第一章

「先輩、起きてください。三笠先輩」

 体が何者かに揺さぶられて、僕は小さく唸って意識を戻す。どうやら、気を失っていたらしい。

 頭がぼんやりとして覚醒とは程遠いけれど、自分が仰向けに横たわっているらしい事はわかる。

 うっすらと目を開けると、眉をハの字にした不安げな顔で、僕の顔を覗き込む四ツ谷がいた。

「よかった……目を覚まさなかったらどうしようかと思いました」

 ほっと安堵の息をついて胸を撫で下ろす。

 手をついて上体を起こす。四ツ谷は僕の傍に座り込んでいた。見たところ彼女の体に異常はなさそうだけれど、一応尋ねてみる。

「四ツ谷、身体は無事?」

「はい。私は大丈夫です。先輩の方はどうですか?」

「僕も大丈夫。それにしても、いったい何が起きたんだろう」

 手をついた時の感触から気がついていたけれど、僕達が座り込んでいる場所は図書室じゃなくて地面だ。

 辺りを見回すと、やはりそこは図書室ではなく、鬱蒼とした森の中だった。木々の向こうからは虫の鳴き声が聞こえ、上を見上げると、生い茂った枝葉の向こうからは、瑠璃色の夜空の中で煌々と存在を主張する月が見える。

 気を失うまでの事を思い出してみる。図書室で四ツ谷が本を手にして真っ白のページを捲り、どこからか女性の声が聞こえて本が光り出したところまでは覚えている。けれど、僕の記憶はそこで途切れていて、そこから先は何が起きたのか全くわからない。

「四ツ谷、僕は図書室で白い本を見つけて、その本が輝き出したと思ったら意識を失ったみたいなんだけれど、その間に何があったの?」

「わかりません……私も先輩と同じで本が輝いた時に気を失ってしまって、ついさっき先輩の隣で目を覚ましたばかりなんです。だから、その間に何が起きたのかわからないんです。スマホが動かないから、ここがどこかも……」

 不安からか制服の肘をギュッと掴む。僕の怪談噺を幾ら聞いても動じない四ツ谷がここまで怯えるのは珍しかった。

 その気持ちは僕にもわかる。それだけこの状況が異様なのだ。

 急に意識を失ったと思ったら、見知らぬ場所にいた。僕達が気を失っている間に何があったのか、そしてここはどこなのか。わからない事だらけで不安になる。怯えるのも無理はない。

 けれど僕まで怖がってはいけない。僕は四ツ谷の先輩だ。先輩らしく後輩を安心させてあげなければいけない。

 まずすべき事は現状の把握だ。

「多分、ここは怪談にあった本の中の世界じゃないかな」

「そんなわけないじゃないですか。そんな非現実的な話よりも何者かに昏倒させられて気を失っている間にここに運びまれたとかの考えの方が現実味があります」

 即座に反論された。不安げに怯えているよりも、こうして理性的でいる方が四ツ谷らしい。先輩らしく四ツ谷後輩に言い負かされる事で、彼女にいつもの調子を取り戻させる事に成功したのだ。さすがは僕。

「ただ、何のために私たちを攫ってここに放置したのかわかりませんし、そもそもあの時間、図書室はまだしも校舎にはまだ生徒や教師がたくさんいたのに、どうやって私たちを攫ったのかがわからないんですよね」

 人差し指を額に当ててぶつぶつ呟きながら考え込む。四ツ谷が考え事をする時のいつものポーズだ。けれど、答えを見つけるには手がかりが少ないのか、一向に考えが纏まらないらしい。

「とりあえずここから移動しない? 辺りを探せばここがどこなのか手がかりがあるかもしれないし、このままここにいて僕達を攫った犯人がここに戻ってきたら、まずい事になるかもしれないよ」

 目をぱちくりさせて僕を見つめる。まるで「まさか先輩がそんな生産的な事を提案できるなんて」とでも言いたげに見えるのは僕の思い過ごしか被害妄想だと思いたい。

「そうですね。先輩の言う通りです」

 そう言って立ち上がりスカートと脚についた土を払う。僕も立ち上がるとズボンについた土を払った。

「ただ、どこに向かえばいいんだろう」

 周囲を見渡す。木々の間隔はそれほど狭くないから歩くのに苦労はしそうにないけれど、逆に言えばわかりやすい道が存在しないから、どの方角に向かって歩けばいいのかわからない。

 こうなったら木の枝の倒れた方向に進むしかない。

 手頃な木の枝を見つけた時、四ツ谷が僕の右後ろを指をさして「多分、あっちです」と言った。

 四ツ谷の指さした方向に目を凝らす。街灯が見えなければ道路も民家も見えない。

「どうしてあっちだと思ったの? ヤマカン?」

「違いますよ。先輩と一緒にしないでください」

「僕はヤマカンじゃなくて運頼みだよ」

 立派な木の枝を見せつけるように持ち上げると、四ツ谷は額に手を当てて溜め息をつく。

「虫の鳴き声が、向こうの方が小さい気がします。それはつまり、虫の生息できない人工物があるんじゃ無いでしょうか……正直、確証はありませんけれど」

 最後に自信無さげに付け加える。都会のコンクリートジャングルで育った僕たちに大自然の知識は無いから、ウエハースのようにペラペラな推測しか立てられないのは仕方ない。

「どうせどこにいけばいいかわからないんだし、四ツ谷の指した方角を選ぶよ」

 スマホを取り出してライトで辺りを照らそうとしたけれど、スマホの画面は真っ暗なままだった。そういえばさっき四ツ谷がスマホが動かないと言っていた。図書室で時間を確認した時はバッテリーは十分に残っていたはずだ。僕たちはスマホの充電が無くなるほどの長い間、気を失っていたんだろうか。

 仕方なく、木々の間から差し込む月明かりを頼りに慎重に歩を進める。後ろからは四ツ谷がついてきている。僕達は無言で土を踏みしめながら進む。 

 この木々の向こうから、見た事もない怪物が現れるんじゃないかと思うと足が竦みそうになる。怪談は好きだけれど、自分が体験するのは御免だ。けれど、このまま森の中で夜を明かすわけにもいかない。

 後ろから服が引っ張られたので反射的に振り返ると、四ツ谷が小さな手で僕の制服の裾をギュッと握っている。

 頬を赤らめながら目を逸らし、「その、暗くて怖くて……」と小声で言い訳しながら手を放した。

 離れていくその手を掴むと、「ひゃん!」と可愛らしい悲鳴をあげた。

「これなら怖くないよね?」

 そう尋ねると、さっきよりもさらに頬を赤らめ、コクリと頷いて僕の隣に並ぶ。我ながら実に先輩らしい気遣いだ。本当は僕の方も怖かったから渡りに船だったんだけれども。

 わけもわからないまま未知の場所に放り出され、どこへ向かえばいいのかわからず、頼りない推測をもとに、暗い森の中を歩き続ける。

 到底、現実に起こっている事だと感じる事ができず、まるで夢の中にいるようで、実感が湧かない。この夢と現の間に曖昧に漂っているような世界に、自分というちっぽけな存在が取り込まれて、自意識が希薄になりそうになる。

 けれど、僕の手を握る温もりだけば、ここに確かな存在感を持っている。千切れそうになってしまう僕の意識を繋ぎ止めてくれる。

 僕の隣に四ツ谷がいる。この確かな現実だけが、不安定になりそうになる僕の心の拠り所だった。

 しばらく歩くと、木々の向こうに橙色の明かりが見えた。思わず四ツ谷の方を見ると、彼女も感極まった笑顔で僕を見ていた。

 どこかもわからない薄暗い林の中で見つけた人工の明かりが、僕達に与える安心感は筆舌にし難い。砂漠の中でオアシスを見つけた旅人というのはこんな気持ちなんだろう。やはり灯りとは人の心に安堵を与えるのだ。

 はやる気持ちを抑えて明かりに向かって突き進む。やがて僕らは拓けた場所に建つ一軒の建物にたどり着いた。

 それはファンタジー世界に登場するような二階建ての煉瓦造りの建物だった。木枠の窓の数から部屋が幾つかある事が伺える。

 重厚そうな木の扉の横には「INN」と書かれた看板。ゲームなどでよく見る、宿屋を意味する言葉だった。

「外観といい看板といい、まるで海外かゲームの中の世界に来たような気分だよ」

「信じられません……映画か何かのセットじゃないんですか?」

 四ツ谷は僕の手を離すと、レンガの壁に触れる。

「手触りは本物のレンガ……しかも、かなり年季が入っていて、自然に発生したようなヒビも入っています」

 つまり、これは正真正銘本物の建物で、おそらく本物の宿屋という事になる。

 最初に見つけた建物が宿屋なのは幸いだった。林の中で目を醒ましてからここまで歩きづめで疲れていた。四ツ谷も同じだろう。運動不足の図書委員コンビなのだ。今は夜中だし、もしこの場所が僕たちの元いた場所から遠かった場合、ここで泊まれるのはありがたい。

 けれど、現実離れしたこの建物に入るのは勇気を必要とする行為だった。中で何が待ち構えているのかわかったものじゃあない。扉を開いたら、ムキムキマッチョのマフィア達が酒盛りをしているかもしれない。もしくは怪しげな風体で包丁を持った老婆がニヤニヤと不気味な笑みを浮かべているかもしれな。かもしれないけれど、このいかにもで怪しげな宿屋から離れたとして、また別の建物があるかはわからないし、四ツ谷に野宿させるのは以っての外だ。覚悟を決めてこの宿屋に入ってみるしかないだろう。

「四ツ谷。ここに入ろう」

「そんな……大丈夫ですか?」

「大丈夫。何があっても僕が四ツ谷を守るよ」

 先輩として後輩を安心させるべく微笑む。

「いえ、そうではなく。泊まるにしてもお金はあるんですか?」

 ……完全に失念していた。お金がなければ泊まれない。ごく当たり前の事実だ。

 ポケットから財布を取り出す。中に入っていたお金は五百円強。宿泊どころか夕食にありつけるかも怪しい。こんな事ならば先日カードゲームのパックを箱買いするんじゃなかった。

「大丈夫。僕が四ツ谷の分まで土下座してでも泊めさせてもらうよ」

「せんぱい、おとこらしくてすてきです」

 棒読の賞賛を受ける。

「先輩に土下座してもらうのは兎も角として、事情を説明して二人で頭を下げてでも泊めてもらうしかなさそうですね」

 話が纏まると、意を決して扉に手をかける。重厚な木の扉を開けると、カランコロンというベルの音と共に、屋内の光景が目に飛び込む。

 木張の床と、木製のカウンター。その向こうには扉が一枚ある。

 カウンターの左側には背の低いテーブルを挟んで二人掛けのソファが置かれ、ソファの斜向かい、壁側には暖炉が置かれている。季節柄、火は焚かれていないけれど、内部の煤や灰から、飾りではなく本当に使われてる物である事が伺える。

 外観同様に令和の時代とは思えない内装に、現実感が揺らいでくらりと目眩を起こしそうになったところで、カウンターの向こうの扉が開き、恰幅の良さそうな中年のおばさんが現れた。

 エプロンをしたその姿は見るからに宿屋の女将といった姿だ。けれど赤銅色の髪と彫りの深い顔、そして緑色の瞳は明らかに日本人ではなかった。

 僕の英語の成績は自慢できるものじゃあない。ましてや英語で会話をする自信はない。そもそも英語圏の人かもわからない。

 とりあえず「ハロー」と言おうとしたら、向こうから話しかけてきた。

「おや、こんな時間にお客さんが来るなんて珍しい。いらっしゃい。素泊まりかい? 今ならまだ夕食も出せるよ」

 普通に日本語だった。

 見るからに日本人でない人が日本語を喋っているのは、まるで吹き替えの映画を見ているようだ。けれど、それが映像の中ではなく目の前でで行われているのだらから、どうしようもない違和感を抱いてしまう。ただ、日本語が通じるのは幸いだ。

「えっと、実は僕達は道に迷ってここにたどり着いたんです」

「先輩、まずは名前を名乗らないと」

 四ツ谷の言う通りだ。言葉が通じないと思っていたら普通に会話できた安堵で、当たり前の礼儀を忘れていた。

「僕の名前は三笠六月です」

「四ツ谷萌です。実は私たちは……」

 僕達が名乗ると、おばちゃん(名称不詳)は「ああ」と言って頷いた。

「あんた達が、ベルナールさんに呼ばれた探偵のモエ・ヨツヤと、その相棒のムツキ・ミカサかい。ちゃんとベルナールさんに言われた通り部屋はすでに準備してあるよ」

 おばちゃんの言葉に僕の身体は固まった。

 彼女は何やら一人で納得しているようだけれど、僕の頭の中にハテナマークが溢れかえる。四ツ谷が探偵? 僕が相棒? ベルナール? 部屋を準備してある? 全くもってわけがわからない。

「あの、いったい全体どういう事で……」

「わざわざこんな僻地に来て疲れているだろう。部屋でゆっくり休みな。ベルナールさんからはアンタ達をもてなすように言われてるし、前払いで料金は受け取ってるからね。遠慮する事はないさ。それじゃあ私は夕食の支度にかかるからね」

 四ツ谷の言葉を遮るように早口でそう言うと、おばちゃんはプレート付きの鍵――ホテルで見るような透明な直方体のついたものではなく、丸い木のプレートのついた、古風な鍵――をカウンターの上に置き、出てきた奥の部屋に再び引っ込んで行った。随分とせっかちな人だ。

 僕たちは互いに顔を見合わせる。

「結局何も聞けませんでしたね」

「それどころか、余計にわけのわからない事が増えたよ。どうしておばちゃんは僕達の事を知っていて、しかも四ツ谷を探偵って呼んでるのか……四ツ谷この状況をどう思う? やっぱり、本の中の世界に引きずり込まれたのかな」

「そんな非現実的な事、起こるわけ……無いです」

 最後の言葉は躊躇いがちだった。

 急に林の中に倒れていた状況。見るからに日本のものではない建物と、日本人ではないおばちゃん、しかも日本語を喋る。そして四ツ谷が探偵という設定。

 あの怪談の出来事が本当に起きたかのような状況に、四ツ谷の自信も揺らいでいるようだ。

「とりあえず、部屋に行きませんか? 疲れてしまいました」

 そうだった。考えるよりもまず、体を休ませないと。

 僕達は廊下を進み、鍵のプレートに刻まれた番号の部屋に行く。

 廊下の明かりは最小限のようで、ひどく薄暗い。ミシミシと音を立てる板張りの廊下を進んでいき、目的の番号の部屋を見つけた。

 ドアノブの下の鍵穴に鍵を挿しこんで扉を開けると、薄暗い廊下に部屋の明かり溢れ出る。おばちゃんの言っていた通り、すでに部屋の明かりを点けて準備しておいてくれたらしい。入り口の正面、部屋の奥の暖炉にもいつでも火を点けれるように薪が並べてある。尤も、まださほど寒さを感じないので、火をつける必要はないだろう。

 部屋の右手にはベッドが二つ、間の壁際に小さなチェストを置いて並んでいる。左手の壁際には机と、机を挟んで椅子が二つ置いてある。

 暖炉の左隣には木枠の窓があり、右隣には大きなチェストが置いてある。チェストの上には招き猫が飾ってあった。目を覚まして以来、初めて見る日本要素だった。

「ふー、疲れました」

 四ツ谷がベッドに横になる。僕も四ツ谷とは別のベッドに寝そべった。ベッドに疲れた身体が沈み込み、慣れない林の踏破での疲労がほぐれていく。

「それにしても、外観といい部屋の内装といい、本当に中世ヨーロッパにきたみたいだ」

「いえ、この部屋の内装は中世ではありませんよ」

 首を横に向けて隣のベッドを見ると、四ツ谷がベッドに寝転んだまま体をこちらに向けていた。普段学校でしか会わない彼女の、ベッドの上で寝転ぶ姿に、まるで四ツ谷のプライベートな姿を見ているようで、思わず胸が高鳴り頬が赤くなりそうになる。

「部屋の明かりを見てください。中世ヨーロッパなら燭台を使っているはずですけれど、あれはガス灯です。ガス灯が普及したのは十九世紀後半なので、中世からは三百ほど後になります」

「十九世紀かあ。いまいちピンとこないよ」

「日本では明治時代初期、もっとわかりやすく言えばシャーロック・ホームズの時代ですね」

 わかりやすいようでいまいちピンと来ない喩えだった。


「間違ってはいませんが、その考え方は危険です。萌さん」

 

 部屋中に響き渡るような凛とした、そして心に染み渡るような、澄んだ声。

 聞き覚えのあるその声色に、僕の体は一瞬凍りつく。

 四ツ谷が体を起こし部屋中を見渡す。そしてその視線は窓で止まった。。

 彼女につられるようにして、僕も窓を見る。

 いつの間にか開いた窓からは、夜風が吹き込んでいる。

 そして、風に靡くカーテンを舞台の緞帳のように、宵闇を背景にするようにして、窓枠に純白の毛並みの猫が立っていた。

 白猫は窓から床へと飛び降りると、僕と四ツ谷がいるベッドの間の床を歩き、ベッドに挟まれた小さなチェストに飛び乗った。

「本来の姿では現れる事ができないので、猫の姿で失礼します。初めまして、萌さん、六月さん」

 先ほどと同じ声が発せられる。けれど猫の口は動かない。そもそも声の発声元がわからず、まるで僕の頭の中に直接響いているようだった。

「て、テレパシー……?」

「そんなまさか。スピーカーか何かがどこかに……」

 四ツ谷は耳を両手で塞ぐ。

「これで信じていただけますか?」

 再び白猫の声がテレパシーのように脳裏に響く。四ツ谷は震える手を耳から離す。

「耳を塞いでも、音量が変わりません。本当に、テレパシーが……あなたは、一体」

 白猫は、まるで人間のように優雅に一礼をする。

「私は書物の女神ミューズと申します」

「書物の、女神」

 今までの出来事は、まるで映画かゲームの中のような光景が広がっていたけれど、まだ現実に起こり得る事だった。けれど、テレパシーを使う猫、それも書物の女神だと名乗っているのだ。今僕たちの置かれた状況が、現実じゃない事が確定してしまった。

「混乱なさっているようですね。説明もなくこの場所に連れてきて申し訳ありません。ですが、私はあなた方の世界にはあまり顕現できない身。説明をするほどの時間はないのです」

 そう言って白猫――ミューズ様は、頭を下げる。

「ちょっと待って。僕たちの世界には、って事は、やっぱりここは現実じゃなくて、本の中の世界?」

「その通りです六月さん。あなた方が手にした本。あれは私の生み出した本。お二人にはその本の中の世界に来ていただいたのです」

「信じられません……本の中の、世界だなんて」

 呆然とした四ツ谷が呟く。アニメや漫画やゲームが好きで、地に足のつかない妄想ばかりしている僕に比べて、しっかり者で現実主義の彼女は、非現実的な出来事に対する耐性が低いようだ。

「信じられない気持ちはわかります。なのでこの世界に来た方には、信じてもらうためにまずやってらっている事があるんです。六月さん、『メルオス』と唱えてください」

「メルオス……? うわあっ!」

 言われた通りの言葉を発すると、僕の胸元に一冊の本が現れた。

 それだけじゃない。その本は重力から解き放たれたかのように、その場に浮いている。

「これで信じてもらえたでしょうか。ここが現実の世界ではなく、本の中の世界である事を」

 四ツ谷は手の甲を額に当てて、そのままベッドに倒れ込んだ。その際に豊かな胸が揺れる光景を僕は見逃さない。

「すみません、目眩が……こんなファンタジーな出来事がまさか起きるだなんて、まるで自分の信じていた世界が崩れ去ったかのようで」

「僕はむしろワクワクするんだけどね」

「今だけは先輩の能天気さが羨ましいです」

 僕は宙に浮かんだ本を手にとる。すると、本は重力を思い出したかのように僕の手にズシリと収まった。

 外装は僕達が図書室で見つけた本と同じだった。禁帯出のシールは貼っていないけれど。

「えっと、女神ミューズ様って呼べばいいのかな?」

「ミューズで構いません。女神の名はそれ自体が敬称なので、ミューズ様だと二重敬語になってしまいます」

「二重敬語……?」

 聞き慣れない言葉を反復すると、隣のベッドから説明が行われる。

「例えば先輩は「三笠先輩」と呼ばれる事はあっても、「三笠先輩様」や「三笠先輩さん」と呼ばれる事はありませんよね。それは「先輩」という言葉自体に相手を敬う意味があるので、そこに更に相手を敬う「様」や「さん」をつけると、敬称が被ってしまうんです。この場合はミューズという名前自体が敬称なので、そこに様やさんをつけると二重敬称になるという事です」

「なるほどなあ」

 ベッドに倒れ込んだまま行われる四ツ谷の説明は相変わらずわかりやすい。そして僕に対して解説をするという、いつもの行動で少しでも調子を取り戻してもらうとありがたい。

「それで、ミューズ。この本はいったい何なんだろう」

「その本はこの世界の物語の本。あなた方が体験し紡ぐことで、物語を完成させる本です。まずはこの世界から説明しましょう」

「はあ……どれだけ信じがたくても、目の前で起きている事は受け入れざるを得ません。もう特殊設定ミステリだと思うことにします」

 ようやく現実を受け入れる気になったのか、ベッドから上半身を起こしてミューズに向き合う。

「先述の通り私は書物の女神。古来より本と、本を愛する者に加護を与える存在。しかし人間に大っぴらに関わる事はありません。人と本との出会いの縁を少しだけ取り持つ事が精々です。その程度しか現世の人間に干渉する事はできません。それは私だけではなく、神々全員です。現世のことわりを曲げないためにも、私たちは人間に大きく干渉する事はありません」

 しかし、と続ける。

「現世から離れようとしている者、現世の理から解き放たれている者は別です。具体的に言えば、死に瀕した者。その者に干渉しても理が歪む事はありませんから。書物の女神である私は、志半ばで命を落とし、推理小説を書きあげられなかった者の元へと現れます。そして、解かれることが無くなった推理小説の謎を、救済する契約を交わします。その救済こそが、作者の思いを核にしてこのように物語の世界を作り出し、その物語のストーリーを再現し、謎を解いてもらうために現世の人間を呼び出す事です」

「やっぱり、僕が四ツ谷に語った怪談の内容と同じだ」

 本の中に世界へと誘い、解かれなかった謎を解かせる本の怪談。

 怪異譚を好きな人間が一番嬉しいこと。それは本当にその怪異譚が存在する事が証明された時だ。ツチノコやアトランティス大陸の存在を信じる人たちが、それらを目にする事ができたようなものだ。さっきは実際に体験するのは御免だと思ったけれど、やはり興奮で足元がふわふわと浮ついてしまう。

「四ツ谷、こうしてあの怪談が実在したんだから、他の怪談も実在するかもしれないよ」

 向かいのベッドに座る後輩に声をかけると、彼女は額に人差し指を当てて明後日の方向を向いていた。「怪談が実在したということは、つまり……」などと何やらぶつぶつと呟いている。

「四ツ谷?」

「すみません、少し考え事をしていました。ミューズ、続きをお願いします」

「わかりました。それでは六月さんの持つその本の説明に入りましょう。六月さん、本を開いてみてください」

 言われた通りに僕は本を開いてみる。四ツ谷も向かいから僕の持つ本を覗き込む。ふわり。と彼女の髪から漂うシャンプーの良い香りが鼻腔をくすぐる。もっと嗅ぎたかったけれど、本の内容に集中する。

 最初のページは登場人物一覧だった。

 

 登場人物一覧

 

 ジェラール・ベルナール…ベルナール家当主

 アルマ・ウォレス…ベルナール夫人

 クリス・ベルナール…ジェラール夫妻の双子の子供

 コレット・ベルナール…ジェラール夫妻の双子の子供

 エリオット・ベルナール…ジェラールの弟

 ダリアン・ディーノ…執事

 ユリウス…案内人

 セイラ…料理人

 バレット…狩人

 アーサー・エバンズ…探偵

 ウィリアム・ウィルソン…アーサーの相棒

 

 そこには名前と簡潔な説明文が書かれていた。

 さらにページをめくると、本文が書かれている。


「先輩、起きてください。三笠先輩」

 体が何者かに揺さぶられて、僕は小さく唸って意識を戻す。どうやら、気を失っていたらしい。

 頭がぼんやりとして覚醒とは程遠いけれど、自分が仰向けに横たわっているらしい事はわかる。

 うっすらと目を開けると、眉をハの字にした不安げな顔で、僕の顔を覗き込む四ツ谷がいた。

「よかった……目を覚まさなかったらどうしようかと思いました」

 ほっと安堵の息をついて胸を撫で下ろす。

 手をついて上体を起こす。四ツ谷は僕の傍に座り込んでいた。見たところ彼女の体に異常はなさそうだけれど、一応尋ねてみる。

「四ツ谷、身体は無事?」

「はい。私は大丈夫です。先輩の方はどうですか?」

「僕も大丈夫。それにしても、いったい何が起きたんだろう」

 手をついた時の感触から気がついていたけれど、僕達が座り込んでいる場所は図書室じゃなくて地面だ。

 辺りを見回すと、やはりそこは図書室ではなく、鬱蒼とした森の中だった。木々の向こうからは虫の鳴き声が聞こえ、上を見上げると、生い茂った枝葉の向こうからは、瑠璃色の夜空の中で煌々と存在を主張する月が見える。


「これは……僕が森の中で目を覚ましてからの記録だ」

 恐ろしいほど正確に僕が感じた事が、明確に描写している。

「六月さん。あなたがこの世界で体験した出来事は自動的にこの本に記録されます。こうして未完のまま終わるはずだった本が完成するわけです」

「なるほどなあ。でもどうして僕が」

「これ、先輩の一人称形式なんですよね!」

 いつになくが興奮した様子で僕の手から本を取り上げて本のページを捲る。

 それを見て、まずい。と気づく。

「四ツ谷、ダメだ!」

 慌てて四ツ谷の手から本を奪い返そうとするも、四ツ谷はくるんと身体を回転させて僕の手を躱す。

 この本には僕の体験、そして僕の心情が全て書かれている。恐らく、ベッドに寝転がった四ツ谷の姿にドキドキした体験や、四ツ谷の髪の匂いを嗅ぎたがっていた事も。

 それを本人に読まれるのは、恥ずかしい。

 なんなら「先輩、私のことをそんな目で見ていたんですか……最低ですね」とか言われて距離を置かれるかもしれない。そんなのは御免だ。

「六月さん。『フォルク』と唱えれば本をしまうことができますよ」

「フォルク!」

 ミューズに言われた言葉を口にすると、本は虚空から出てきた時と同じように、四ツ谷の手から虚空に消えていった。

 四ツ谷が頬を膨らませて口を尖らせる。危ないところだった。

「せっかく先輩が私をどう思ってるかわかる……じゃなくて、ミューズ。こうして先輩の視点で本が書かれているわけですけれど、それは「高校生たちが本の中の世界に入り込んでしまう話」であって、元となる物語の内容とは異なってしまうんじゃないですか?」

 四ツ谷の言葉の意味を少し考え、理解が追いついた。

 登場人物一覧を見る限り、多分だけれど本来この物語は、探偵とその相棒がベルナール家なる一家の屋敷に行く話なのだ。けれど、僕が手に持ったこの本は、僕たちが本の中の世界に入り込んで戸惑っているところから始まっている。初っ端から元の物語と乖離してしまっているという事だ。

「萌さんのおっしゃる通りです。しかし、これは本の中に現世の人間を呼び込み、本を綴ってもらうという仕組みの都合上、避けられない事です。亡くなる際の作者にもこの事は説明し、それでも自分の作った物語の謎を解いてもらえるのならば。と言ってくれた方と私は契約を交わします。当然、謎より本の体裁を優先する作者は契約を断りますし、その場合も少なくありません」

 なるほど。

 ミューズと契約を交わした作者は、どんな形であれ自分の作った事件に挑み、謎を解いてもらいたいという人らしい。

 それはまるで、本を書いているというよりも、謎を作っているみたいだ。

 解かれるべき謎があり、登場人物も、世界観も、全てはそれをお膳立てする要素に過ぎない。

 ミステリ小説を読まない僕にとって、それは異質とも思える考えだった。

「それでミューズ。どうして僕が本の記録役になってるの?」

「それについては、まずこの世界のあなた方の役割を知って貰わなけれななりません……と言ってもお察しの通り、萌さんはこの本の探偵、ロンドンで探偵業を営む髭面の男性「アーサー・エバンズ」、六月さんはその相棒であるガタイのいい男性「ウィリアム・ウィルソン」という名の男としてこの世界にやってきています。そしてこの物語は、相棒であるウィリアムの視点で語られる形です。なのでその役割に就いている六月さんに記録してもらっているのです」

「なるほどなあ」

 四ツ谷に聞いた事がある。「シャーロック・ホームズ」は、ホームズの相棒であるワトソンが筆記したという設定なので、彼の視点で書かれていると。どうやら僕のポジションはそのワトソンと同じらしい。

「ちなみにこの物語の舞台は英国であり、時代は萌さんの推理通り十九世紀後半です。しかし、作者が日本人であり日本語で書かれた物語である都合上、みんな日本語で喋っていますが、実際は英語で喋っているという設定です。ただし、文字は英語が使われています」

「ああ、だから看板に「宿屋」とかじゃなくて「INN」って書かれていたんだ」

「そういう事です。もっとも、英語が読めなくてもこの物語の事件は解決できます。また、お二人は周囲からは、探偵アーサーと、その相棒ウィリアムとして認識されており、たとえ「先輩」「四ツ谷」と互いに呼び合っても、実際は「ウィリアム」「アーサー」と呼び合っていると認識しているので、呼び方はいつも通りで構いません。同じく周囲から自身の名前を呼ばれても、それは探偵と相棒の名前を呼んでいると認識してください。これでこの世界の基本的な事は話しましたが、何か質問はあるでしょうか」

「待ってくださいミューズ。なんだか私たちが当然のように探偵とその相棒をやる流れになっていますけれど、それを断る事はできるんですか?」

「断る必要なんてある? 四ツ谷だって、図書室で僕の怪談の話を聞いた時は、現実には起きないような殺人事件や未知の謎に挑める事にワクワクするって言ってたじゃないか」

「あれは言葉の綾です。本当に体験する事になるとは思ってませんでしたから。実際にやるとなると不安な要素が沢山あります。だって……もしその物語が探偵やその相棒が死ぬ話だったら、私たちは本当に死んでしまうんですよ。そうじゃなかったとしても、私たちの行動が犯人の行動に影響して、何かしらの危害を加えられる危険性があります」

 そこまで考えが及んでいなかった僕は四ツ谷の言葉にゾッとした。

 僕たちは今、探偵が登場する物語――殺人事件の世界にいるのだ。その重みを、全く分かってなかった。

 ミューズの話に承諾するという事は、殺人鬼に挑む事と同義なのだ。

 不安げな僕たちを、ミューズはじっと見つめ、口開く――事なく、やはりテレパシーを送ってくる。

「当然お二人は私の頼みを断る事ができますし、断った場合は元の世界に戻る事になります。また、承諾した場合でも、いつでも好きな時に元の世界に戻ることができます」

「あ、そうなんだ」

 あっさりと元の場所へと戻れる事が明らかになった。どうやら怪談と違って、本の中に幽閉される事はないようだ。

「また、この世界であなた方が危険な目に遭うことは絶対にありません。先述の通り、私たち女神は、必要以上に現世へ影響を与えないようにしています。現世からこの世界へと呼び出すだけでもだいぶ理に抵触するギリギリの行いです。その上でこの世界でその身が損なうことなど、あってはならない事です。なので、この世界でお二人は全く怪我を負わないように護られています」

 その言葉に安堵する。僕たちは読者の如く、安全地帯から悠々と物語を眺める事ができるらしい。

 けれど、ミューズの言葉を聞いても四ツ谷の不安げな表情は晴れなかった。

「わかりました。ではもう一つ。私たちがこの世界にいる間、元の世界では私たちは行方不明になっているんですか?」

「この世界は、現世とは時間と空間が隔離された関係。ここでどれだけの時を過ごしても、現世では全く時間が経っていません」

「それなら安心だ」

「先輩、気づいていないんですか? それはこの世界で過ごせば過ごすほど、私たちは現世より余分に歳をとるという事ですよ」

 そうだ。逆浦島太郎みたいになってしまう。

「そこばかりはどうしようもない問題です。すでにあなた方は数時間、余分に歳をとってしまっています。申し訳ありません」

「いや、僕は別に構わないよ」

 猫の姿だからかミューズの表情は変わらないけれど、本当に申し訳なさそうな声色に、逆にこっちの方が申し訳なく思ってしまう。これが女神の威光なんだろうか。

「すみません。私も気になっただけで、別に構いません」

「ありがとうございます、二人とも」

 もし猫の体でなければ、きっと女神の慈愛の微笑みが見れるであろう事が悔やまれる。

「なるほど。つまり私たちは元の世界に戻ろうと思えば戻れるし、そこでは時間が経っていないし、この世界で危害が及ぶ事もないから、なんの心配はしなくていいという事ですか」

 この世界で僕達の安全は完全に保証されているらしい。それならミューズの願いを聞く事も悪くないかもしれない。

「最後の質問ですが、謎を解くと言ってもその正誤判定は誰がするんですか?」

「もちろん私です。契約した時点で私の中に作者の思考が流れ込んできます。なので正解を知っているのです。また、実際に書かれなかった登場人物の裏設定なども知っているので、本来の物語の流れになかった行動や言動をさせる時は、それを参照して行います」

 話がひと段落した時、部屋の扉がノックされた。

 ベッドから腰を上げて扉を開けると、宿屋のおばちゃんが立っていた。手に持った木の盆に湯気の立つスープの器を乗せ、パンの入ったバスケット肘に下げている。

「探偵さん達、夕食ができたよ」

 部屋の中に入ってきて、机の上にスープの器を置き、パンの籠を真ん中に置く。スープからたちのぼる香りが、ミューズの話に夢中になって忘れていた空腹を刺激してきた。

「何からなにまでありがとうございます」

「なあに。探偵さんたちをおもてなしするようにベルナールの旦那からは言われてるからね。気にしなさんな。あ、食器は明日の朝回収するから、そのまま置いといてくれていいよ」

 そう言っておばちゃんは部屋から出て行った。

「私の頼みを聞いてもらえるかの答えは後回しにしてもらって構いません。どうぞ食事をしてください」

 四ツ谷がベッドから立ち上がって椅子に座る。僕も四ツ谷と向かい合う形で座った。

 木のスプーンでスープを掬い、口に含む。味はシチューに似ているけれど、とろみが無い。中に入っている肉は鶏肉に似ているけれど、味が淡白だった。

「これは何の肉なんだろう」

「時代的に恐らくウサギか……ああ、そういう事ですか」

 四ツ谷がチェストの上に鎮座するミューズの方へと振り返る。

「さっきミューズが言った言葉の意味がわかりました。ここが本の中の世界という事は、その世界で起きることは全て作者次第です。つまり、作者が時代考証を無視して好みを優先したり、誤った知識で書いてしまっても、そのまま再現されているんですね。たとえガス灯が使われていたとしても、十九世紀とは限らない、と。この肉だって作者がワニの肉を使っていると描写したら、この場所の地形や気候的にワニがいる事はあり得なくても、ワニの肉になるんですね」

「その通りです萌さん。この世界の構造は作者次第。ですから推理や考察の材料は現世の知識ではなく、この世界で得られる知識でなくてはいけません。逆に言えば、推理に必要な手がかりは全てこの世界でから与えられます」

 なるほど。何が起きてもおかしくなって事だ。

「てことは極端な話、ドラゴンや魔法が登場するミステリだったら、僕たちはドラゴンに会えるし魔法を使う事もできるの?」

「可能です。特に昨今は特殊設定ミステリが流行りなので、現実に起きえない事が起きる世界を創る事もあります」

 特殊設定ミステリ。さっきも四ツ谷が言っていた言葉だ。もちろん意味はわからない。

 こういう時、四ツ谷は僕が話を理解していない事を理解するのが早い。

「特殊設定ミステリとはミューズの言ったように、現実に起きえない事が起きる世界観で殺人事件などが起きるミステリ小説の事です。喩えば超能力がある世界で殺人事件が起きたり、幽霊がいる世界で殺人事件が起きたりとか」

「超能力や幽霊がいるなんて、なんでもありじゃないか。それじゃあ推理できないからミステリとして成り立たないよ」

 犯人がサイコキネシスで包丁を動かしたとか、幽霊が念じて心臓を止めたとか、どんな事でもできるから推理しようがない。なんならその世界に超能力がや幽霊が存在している以上、探偵の知らない超能力が使われた可能性や幽霊が殺害を行なった可能性すらある。

 けれど、四ツ谷は首を横に振る。

「そこは大丈夫です。ちゃんと犯人を特定できるような条件が存在し、その内容が提示されます。超能力は特定の条件下でしか使えないとか、使うと使用者の身体に反応があるとか。あとは幽霊は扉をすり抜ける事はできても壁をすり抜ける事ができず、対象者の五メートル以内にいないと干渉できないとか。もちろん、何かしらの方法で他に超能力者や幽霊がいないことも判明します。それらのルールを念頭に置けば、しっかり推理できるようになっています」

「なるほど。勉強になったよ」

 もっとも、今後僕が特殊設定ミステリを読む可能性は相当低いのだけれど。

 食事を終えた僕たちは再びミューズを間に挟んでベッドに腰掛けて向かい合う。

「それで、僕はミューズの頼みを受ける事に賛成なんだけれど、四ツ谷はどう?」

 尋ねると、不安げだった先ほどとは打って変わって笑みを浮かべた。

「私たちの身の安全が保障されているのならば、答えは決まっています。解かれる事なく葬り去られる謎。それを解くことを頼まれたのなら、ミステリ好きとして、探偵役を務める事はやぶさかではありません」

 本当にさっきまでとは大違いだ。いや、本来四ツ谷はクールに見えて好奇心旺盛な性格なのだ。やっと調子を取り戻したという事だ。

「君のサポートにも期待しているよ、ウィルソン君」

 もしくは、お腹がいっぱいになって気が大きくなったんだろうか。役になりきっている。

「ありがとうございます、二人とも。今は亡き作者の分まで感謝します」

 ミューズは白猫の体でぺこりと頭を下げた。

「本来の物語の流れでは、探偵たちはジェラール・ベルナールからの手紙でこの地へと呼び出され、宿で一泊し、翌朝、ベルナール家からやってきた使いの者と共にベルナール亭へと向かいます。なので、今日のところはゆっくりと休んでください」

「そうだね。色々とありすぎて疲れたし、もう寝ようか」

「そうですね。ガス灯のスイッチは……これでしょうか」

 四ツ谷が立ち上がって部屋の壁で何やらいじると、灯りが消えた。

 木々の壁に囲まれた部屋は暗くなり、窓から差し込む月明かりがぼんやりと家具の輪郭を形どっている。

 ――本当に、別世界に来たんだ。

 令和の時代では見られない幻想的な光景を前に、その実感が心に溶け込む。

「おやすみなさい、先輩」

 四ツ谷の心地よい声を耳にして、僕はゆっくりとまどろんでいった。

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