魔女屋敷の殺人 Grimore for Muse

九条英時

序章

 心地の良い静寂が辺りを包む放課後の図書室で、少女はお気に入りのファンタジー小説を読み耽っていた。

 少女の好きなそのファンタジー小説のシリーズは、一冊が二千円を超える単行本であり、女子高生にとっては少々値が張る物だった。なのでこうして図書室の本棚に加わることを心待ちにし、懇意にしている司書教諭からその本がやってきたと聞くと、本日の授業が終わるなりカバンを引っ掴んで図書室に訪れ、家に帰るのももどかしく図書室の机に座って表紙を開いたのだ。

 やがて窓の外から西陽が差し込んできた事に気がつき、下校の時刻が迫ってきた事を察する。

 少女は本を手にしたまま鞄を肩にかけると、二宮金次郎の如く読書に没頭しながら昇降口へと向かった。

 数十分後、東階段で足を滑らせて転落し、頭を強打して亡くなった少女の遺体が発見された。

 その少女のことは、彼女の事を知る者たちが卒業して行くにつれ、忘れ去られていった。

 しかしここ最近、東階段でその少女の亡霊の目撃証言が多発している。

 その理由は、歩きスマホの増加。

 つい先日も、東階段で歩きスマホをしていた生徒が足を滑らせて転落したらしい。その時、少女の幽霊を見たという。

 本を読みながら亡くなった少女の亡霊が、自分と同じように不注意で足を滑らすであろう生徒達の前に現れるのだ。

 その目的は、自分の二の舞にならないよう注意を促すためか。

 或いは、自分の仲間を増やすためか。

 

「――と言うのが、ここ最近話題になっている怪談、「東階段の少女」なんだ。ははっ。怪談と階段がかかってオシャレだろ?」

「相変わらず先輩のセンスには脱帽です」

 読んでいる本から顔を上げずに褒め言葉を投げかける四ツ谷よつやもえに対し、隣に座る僕はつい照れくさくなって頭の裏を掻く。四ツ谷は本から顔をあげて僕を見ると、「はあ……」と溜め息をついた。

「ところで先輩」

 栞を挟んで読みかけの本を閉じ、ふわふわとした髪を掻き上げる。

「この学校の図書室は校舎の西側にありますよね」

「うん」

「そして昇降口は中央にありますよね」

「そうだね」

 僕と四ツ谷は通う東秦衣ひがしはたえ高校は、横長のオーソドックスな形をしていて、中央に昇降口が、三階の西側に図書室がある。ちなみに僕と四ツ谷がいるのも、その図書室だ。僕たちは図書委員として放課後の図書室でカウンターの内側で、貸し出し処理や返却された本の整理をしていたのだ。

「どうして西側にある図書室から帰ろうとして昇降口に向かおうとしたはずなのに、東階段を通るんですか」

「……あ、ほんとだ!」

 四ツ谷に指摘されるまで気がつかなかった。ドヤ顔で西陽が云々とか言っていたのに。

「さすがは四ツ谷。ミステリ小説が好きなだけあって鋭いね」

「いえ、そもそも私たち、図書委員の仕事が終わったら西階段を使って下校しているじゃないですか。むしろ先輩はなんで気づかなかったんですか」

 言われてみればそうだ。

 この後輩が鋭いのではなく、僕が鈍いだけだった。

「幽霊がいないとは言いませんが、場所がおかしい以上、その怪談を最初に語った人は東階段での歩きスマホの事故と、たまたま知ってた過去の転落事故を繋ぎ合わせて創作したんじゃないですか?」

「うーん、そうだったのか……」

 ガックリと肩を落とす。今度こそ四ツ谷を怖がらせられる怪談を仕入れたと思ったのに。

 今更だけど自己紹介をしておこう。

 僕の名前は三笠みかさ六月むつき。東秦衣高校に通う二年生の男子だ。

 名前の由来だけれど、僕の両親は我が子に、生まれた月の祝日を名前をつけるという法則で命名している。僕の姉は五月生まれなので「みどり」だし、兄は四月生まれなので「昭」だ。

 けれどそんな両親を困らせたのが、六月生まれの僕だった。ご存知の通り六月には休日が無い。祝日の名前をつけようがなかったのだ。

 この際そんな命名法則は止めればいいと思うのだけれど、頑固で融通の効かない警察官である父と、法則から例外を認める事は許さない数学教師の母は、命名法則を変えるなどという発想が微塵も無く、苦渋の選択で六月という名前そのものを僕につけた。

 そもそも最初にその命名法則を考えた時、祝日の無い六月や、スポーツの日しか祝日の無い十月に生まれたらどうするつもりだったのか、もっと言えば祝日が一日にしかない月に二人以上子供が生まれたらどうするつもりだったのか。我が両親、計画性が無さすぎる。

 名は体を表すと言う言葉の通り、六月という梅雨でジメジメとした月の名前をつけられた僕は、趣味はカードゲームと怪談蒐めという、我ながらなんとも根暗な趣味の人間になってしまった。

 まあカードゲームは一人ではできないし、怪談蒐めも人から噺を聞き出す必要があるので、コミュニケーション能力自体は人並みにはある。つもりだ。

 そして僕の隣で本のページをめくっているのは、四ツ谷萌。東秦衣高校に通う一年生の少女で、僕と同じく図書委員をしている。

 四ツ谷とは中学の頃に出会った。その時も今と同じく、僕も四ツ谷も図書委員だった。

 ミステリ小説が好きだからという理由で図書委員になった四ツ谷と、図書室の外に持ち出せない漫画本を読み放題だからという理由で図書委員になった僕は、当初は委員の仕事の為の必要最低限の会話しかしていなかったけれど、妙な巡り合わせからよく一緒に貸し出しの仕事を組む事になった結果、幾らか言葉を交わすまでになり、こうして高校で再会した後も図書委員として中学生の頃のように肩を並べている。

 そして僕は中学生の頃から、この現実主義でクールな後輩を、怪談噺で怖がらせる事を目標としていた。今の所、達成はしていない。

「次の怪談は『音楽室の肖像画』。放課後に音楽室で「エリーゼのために」を弾くと、壁にかかったモナリザの肖像画が動いて背後から襲ってくるんだ」

「どうして音楽家でもないモナリザの肖像画が音楽室にかかっているんですか」

「……ほんとだ。なんでだろう、怖い!」

「そういう怖い話なんですか?」

 四ツ谷が呆れながら腕時計に視線を落とす。スマホがあるので腕時計は必要ないと思うだけれど、彼女は何やら腕時計に拘りがあるらしく、高校に入った頃からずっと着け続けている。以前、なぜ腕時計に拘るのか聞いたことがあるけれど、急に不機嫌になって教えてくれなかった。

 僕もスマホで時間を確認する。デジタル時計は十七時半を示していた。そろそろ下校の時間だ。気がつけば図書室には僕と四ツ谷しかいなかった。

 数ヶ月前はこの時間になるとすっかり暗くなっていたけれど、春になり、日が落ちる時間は遅くなった。それでも年頃の女の子である四ツ谷をこの時間に一人で帰らせる事は、僕の中の紳士的精神に反する。

「四ツ谷、ちょっと遅くなったし家まで送ってくよ」

 僕の提案に、後輩は大きな瞳を丸くする。

「あの朴念仁の先輩が女子に気遣いを……一年間会わないうちに、随分と変わりましたね」

「……」

 そんなに気遣いのできない男だっただろうか、中学生の僕は。

 春とはいえ夕暮れの季節はまだ肌寒い。四ツ谷は椅子にかけていた桜色のカーディガンに袖を通し、ボタンを閉めていく。

 中学生の頃から薄々と思っていたけれど、四ツ谷は、背は低いのに胸は大きい。

 中学二年生の頃でもその膨らみは制服の下から主張していたのに、高校生になって再会した時には目を見張るほどの大きさになっていた。そんな巨峰の下でボタンを留める仕草に思わず見入ってしまう。

「先輩」

「え?」

「視線、気づいていますからね」

 胸から視線を上げると、ジトーっと冷たい視線で見上げてきた。咳払いをして誤魔化そうと試みるも、たぶん手遅れだろう。

「はあ……こう所は変わらないんですね」

「もしかして中学の頃から気づいてた?」

「先輩はわかりやす過ぎるんです」

 呆れたように溜め息をつく。果たして今日何度彼女に溜め息をつかせただろう。

 情けなくなって四ツ谷から目を逸らし、カウンターの上に置きっぱなしになった漫画本に視線を落とす。

 そして、ふと思い出した話を口にする。

「そういえば図書室に纏わる怪談があるんだけれど」

「話題の逸らし方があからさまですね」

 冷たい視線はなかなか戻らない。強引に話を続ける。

「ほら、この図書室に置いてある漫画本には全部「禁帯出」のシールが貼ってあるでしょ。けれど、漫画本以外にもこのシールが貼ってある本があるんだ」

「そうなんですか?」

 可愛らしく小首をかしげる。どうやら彼女の興味を引く事に成功したらしい。

「漫画本以外の禁帯出の本というと、辞書の類ですか。あ、その顔は「そういえばそっちもあった」という顔ですね。察するに禁帯出のシールが貼られた本の怪談だから漫画本を引き合いに出したけれど、それ以外にも禁帯出の本があったのでバツが悪くなったんですね」

 せっかく四ツ谷の興味を引いたのに、バツが悪いことを見抜かれて二重にバツが悪い。バツが悪いと×が更に悪くなって××なんだろうか。それが二重だから××××。三笠六月が××××。禁句みたいでかっこいいかもしれない。

「それで、どんな話なんですか? その禁帯出の本とやらは」

「なんでも、その本は作者不詳のミステリ小説らしいんだ」

「へえ、ミステリ小説」

 ミステリ好きの四ツ谷が目の色を変える。掴みはバッチリだ。

「とあるミステリ作家が作品を執筆中に急死してしまったらしいんだ。いよいよ探偵が謎を解くという重大なシーンでね。かくしてその小説の事件の謎は、誰にも解かれる事のないままになってしまったんだ」

「それは……さぞや無念でしょうね。ミステリ作家にとって謎を解く探偵の活躍は、書いていて一番楽しい時でしょうから」

「その通り。そしてその作者の無念が形となったのが、禁帯出の本。それは何も書かれていない、中身が白紙の本なんだ。図書室の机に、いつの間にか置かれたその本を手に取った者を、本の中の世界に取り込んで、自分の作った謎を解いてもらう。そして本の中に取り込まれた人間の体験によって、白紙の本を綴っていく事になる。その世界から脱出する方法はただ一つ。事件の謎を解いて、未完の本を完成させる事――これが、この図書室に伝わる怪談だよ」

「なるほど……自分の作った謎を解いてもらう為に本の中に取り込む。本当の話なら私も体験してみたいですね」

「あれ、怖くはないの?」

 真摯に聞いていたから怖がるかと思っていたけれど、拍子抜けした。謎が解けない限り、永久に本の中に閉じ込められる。怖い話のはずなんだけれど。

「だって、現実世界では起きようのないミステリ小説の事件に挑める。しかも、未完という事は世界で誰も挑戦した事のない謎に挑戦できるんですよ。ワクワクしませんか?」

「しないなあ……」

 目を爛々と輝かせて熱弁される。どうやらミステリ好きのこの後輩にとっては、謎を解かないといけない。ではなく、謎に挑むことができる。というご褒美らしい。

「僕は本の世界に取り込まれるなんて堪ったものじゃないよ。だから変な本に出会う前に、早く帰ろうか」

 四ツ谷のおっぱいに見惚れた事と、怪談噺をした事で時間が経ち、窓の外は更に薄暗くなっていた。

 漫画本を手にして棚に戻す。そして図書室内の見回りをする。図書室利用者の忘れ物や、本棚に戻されていない本を見つけるためだ。

 机の上だけでなく机の下、椅子の上、更には本棚に並んだ本の上に横向きに本が押し込まれている事まであるので、それらをチェックする。案の定、机の上に本が置きっぱなしになっていたので、本棚に戻すために手に取る。

 その本を手に取って裏返した途端、僕の心臓がドクンと跳ねる。

 最初、その本は裏表紙を上にして置かれていると思っていた。

 なぜなら、そこには何も書かれていなかったから。裏返したら表紙が現れると思ったから。

 けれど、表紙にあたるはずのそこには、装飾はおろかタイトルも無い。

 真っ白な本だったのだ。

「どうしたんですか、先輩」

 後ろからひょこっと首をつき出して四ツ谷が僕の手元にある本を覗き込む。

「四ツ谷、これ……」

 手にした本を傾けて、背表紙を見せる。

 タイトルは無い。

 あるのは、「禁帯出」のシールだけ。

 四ツ谷が目を丸くして僕の顔をまじまじと見る。

「せ、先輩これ……」

「これは、さっき話した怪談の……」

「もしかして私を怖がらせる為に、わざわざ作ったんですか?」

「違うよ! そんな事しないって!」

 強く否定するけれど、四ツ谷は全く信じていない。クスクスと笑いながら僕の持った本を手に取る。

「四ツ谷、僕がこんなイタズラの為に、わざわざ製本所でこの本を作ったと本気で思ってるの?」

「そこまでする必要はありませんよ。真っ白な紙でカバーを作って市販の本に被せただけでしょう? どうせ本を捲れば普通に本のページが――」

 本の表紙を捲った四ツ谷の言葉が止まる。

 そこにあったページは、正真正銘真っ白だったのだから。

「そんなはず……」

 声に焦りを滲ませながら、ページを捲っていく。けれど、どのページにも何も書かれていない。

 雪原のように真っ白なページの連なりだった。

「四ツ谷、まずいよ。やっぱりこれはさっきの怪談の……」

 怯えた声を出しながら四ツ谷の服の袖を引っ張った時。

 

 ――報われない謎を、解いてください。

 

 僕たちしかいないはずの図書室に、女性の声が響いた。

 部屋中に響き渡るような、凛とした。

 それでいて、心に染み渡るような澄んだ声が。

「今の声は、四ツ谷が……?」

 訊ねておきながら、心の中で違うと否定する。四ツ谷の声はもっとコロコロとした幼いものだ。こんな大人びた声じゃない。

 やはり四ツ谷は僕を見て首を横に振る。その表情は、心なしか青ざめている。

 そして、僕の目は四ツ谷の顔から、彼女の持つ本へと吸い寄せられていた。

 本が、青白く発光していたから。

「四ツ谷、本が……」

 僕の声に四ツ谷は本に視線を落とし、目を見開いて口元に手を当てる。

「なに、これ……なにが起きて……」

 よくない事が起きている。そう察知して本をはたき落とそうとして手を伸ばす。

 その直後、僕の視界は真っ白な光に包まれてなにも見えなくなった。

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