリスは微笑を浮かべると、部屋を出ていった。
「呪いは実在するって話は聞いたことがある?」
四ツ谷は無言で僕を見上げる。
「丑の刻参りとかそんなんじゃない。誕生日の日に何か嫌な事があれば、他の日に起きた時よりも嫌な気持ちになる。小さい頃から周囲に「お前はブスだ」と言われれば、成長しても自分はブスだって思い込んでしまう。人の心を蝕むのに魔力だの呪力だのは必要ない。ただ、思い込みや積み重ねがあればいいんだ。クリスも、優秀な科学者であるマライアの魅力と、その悲劇の物語に心が囚われているのかもしれない。呪いのように」
「その場合、呪ったのはマライアなのか、彼女を破滅させた数世紀前の人々なのか、どちらなんでしょうね」
四ツ谷に返す答えはない。僕たちは地下室を出た。
少々刺激的な体験をしたので僕たちは部屋に戻って休憩し、食事の時間に一階の食堂に向かうことにした。
「ミューズはどうしますか?」
「部屋で待ってます。そもそも肉体ごとこの世界にやってきたお二人と違って、物語の中の存在である私に空腹はありません」
四ツ谷のベッドの上で丸くなるミューズを置いて僕たちは部屋を出た。
「なんというか、ぐーたらな女神様だね」
「案外、神様ってやる事がなくて、ぐーたらしている事が多いのかもしれませんね」
「お二人とも、この世界での会話は全て私に筒抜けであることをお忘れなく」
心なしか怒気を込めたミューズの声が頭の中に響いた。
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