第三章

 食堂の扉を開ける。

 そこは縦長の部屋で、中央にはこれまた縦長の机が置いてあり、その上には湯気をたてる食事が置かれていた。ステーキにサラダ、スープにパン。それを見てお腹の虫が鳴きそうになる。

「モエさん、ムツキさん」

 先に着席していたコレットが手を振る。彼女の隣にはクリスが座っていた。こうして二人並んでいる所を見ると、兄妹といえど双子なだけにやはり似ている。

「私の隣の席にどうぞ」

「それじゃあ……」

 そう言って僕がコレットの隣に座ろうとすると、割り込んできた四ツ谷がコレットの隣に座った。仕方なく僕は四ツ谷の隣に座る。

 食堂にいるのは僕と四ツ谷とコレットとクリス、そして向かいには見知らぬ男性が一人。

 歳は四十歳くらいだろう。肩幅が広くて筋肉質なので、着ているジャケットがパンパンに膨れている。短髪で立派な顎鬚を生やしており、豪快な印象を受ける。

「あんた達が、兄貴が呼んだ探偵さん達か。俺はエリオット・ベルナール。兄――ジェラールの弟だ」

「初めまして。探偵の四ツ谷萌です」

「その相棒の三笠六月です。あと、部屋には飼い猫のミューズもいます」

 僕たちが自己紹介をすると、エリオットさんはガハハハと笑った。

「猫連れの探偵とは珍しい。うちの飼い犬のバレットには気をつけな。あいつは猫を見つけると一目散に駆けていくんだ」

「ええ、それは館に着いてすぐ思い知りました」

 バレットからスタコラと逃げ出すミューズの姿は脳裏に新しい。

「しかし、呪いなんかを信じて探偵を呼ぶなんで、兄貴も仕方のない人だ」

「エリオットさんは呪いを信じていないんですか? アルマさんの話だと、三十年前の事件はあなたも体験したと聞いたんですけれど」

 探偵四ツ谷の問いに、エリオットさんは鼻で笑って返した。

「体験したさ。けれどあんなものは逆恨みをしたイカれた奴の起こした、ただの殺人事件だよ。呪いだなんてバカバカしい。兄貴にどうしてもと懇願されてるから毎年の祈りには参加してるが、正直迷惑だとすら思ってるよ」

 豪放磊落とした見かけ通り、呪いを笑いとばす。事件を経験したのにそれを信じないとは豪胆なのか、愚かなのか。

「呪い、か。本当になければ、どんなにいいか」

「クリス。君もいい歳だろう。呪いなんか子供騙しだとわかるはずだ」

 そう言ってガハハ。と笑う。笑うも、目が笑っていない事に気がついた。

 もしかしたらエリオットさんは、本当は信じているんじゃないだろうか。けれど、クリスに――或いはコレットにも――不安を与えないように、こうして笑い飛ばしているんじゃないだろうか。

 食堂の扉が開き、ベルナールさんと、アルマさんの車椅子を押すアンディさんが入ってきた。

「すまない、待たせたな」

 ベルナールさんが椅子に座り、その隣の椅子にアンディさんの手を借りてアルマさんが車椅子から移る。

 車椅子を押したアンディさんが食堂から出ると「それでは」と言ってベルナールさんが立ち上がる。

「皆。明日はとうとう三十年周期で起きる魔女の呪いの日だ。もしかしたら我々の祈りが叶い、今度こそ惨劇が起きないかもしれない。だが念を入れて探偵さんとその相棒を呼んでおいた。かの有名なモエ・ヨツヤ探偵だ」

 そう紹介され、四ツ谷は満更でもなさそうに背を逸らして豊かな胸を揺らした。

「たとえ殺人事件が起きても三十年前のような事にはならないだろう。それでは、モエさんと相棒のムツキさんへの歓迎の意を込めて」

 乾杯。の声に合わせて僕たちはグラスを掲げた。

 グラスに入った赤い液体に口をつける。葡萄ジュースだと思っていたけれど、中身はワインだった。

「あの、僕は未成年なんですけれど」

 そう訴えると、エリオットさんがガハハと笑った。

「ムツキ君は冗談が上手いな。どう見ても三十前後のガタイのいい青年が未成年なわけないだろう」

 そういえば彼らからは僕の事はそう認識されているんだった。実際の僕は十代後半のヒョロヒョロとした少年なのに。

「どうしよう、四ツ谷」

「大丈夫じゃないですか? ミューズは私たちがダメージを負うことはないって言ってましたし、お酒を飲んでも体調を崩すことはありませんよ」

 見るからに未成年な小柄な少女は、ワインをぐいっと煽る。

「なので酔うこともありません」

「おお、さすがは世に名を馳せる探偵。いい飲みっぷりじゃないか」

 世に名を馳せる探偵である事といい飲みっぷりをする事にどのような因果関係があるのかは皆目見当もつかないけれど、エリオットさんに気に入られたらしい。

「モエ君、もっと飲むかい?」

「エリオット叔父様、モエさん達は探偵のお仕事でいらしたのですよ。酒を勧めるのはよしたほうがいいですわ」

「コレットさんの言う通りです。乾杯以外のお酒は遠慮しておきます」

「むう……仕方ない」

 無念そうにし、手酌で自分のグラスにワインを注ぐ。

 静粛な雰囲気の中で食事は進んだ。さすがは上流家庭。マナーがなっているのか食事中にぺちゃくちゃと会話が交わされる事はない。発された言葉といえば僕がナイフとフォークの正しい持ち方を知らずに、四ツ谷に持つ手が逆ですと注意された事くらいだった。

 食事が終わると、「皆、この後は談話室で過ごそうじゃないか」というジェラールさんの誘いによって、僕たちはみんなで一階の談話室に行く事になった。

 談話室は娯楽室も兼ねているようで、広い机を囲むようにソファが配置されている他、本棚にはたくさんの書物が詰まっていて、部屋の角にはビリヤード台が置かれていた。

「クリス、久々にどうだ」

 エリオットさんがビリヤードのキューを持つと、クリスは「いいですね」と言って別のキューを手に取る。

 ジェラールさんとアルマさん、コレットはソファに座ってトランプでポーカーを始めた。僕たちもその輪に加わってポーカーをプレイする。チップの代わりとして各人に用意されたナッツを賭ける。

「なんだか、随分とみんな呑気だね。明日には誰かが殺されるのに」

 隣に座る四ツ谷に小声で話しかける。

「だからこそじゃないですか? ここにいる誰かは明日には殺されてしまうんです。もしかしたら夜中に殺されて朝目覚める事すらないかもしれません。だからこれは、最期の時間を楽しく過ごすという意味合いがあるのかもしれません」

 四ツ谷の言葉に納得する。と同時に、楽しくビリヤードをするエリオットさんとクリス、ポーカーを嗜むジェラールさんとコレット。その姿が不安を無理やり押し殺した虚勢に見えてならない。或いは、諦観かだろうか。どうにもならない運命に全てを投げ出し、諦めた姿。

 しばらくそうして過ごしていると、扉を開けて赤毛のメイドがワゴンを押して部屋に入ってきた。

「夜食のサンドウィッチとお飲み物を用意しました」

「ありがとうセイラ。ああ、探偵さん達。彼女は料理人のセイラだ」

 セイラさんはユリウスさんより少し歳が下だろうか。赤毛を三つ編みにし、穏やかな微笑を浮かべた、誠実そうな人だった。

「ベルナール家料理人のセイラです。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる女性に、僕と四ツ谷は自己紹介をした。

「ああ、セイラ」

 部屋を出て行こうとするセイラさんにエリオットさんが声をかける。

「俺はもう部屋に戻って書類の整理をしてから寝るから、三十分後くらいに水差しを持ってきてくれないか」

「かしこまりました」

 そう言ってエリオットさんに一礼すると、今度こそ部屋を出ていった。

「さて、俺は部屋に戻るよ兄貴」

「ああ。おやすみ、エリオット」

 ジェラールさんとエリオットさんはじっと見つめ合う。兄弟の間でしか通じないメッセージを互いの視線に込めて交わしているのだろうか。あるいは、今生の別れになるかもしれないと思い、かける言葉を探しているのか。

 やがてエリオットさんは部屋から出て行った。

「ビリヤードの相手がいなくなっちゃったな。ムツキさん、一戦どうですか?」

「いや、僕はビリヤードは不得手で」

 不得手どころかやった事すらない。

「そうか……そうだ」

 クリスは棚からチェス盤と駒の入った箱を取り出す。

「モエさん、僕と一局勝負しませんか? 探偵さんの頭脳がどれほどのものなのか僕に見せてください」

「あら、いいわね。クリスはチェスの名手なのよ。私やジェラールでも勝てないくらいなの。モエさんのいい相手になるわ」

 アルマさんが息子の自慢話をすると、四ツ谷が微笑を浮かべる。

「いいですよ、お相手しましょう」

「四ツ谷、大丈夫なの? もし負けたら探偵の信用を損なうよ」

「ミステリ界隈では当たり前の事柄ですが、チェスは頭脳ではなく注意力の勝負ですよ。集中力さえ切らなければ問題ありません」

 そう言ってクリスと向き合い、駒を並べていく。アルマさんとジェラールさんは興味津々で二人の対局を観戦しようとしている。

 僕はというと、チェスのルールを知らないので、手持ち無沙汰になった。

 窓辺に立って外を眺める。

 夜空には雲が漂っているけれど、雲の切れ間からは月が覗いている。細い三日月は、まるで呪いに翻弄されるベルナール家を嘲笑っているように見えるのは僕の勝手な思い込みなのだろう。

「もうすぐ雨が降りそうですわね」

 いつの間にか隣に立っていたコレットが声をかけてきた。距離が近くて心臓が跳ねる。

「そうですわ。ムツキさん。雨が降る前にバレットの散歩に行こうと思いますの。ご一緒しませんか?」

「是非お供します!」

 月夜の下でコレットとデートできる事に浮き足立った僕は食い気味に了承し、二人で談話室を出た。四ツ谷はというとこちらをチラリと見て睨んでくるも、チェス盤に顔を戻す。集中力を切らさないようにしているのだろう。

「バレット、散歩に行きますわ」

 広間でくつろいでいるバレットがコレットの元に駆けてくる。僕たちは玄関の扉を開けて外に出た。

 街灯のない時代の夜。明かりは月が照らす光のみ。現代文明に慣れ親しんだ僕からは非日常的であり、そんな幻想的な雰囲気の元で妖精のように美しい金髪の少女と肩を並べて歩いているのだから、夢見心地な気分になるというもの。まあ本の中の世界だから夢とあまり変わらなのだけれど。

 門を出てバレットの歩くままに任せて後をついていく。月に薄く雲がかかり、辺りが薄暗くなる。

「スマホのライトが使えれば、明るくなるんだけどなあ」

 使えなくなったスマホを取り出してぼやくと、コレットが僕の隣から覗き込む。

「あら、それはなんですの?」

「えっと、電気の力で当たりを照らせる道具だよ」

「探偵さんの相棒ともなると、不思議な道具を使いますのね」

 感心したようにコレットは頷く。

「電気の力というと、オランダで研究されているエレクトロニクスというものですの?」

「そうそれ」

 よく知らないけれど、エレキみたいな言葉だし、電気で間違い無いだろう。

「実はクリスもエレクトロニクスに興味を持っていますわ」

「クリスも?」

 魔女の書物にも興味を抱いていたし、彼は研究者肌なんだろうか。

「クリスは小さい頃から体が弱くて、部屋で本ばかり読んでいるんですの。生まれた時は死産だと思われていたらしいですわ」

 何となく、腑に落ちる気がした。クリスの持つ、あの独特の透明な雰囲気。あれは一度三途の川の向こう、浄土を経験してきたからなのかもしれない。

「そのクリスですが、スイスのオートマタと組み合わせて、電気の力で動く人形を開発しようとしていますの。ただ、文献を取り寄せたもののオランダ語がわからなくて悪戦苦闘しているみたいですわ。私の屋敷にいる人間は英語と母国の言葉しか読み書きできないから、誰もオランダ語がわからなくて翻訳できませんの」

「電気じかけの人形……ロボットができるわけか」

「ロボット?」

 コレットが可愛らしく首を傾げるも、なんと説明したものか悩む。

 ふと視界の端に麦が生えているのが見えたので、話題を逸らす材料にする。

「麦が自生してるんだ。畑でもないのに珍しい」

「ええ。この辺りにはあちこちに麦が自生していますの。ムツキさん、知ってらして? 麦の茎って空洞になっていますの。満月の夜には妖精さん達が麦の茎をストローにして、湖の水を飲むという言い伝えがありますわ」

 ただの御伽噺だろう。けれど月光の下で金色の髪を輝かす妖精のようなコレットが語ると、本当の話に聞こえてしまう。

「ふふっ。現実主義の探偵さんの相棒には、こんな御伽噺はつまらないですわね」 

「そんな事ないよ。そういえばコレットは探偵の話が好きなんだっけ」

 その言葉にコレットは目を輝かせた。

「ええ、ええ! 大好きですわ。謎に満ち混沌とした状況を、推理の力によって光を照らす。腕力はなくても頭脳の力で戦うヒーロー。それが探偵ですの。そしてそれを支える頼れる相棒。互いを信頼し事件に立ち向かう二人の姿は眩しくて、私の愛してやまない物語ですわ」

 えらく力舌している。本当に好きらしい。

「ところで、ムツキさんとモエさんは恋人同士ですの?」

「えっ」

 急にそんな事を言われて言葉に詰まる。コレットが僕に顔を近づけた時以上に心臓の鼓動が跳ね上がる事がわかる。

 僕と四ツ谷が恋人同士? そんな事はない。僕たちは先輩後輩の関係。それだけだ。そのはずだ。

 ただ、四ツ谷と一緒にいると心安らぐし四ツ谷が笑顔を見せると嬉しいし四ツ谷が不安そうな顔をしていると僕まで悲しくなるし四ツ谷がいなかった高校一年生の頃が胸に穴が空いたかのように寂しかったけれど。

「僕と四ツ谷は探偵と相棒。それだけだよ」

「残念ですわ。お二人はお似合いのカップルだと思ったんですけれど」

「そ、そっか。お似合いか」

 そう言われて思わず口元がニヤけてしまう事が自分でもわかる。僕は四ツ谷とお似合いと言われて喜んでいるのだろうか。自分でも自分の気持ちがよくわからない。

「ですので、期待していますわ。モエさんにも、ムツキさんにも。二人でこの屋敷で起きる事件を解決してくれる、事、を……」

 コレットが突然言葉に詰まって立ち止まる。バレットが不安そうに鳴いてコレットの足に縋り付く。

「コレット?」

 おずおずと声をかけると、コレットが突然僕の胸に飛び込んできた。

「ムツキさん……私、死にたくないですわ!」

 悲痛な声と共に、涙を流す。

「どうして、どうして! 私は何も悪いことはしていません……それなのにどうして! 魔女の呪いなんてわけのわからないものに怯えなければいけませんの! どうして、私たちは殺されなければなりませんの! 私、死にたくない……お父様にもお兄様にも、エリオット叔父様にも、死んでほしくない……どうして、こんな目に……」

「コレット……」

 僕の服を掴み、胸に顔を押し付けながら訴えてくる彼女の頭に、手を乗せる。

 どうして、彼女は死ななければいけないのか……それは、そういう設定の物語だから。

 この世界が、推理小説の世界だから。

 小説の登場人物というのはそういうものなのだ。作者によって物語の都合で殺されてしまう。

 時にトリックのために首を刈られて。

 時に怪異を引き立てる犠牲者として。

 泣きじゃくるコレットを見ていると、ミステリにしろホラーにしろ、作者というのは罪深い存在に思えてくる。

 作者は、登場人物の名前を、容姿を、趣味を、特技を、好きなものを、嫌いなものを考え、その上で殺す。

 殺すためだけに生み出す。

 それが作者。

 殺されるためだけに生み出される。

 それがコレット達。

 読者の娯楽という名の生贄に差し出されてしまうコレットの悲痛が、僕の心を揺さぶる。

 怪談噺を無邪気に喜んでいた僕もまた、罪深い存在なのではないだろうか。

「すみません……はしたない姿をお見せしてしまいました」

 僕の胸から顔を離すと、涙を拭う。

「ううん……僕の胸でよければ、いくらでも貸すよ」

「ふふっ。ムツキさんは優しのですね。ねえムツキさん。もし私が生き残って無事に帰る事ができたら、いつかモエさんとムツキさんの探偵事務所に遊びに行ってもよろしいですか?」

「それは……」

 僕たちは事件を解決できたら、元の世界に帰るだろう。もうコレットと会うことはない。

 でも。

「うん。いつでも来なよ。楽しみにしてるよ」

 嘘も方便。不安に駆られるコレットを安心させるためなら嘘だってつく。

「楽しみにしてますわ。それじゃあ、そろそろ屋敷に戻りましょうか。バレット、帰りますわ」

 コレットが声をかけると、バレットは屋敷へと引き返していく。

 玄関の扉を開けると、広間をセイラさんが横切るところだった。手に持った盆には水差しとコップが置かれている。

「あら、セイラ。その水差しはエリオット叔父様の?」

「はい。今から届けるところです。あ、ムツキ様」

「うん?」

「エリオット様にお水を届けた後にお話ししたい事があるので、ついてきてもらってもよろしいですか?」

「いいけれど……」

 ほぼ初対面の料理人が話したいこと。一体なんだろう。

「では、私はお父様達の所に戻りますわ」

 コレットさんは僕の顔を覗き込むように近づける。

「ムツキさん。約束、忘れないでくださいね?」

 そう言って微笑むと、踵を返して談話室に入っていった。

 コレットが探偵事務所に来るという、果たされる事のない約束。

 罪悪感が僕の心を苛ます。

 せめて、彼女が殺されませんように。

「ムツキ様?」

 セイラさんに声をかけられて「うん」と返事をし、エリオットさんの部屋へと向かう彼女についていく。

「エリオット様」

 料理人が扉をノックすると、部屋の中から「おお。入ってくれ」と声がかかる。

 扉を開けると、セイラさんの肩越しに書類を手に机に向かっているエリオットさんがいた。

「すまんなセイラ……と、ムツキ君じゃないか。どうしたんだ」

「私がお話があるので付き合ってもらっているのです。エリオット様、こちらをどうぞ」

 そう言って机の上に水差しとコップを置くと、エリオットさんは鞄から親指の爪ほどの大きさの包みを取り出し、開いて中の白い粉を口に含み、コップに水を注いで飲み干す。

「エリオットさん、その薬は?」

「ただの睡眠薬だよ。これがないと眠れなくてな」

 そう言ってさらにコルクのようなものを取り出して耳に詰める。完全に安眠する気だ。夜中のうちに自分が殺されるかもしれないのに、無防備なのではないのかと思ってしまう。

「それじゃあおやすみ、セイラ。ムツキ君」

「おやすみなさいませ、エリオット様」

「おやすみ、エリオットさん」

 生きて、また会いましょう。

 僕は心の中でそう呟いた。

 エリオットさんの部屋を出ると、ガチャン。と鍵をかける音がした。どうやらちゃんんと用心はしているらしい。

 無言のまま歩みを進めるセイラさんについていく。廊下の奥までやってくると、急にセイラさんが振り返った。

「セイラさん、話って……うおっ!」

 彼女はは急に僕の胸ぐらを掴むと、壁に押し付けてくる。

 先ほどまでの誠実そうな顔はどこにもなく、睨め付けるような憤怒の表情をしている。

「おいアンタ、コレット様に不埒な事をしてねぇだろうな?」

「ぐっ……苦し……」

 くはなかった。襟を締め上げれているのに。

 ミューズの言った通り、この世界で僕がダメージを負うことはないから。

 苦しくはないけれど、セイラさんの豹変に混乱していた。声色もさっきまでの穏やかなものではなく、相手を萎縮する低音ボイスになっている。

「なあ、コレット様に手ぇ出してねぇだろうな? 答えろよ」

「何もしてません。ただ一緒にバレットの散歩をしただけです」

 鋭い目で舐め回すように僕を観察してくる。やがて、僕が嘘を言っていないと判断したんだろう。

「そうか。ならいいんだ。さっきも意味深に約束とかなんとか言ってたから、邪推しちまったよ。悪かったな」

 手を離す。微塵も悪いと思っていない謝罪に腹立つ気持ちにもなれず、ただただ恐怖が勝っていた。

「あの、セイラさん。いったいこれはどういう……」

「だから悪かったって。コレット様に悪い虫がつくんじゃないかと思って先走っちまったよ。すまなかった」

 紙タバコを取り出して咥えると、マッチを擦って火をつける。

 健康の面でタバコの煙は嫌悪しているけれど、アルコールが僕たちに害をなさないように、副流煙も僕に害をなさないだろうから我慢する。

「詫びの印だ。やるよ」

 僕の胸ポケットにタバコの箱を突っ込んできた。普段ならつっかえすけれど、今のセイラさんに反抗するのが怖くてそのまま受け取る。

「あの、セイラさん」

「ん?」

 僕はこの状況を理解するための質問を色々と考えた末。

「セイラさんってコレットさんの事が好きなんですか?」

 そう尋ねた。

「なっ、ななななな」

 反応はすぐに現れた。目を見開いて赤毛に負けないくらい顔を真っ赤にする。

「なっ何を言ってんだアンタ! アタシがコレット様の事を好きだなんて、そそそそんな畏れ多い事が」

 動揺の擬人化のような反応が実にわかりやすかった。要するに愛する人の心配と、嫉妬した末の行動だったわけだ。

「そこまでわかりやすい反応をしておいて否定は無理がありますよ」

「あー、クソッ」

 メイド服のエプロンに手を突っ込むと、懐中時計のようなものを取り出した。しかし蓋を開くと穴が空いている。そこにタバコの灰を落とした。この時代でも携帯灰皿は存在しているらしい。

「コレット様はアタシの恩人だよ。好きとかそういうんじゃなくて、感謝してるし尊敬してるんだ。勘違いすんなよ」

 そう言ってギロリと睨んでくるも、まだ顔が赤いせいか「勘違いすんなよ」の言葉がツンデレのテンプレセリフに聞こえてしまう。

「感謝と尊敬、ですか」

「初対面の奴に話す事じゃないんだがなあ」

 赤毛をガリガリと掻く。

「普段は頑張って上品に振る舞ってるけど、素のアタシは見ての通り品性が無ぇ。しゃーないわな。アタシは貧民街の生まれだ。親の顔は知らねぇし、名前すら無かった。物心ついた時には残飯漁って飢えを凌いでたし、泥棒やスリもした。処女なんざ生理が来る前に失ったし、男のナニはそこらの娼婦より咥えてきた。ま、この国なら珍しい事じゃあねぇけどな」

「しょっ……」

 その単語に思わず顔が赤くなるも、その壮絶な生まれに、今度は青ざめてしまう。

 これが珍しい事じゃ無いって?

 どうなってるんだ。この国は。

「アタシは歴史とか国家とか政治とか難しい事はわかんねぇ。なんで自分がこんな目に遭ってるのか考えたこともねぇ。ただその日の飢えを凌ぐのに精一杯だった。そんな中、泥棒のために貧民街から出た時に見たんだよ。コレット様を」

 ふーっと、紫煙を吐き出す。

「自分の歳もわかんねえから正確にいくつの頃かわかんぇえけど、多分十歳は過ぎてたかな。コレット様が七歳の時だ。街中にジェラール様とクリス様と一緒に買い物に来てたんだ。コレット様を一目見た時、衝撃が走ったよ。あんな人形のような女の子がいるんだって。思わず見惚れちまった。それに比べてアタシはどうだ? ボサボサのくすんだ赤毛にボロボロの衣服。傷だらけの汚ねぇ肌。衝撃の次にやってきたのは、狂おしいほどの羨望と嫉妬だよ。あの子に比べてアタシはなんて惨めなんだろうなって。だから、気がついたら一人になったコレット様を攫ってた。路地裏に連れ込んでな。そして激情のままに喚いたんだよ。どうしてお前はそんなに綺麗なんだ。どうしてアタシはこんなに汚いんだ。どうしてお前はそんなに幸せなんだ。どうしてアタシはこんなに不幸なんだって。笑えるだろ。年下の、それも七歳の少女に、泣きながら不平不満を訴えたんだ。そうとうヤバかったんだな。あの時のアタシは」

 どうして。

 それはさっきコレットも言っていたセリフだ。

 理不尽な運命を前にした時、人が一番考える事。

 どうして、こんな目に遭わなければならないのか。

「そしてコレット様はアタシに言ったんだよ。お姉ちゃん、お腹痛いの? 痛いの痛いのとんでけってお母さんが言うと、本当に治るんだよ。だから私がお姉ちゃんを治してあげるね。って。それで無邪気にアタシの汚い服の上からお腹を触って、痛いの痛いの飛んでけ。って言ったんだ。それを見て、アタシは毒気を抜かれたよ。そしてこんないたいけな女の子に何してるんだろうって思うと、心の底から自分が惨めになって、その場で泣き崩れたんだ。コレット様は慌てだして、あれ、治らなかった? ごめんなさいお姉ちゃん、ごめんなさい。って言って一緒に泣き出して。浮浪児とお嬢様が路地裏で一緒に泣き喚いてるんだ。今思うと、ほんとなんだったんだろうな、あの状況は」

 ククッとおかしそうに笑う。僕は笑う気になれなかった。当時のセイラさんの事を思うと、とても。

「その後、アタシは素直にジェラール様のところに行ってコレット様を返したよ。ジェラール様は泣きながらコレット様を抱きしめた。ジェラール様に頼まれてコレット様を探してた警邏は顔を真っ赤にして、この浮浪児が! って叫んで警棒をアタシの頭に振り下ろそうとした。アタシに逃げ出す気はなかったよ。こんな無垢な少女を攫ったバカにはお似合いの末路だ。けれどそれを止めたのはコレット様だった。まって、このお姉ちゃんはお腹が痛かったから私に治してもらいたかっただけなんだって。当然、そんな子供の戯言を信じる奴はいないわな。けれど、その時のコレット様の声は真剣で、本当にアタシを労わるものだった。だから警邏も戸惑って、警棒をしまって去ってったよ。その上、お父さん、このお姉ちゃんを助けてあげて。ってコレット様に懇願されたジェラール様によって、アタシはベルナール家に行くことになった。あったかい湯で体を洗って、綺麗な服を与えられて。当然客人ってわけじゃなくてベルナール家の使用人見習いだし、育ちの悪いアタシが礼儀作法や掃除を覚えるのは大変な事だったけれど、食うには困らないし、何よりすぐそばにコレット様がいる。今のアタシは本当に、幸せ者だよ。全部、コレット様とジェラール様のおかげだ」

「なるほどね」

 そこまで感謝してるならコレットを崇拝もするし、僕みたいなちゃらんぽらんな男と二人きりになったら、不安にもなるだろう。

「それにしても、そこからその若さで料理人になるって凄いことですね」

 僕の言葉に、セイラさんはニカッと笑顔になる。

「ははん。これはアタシの唯一の自慢なんだが、ちっちゃい頃から悪食してたくせに、アタシの舌は繊細な味の違いがわかるらしい」

 口を開き舌ベロを見せつけてくる。

「それを屋敷の料理長のメアリーさん……フレメア・リーゼンフェルトさんに見込まれて、みっちりと料理を仕込まれたんだ。こればっかりはアタシの才能だな」

 シシシ。と笑う。品がないと自称していたけれど、話を聞いた後だからか随分と愛嬌のある人に見える。

「アタシのセイラって名前も、コレット様に与えられたものなんだ。アタシは名無しの浮浪児じゃない。ベルナール家の料理人、セイラになったんだ。なんでも、聖人を意味するセイントから来てるんだってよ。畏れ多い事だ」

 そう言いながら胸元から取り出したロザリオを握りしめた。

「セイラさんはキリスト教徒なんですね」

 こう言ってはなんだけれど、出自から無神論者だと思っていた。

「ああ、アンディさんのおかげなんだ。アンディさんは昔はカトリックの神父でな。出自とか審査される大きな教会で神父を務めてたんだってよ。それでアタシにも神の素晴らしさを説いてくれて、アタシも神様を信じるのも悪くないと思うようになったんだ。アタシも老後はアンディさんみたいに神父になって神の教えを広めたいと思ったけど、神父は男しかなれないから、アタシはシスターだな」

「アンディさんは神父だったんですか。そんな人が、どうしてベルナール家の執事を?」

「あー、これまた他所の人間に言うことじゃないんだがな……まあ、探偵さんの相棒にならいいか。探偵は些細な事実から真実を見つけるってコレット様がよく言ってたしな。アンディさんはドイツの生まれで、さっき言った通りでかい教会の神父をしてたんだ。それで教会から派遣されて、とある小さな村で神父を勤めてたんだ。けどその村で流行り病が流行っちまってな。アンディさんは必死に祈ったけれど、病は収まらない。その時に、医者に転身する事にしたらしい。アンディさんは言ってたよ。信仰を失ったわけではない。しかし、人を救う手段があるというのにただ祈るだけというのは、敬虔ではなく怠慢だ。病に苦しむ者を前にすべき事は祈ることではなく、治療なのだ。祈るのはその後でいい。ってな」

 人事尽くしてなんとやら。この時代のこの国においてその考えに至れるのは凄い。と思ったけれど、よくよく考えたら、そもそもアンディさんは今の時代の日本に住む人間が生み出したキャラクターだった。

 気を抜くとこの世界が創作である事を忘れてしまいそうになる。

「それで英国に渡って医療技術を磨きながら目につく患者を治療してたんだが、どうにもあまり筋のよろしくない輩の治療をよく知らないままやっちまったらしくてな。逮捕されて裁判にかけられそうになったところをジェラール様に助けられて、そのままベルナール家の主治医兼執事になったらしい」

「なるほど」

 あの深く刻まれたシワには、年齢と共に過ごした苦労も共に刻まれているのだろう。そしてあの優しげな瞳には、神を崇拝する聖職者の慈愛が籠められていたのだ。

 ついでにユリウスさんの事も聞いておこう。

「ユリウスさんはどういった人なんですか?」

「あの人もアタシと似たようなもんらしいぜ。天涯孤独の身だったところを、旦那様に引き取ってもらったんだ。ベルナール家は案外そういう使用人が少なくない。行き場をなくした人たちに、仕事を与えて居場所を用意してるんだよ」

「へえ」

 あの優男も苦労してるんだと思うと、反発心が若干和らいだ。

「ユリウスさんは不思議な技術があってな。絶対に道に迷うことがないんだ。一度行った場所なら、どんな道をたどっても絶対に着くことができる。だから旦那様からは御者の仕事を与えられてるし、狩りとかで知らない土地に行く時にも連れてってもらう」

「だから、案内人ですか」

「ああ。この屋敷にしたって結構な僻地で、道が通れなくなってる時がちょいちょいあるからな。そんな時に迂回して屋敷に辿り着けるユリウスさんはうってつけってわけだ」

「なるほど。確実に屋敷に辿り着ける案内人に、聖職者兼医者という信頼のける執事、優秀な料理人の少数精鋭でこの屋敷に来てるんですね」

 僕の言葉に、セイラさんは皮肉げに笑った。

「お前さんからはそう見えてるのか?」

「違うんですか?」

 てっきり信頼のおける使用人を連れてこの屋敷に来ているのかと思っていた。

「この屋敷の魔女の呪いは知ってるよな? ベルナール家の血縁者の誰かが殺されるって話。それは必ず誰かが殺人犯になるって事だ。当然殺人犯になった奴は逮捕され裁判にかけられる。つまりは、この屋敷には殺人犯になって逮捕されても構わない使用人を連れてきてるって事だよ」

 あんまりな真実に、思わず絶句してしまう。

 ここにいる使用人は、全員捨て駒だったのだ。

「そんな、でも、どうしてジェラールさんはセイラさん達を、いなくなっても構わないだなんて」

「言ったろ。アタシ達はカトリック教徒だ。そしてこの魔女の呪いも、カトリック教徒の魔女狩りから始まったんだ。ジェラールさんからすれば、一族の仇なんだよ」

 寂しそうに笑う彼女が居た堪れなくなる。ジェラールさんに助けられたのに、その恩人から恨まれている姿が、あまりにも不憫で。

 セイラさん達を恨んでいるだなんて、そんな事あるだろうか。今の教会は魔女狩りなんてしていないはずだ。それなのに昔の怨恨を持ち出して関係ない今の人たちを憎み、逮捕されても構わないだなんて。コレットやアルマさんも同じ気持ちなんだろうか……あれ。

「セイラさん。その考えはおかしいですよ」

「あん?」

「もし本当に逮捕されても構わない人を連れて来ているなら――アルマさんは連れてこないはずです」

 セイラさんはポカンと口を開けて僕を見る。

「アルマさんは呪いの対象者じゃないから、別にこの屋敷に来なくてもいいはずです。それなのに、犯人になるかもしれのに、この屋敷に来ているのは、ジェラールさんが、アルマさんを逮捕されても構わないと思っているからだって言うんですか?」

「そんなわけねぇ! 旦那様は奥様を愛してらっしゃるんだ。でも……じゃあ、どうして」

 僕は考える。孤児のセイラさんを引き取るほどお人好しのジェラールさんが何を思ったのか。

「もしかしたら、ジェラールさんは、アルマさんならたとえ呪いに罹っても殺人を犯さないと信じているんじゃないですか? 彼女なら、自分やエリオットさん、我が子達に手をかけるはずがない。呪いを振り切る事ができるって。セイラさん達にも同じことが言えるんですよ。セイラさんは恩人のコレットやジェラールさん、その身内を手にかける事はない。きっと呪いに打ち勝つ事ができるって。この屋敷に連れてきた使用人は、ジェラールさんが最も信頼をおいている人達なんです!」

 捲し立てるように話すと、セイラさんの目からツッと涙が溢れた。そして膝をつき泣き崩れる。

「旦那様は、アタシをそこまで信頼して……」

 涙が、絨毯を濡らす。ジェラールさんに恩義を感じ、信じている自分は、間違っていなかった。本当に、この家に来れてよかった。と嗚咽と共に言葉を流す。

 ひとしきり泣くと、立ち上がって服の袖で涙を拭う。

「ありがとよ、ムツキさん。あんたの推理のおかげで救われたよ。さすがは探偵の相棒だな」

「いや、僕は大したことは……」

「謙遜すんなって。あんたは最高だ」

 僕の背をバシバシと叩く。相変わらず痛くはない。

「なるほどな。探偵はこうして人を救うんだな。コレット様が探偵小説にハマる気もわかるよ」

 僕も、ここまで感謝されるなら四ツ谷が探偵になる事にノリノリになる気もわかる気がした。いいじゃないか、探偵。

「さて、そろそろ戻るか」

 窓の外を見ながら言った。気がつけば雨が降っていた。

「貴重なお話をありがとうございました」

「ああ。いいって事よ」

 手をひらひらと振りながら廊下を歩き出したセイラさんはピタリと立ち止まり、振り向く。

「なあ、ムツキさん」

「はい?」

「明日、もしアンタ達がその推理力で、アタシが殺人を犯そうとしている事に事前に気がついたなら、なんとしても止めてくれねぇか?」

「はい。約束します」

 料理人はニカッと笑い、再び廊下を歩き出した。

 厨房で明日の朝食の仕込みをするというセイラさんと別れ談話室に入ると、相変わらず四ツ谷とクリスがチェスをしていて、ジェラールさんとアルマさんが観戦していた。コレットはソファに座って本を読んでいる。その足元でバレットが丸くなっていた。四ツ谷が僕をちらりと見る。コレットが立ち上がって僕に駆け寄る。

「ムツキさん。セイラとはどんなお話をしていたんですの?」

「おっと、それを明かす事はできないな。探偵の守秘義務に反するからね」

 言ってみたかったセリフを言ってみたら、コレットが熱に浮かされたようにぼうっと僕を見つめる。この世界、探偵は大人気らしい。

「チェックメイト」

 四ツ谷の凜とした声が響く。チェス勢の方を見る。クリスが前髪をかき上げていた。

「参ったよ。強いな、モエさんは」

「本当。さすがは探偵さんね」

「勝負に夢中だったが、もうこんな時間か」

 ジェラールさんが懐中時計を取り出して時間を確認する。

「さて、そろそろ部屋に戻って休むとするか。クリス、コレット。呪いの日は明日だが、深夜零時を過ぎた瞬間に呪いが始まる。寝るならくれぐれも気をつけて欲しい」

「クリス、コレット、こちらに」 

 アルマさんの言葉に従い、双子が車椅子に座る母親に近づく。

 そして、アルマさんは車椅子に座ったまま二人を抱きしめた。

「あなた達にこんな過酷な運命が待っているのに、何もできない母親でごめんなさい……明日の朝、おはようを言いましょう。そして夜にちゃんとおやすみを言って、またその次の朝におはようを言いましょう。二人とも、お願いだから死なないで……」

「お母様……」

「母さん……」

 涙ながらに我が子に語りかける母の姿に、コレットとクリスの言葉にも涙が滲む。

 ジェラールさんが、その三人を抱きしめる。

 四ツ谷が僕の服の裾を引っ張る。僕たちは音を立てないように談話室を後にした。

「あの家族を見ていると、誰も死なないで欲しいと思ってしまいますけれど、魔女の呪いによって誰かが必ず死ぬ運命にある。やりきれないですね。ミステリ小説を読んでいて同じことをよく思います。登場人物の誰にも死んでほしくないと思っていても、ミステリなんだから誰かが死んでしまうし、好きな登場人物が犯人になってしまうかもしれないんだという諦観を抱かなければいけません」

「言ってみれば、ミステリ小説の登場人物は全員、魔女の呪いを受けているようなものなんだね」

 ミステリ小説なんだから、必ず事件は起きる。誰が死ぬかわかわらない。誰が犯人になるかもわからない。

「上手い事を言いますね、先輩」

 部屋の扉を開けると四ツ谷のベッドの上でミューズが丸くなってくつろいでいた。

「お帰りなさいませ、お二人とも。夕食はどうでしたか? 頑張って用意したのですが」

「あれ、料理はセイラさんが作ったものじゃないの?」

「先輩、そういう意味ではありませんよ。この世界はミューズが作り出したものです。なのでセイラさんが作ったものでも、セイラさんを通してミューズが料理を再現したようなものなのです」

「ああ、そういう事か。それにしてもすごいなあ。世界を作ってちゃんと食べれる料理まで作れるなんて。無から有を生み出しているようなものじゃないか。さすがは女神だ」

「そのあたりの仕組みはしっかりした説明ができますが、推理に必要な情報ではありませんね。これ以上余計な情報を増やしても混乱するだけでしょう」

 確かに。すでに僕の頭はパンク寸前だった。

「さて。早ければ今夜零時には殺人事件が起きてしまうわけですが、私は館で何が起きてもすぐに対処できるよう、夜通し起きていようと思います」

「そうだね。もしかしたら、事件を未然に防ぐ事ができるかもしれないし」

 そんな事は不可能だろうと思いつつも、呟いた。この世界を自由にできるミューズが事件は起こすと言っている以上、必ず起きるのだろう。けれど、コレットの涙を見た後では、なんとか事件が起きずに済まないかという淡い希望を捨てる事ができなかった。

「それじゃあ、寝ずの番を始めようか」

 僕と四ツ谷は自分達のベッドに座って向かい合う。思えば普段は肩を並べて図書室のカウンターに座っていたから、昨日今日とこうして向き合うのは珍しい。よく見ると四ツ谷の顔は結構……いや、かなり整っている。ぱっちりと開いた目や長いまつ毛などの顔のパーツも可愛らしい。

「それで、私がクリスさんとチェスを打っている間にコレットさんと出かけていたみたいですけど、何をしていたんですか」

 その可愛らしい顔を能面のような無表情にして圧をかけてきた。声にも感情がこもっていなくて非常に恐ろしい。

「バレットの散歩をしながらこの屋敷の事を聞いてたんだよ。ほら、僕は四ツ谷の相棒だからさ」

「相棒……えへへ」

 可愛い後輩は照れて頬に両手を当てた。よほど探偵という立場とワトソン役がいる事が嬉しいらしい。つい最近こんなリアクション見たことあるなと思ったら、惚気た時のアルマさんだった。

「コレットが談話室に戻った後も、エリオットさんの部屋に水を届けに行くセイラさんについて行って情報収集をしていたんだよ」

 正確にはセイラさんの方から声をかけてきてんだけれども。

「なるほど。ではウィル。君の集めた情報を僕にも教えてくれたまえ」

「ああ。任せてくれアーサー」

 さて、何を話すべきだろうか。

 セイラさんの悲壮な生まれはあまり詳しく吹聴する事ではない。オブラートに包んで話そう。

「セイラさんは貧民街の生まれで、コレットに手を差し伸べられてベルナール家で働くようになったんだってさ。それで繊細な味の違いがわかる才能を見込まれて、あの若さで料理人に抜擢されたらしいよ」

「なるほど。セイラさんにとってコレットさんは恩人なんですね」

「そうだね。名前すらない浮浪児だったのに、コレットからセイラという名前まで与えられて、心酔しているみたいだったよ」

 それこそ百合の花が咲きそうなほどに。

「ユリウスさんも似たようなものだってさ。それでユリウスさんなんだけど、案内人を名乗るだけあって一度行った場所なら、どんな道順を通ってもたどり着けるらしいんだ。この館に続く道が通れなくなる時があるんだけど、それでも迂回して着いちゃうんだ」

 あの優男を褒めているようであまり面白くないけれど、これも探偵の相棒の仕事と割り切る。

「アンディさんはもとはドイツ出身の医者なんだって。それで英国に来てよからぬ輩の治療をして裁判にかけられそうになったところを、ジェラールさんに助けられて、それから執事兼お抱えの医師として働いているんだってさ。後は、クリスはスイスのオートマタとオランダのエレク……電気技術を使ってロボットを作ろうとしていて、その資料も取り寄せてる。これで僕の聞いた話は全部だよ」

 報告を終えると、四ツ谷は目を丸くしていた。

「先輩、随分と色んな情報を得てきたんですね。正直、ここまでやってくれていたのは予想外でした。さすがです」

「いやあ、それほどでもないよ」

 謙遜しながらも珍しく四ツ谷から褒められたので照れる。

「補足しておきますが、セイラさんがウィリアムことムツキさんに話をするのは原作通りですが、セイラさんとの会話は原作ではもう少し拗れて時間がかかるはずでした。あれだけスムーズに行ったのは本当にムツキさんの人柄のおかげです」

 女神からも褒められて僕は嬉し恥ずかしだった。顔から火が出る前に話題を変えることにする。

「ところでクリスがオートマタとか電気に興味があるって設定、なんだか意味深じゃないかな。もしかしたら電気を利用したトリックとかあるかもしれないよ」

「そうでしょうか。好みなんてトリックに関わらず登場人物に深みを持たせるために設定したり、あるいはただの思いつきの設定の可能性もありますよ。先輩はバレットが猫が好きという設定もトリックに関わってくると思いますか?」

 全くもって関係無さそうだった。

「それにそんなトリックがあるなら、推理するにはオートマタや電気の事前知識が必要になります。作中……この世界でその手がかりを出そうにも、多分その資料とやらは異国の国の言葉で書かれているんですよね。私たちは読めないから、手掛かりとして機能しませんよ」

 確かに。そもそもクリス自体読めていないらしいし。

 有頂天になって持論を展開したけれどあっさり否定された。膨らんだ僕の自尊心は風船から空気が抜けるが如く萎んでいった。

「どちらかといえばセイラさんの味覚が繊細という方が意味深ですね」

「ユリウスさんの、案内人としての技術は?」

「微妙ですね。事件がこの屋敷で完結する可能性が高い以上、その技術が関わってくる事は無さそうです」

 窓の外を見る。雨は強くなっていた。昼に四ツ谷が言っていた通り確かにこの屋敷は孤立しそうだ。それなら道に迷わない技術は意味をなさないだろう。

「そういえばエリオットさんは自分の部屋で寝てたけど、コレットたちも自分の部屋で寝るのかな。何かあった時のために固まってた方がいいと思うんだけれど」

「どうでしょう。必ず誰かが殺されるんですから、その場に他の人間がいたらその人も一緒に殺される危険性があります」

 それに。と形のいい唇で続ける。

「犯人になるのは呪いの対象者も含まれるんです。皆んなで固まっているところでその誰かが犯行をする危険性があります」

 呪いを受けた者も犯人になる可能性はある。それは知っていたけれど、改めて言われれると堪える。。

 コレットは、自分の身内すらも、犯人かもしれないと思って怯えなければいけないのだから。

 本当に、心を蝕んでしまう呪いだ。

 さっきの、月の下でコレットが僕の胸で泣きじゃくった事を思い出す。

 死にたくないと、悲痛に訴えていたあの言葉が僕の胸に残っている。

「どうしたんですか、先輩。暗い顔をして」

「四ツ谷。僕の知っている怪談噺は、だいたい人が死ぬ。怪異に襲われて。あるいは事故で。あるいは人に殺されて。僕はそれを読んで恐怖しながら楽しんでいたんだ。けれど今日、僕は死ぬことに怯えるコレット達を見ていたら、そんな自分が罪深く思えてならないんだ。こんな哀れな彼女達を見て楽しんでいただなんて」

 自虐的に笑う僕の手を、四ツ谷が包み込むようにして両手で握る。

「思い詰めすぎですよ、先輩。先輩はあくまで創作物として楽しんでいるだけです。架空の人物が死んでいると分かっているから、それを受け入れられるだけです。けれどミューズの作った世界がリアルだから、まるで本当の人の死を自分が楽しんでいる不謹慎な人間だと勘違いしているんです」

「萌さんの言う通りです。それに、死を題材とする作品は古来から存在していました。書物の女神として言わせて貰えば、登場人物の死に思いを馳せるのも結構ですが、それを書いた作者にも思いを馳せてあげてください。何を思ってこの人物を殺したのか。恋愛の悲壮感を出したかったのかもしれない。怪異の恐怖に拍車をかけたかったのかもしれない。どうしても人を殺さなければいけない追い詰められた人間を書きたかったのかもしれない。殺人を重ねる異常性を書きたかったのかもしれない。作品と言うものは、誰かが書いたものである事を、何かを思って書かれたものである事を忘れないでください」

 四ツ谷の言葉に、書物の女神の言葉に、僕の心は軽くなる気がした。確かに。これはあくまで創作物で、それを生み出した作者の意図がある。一人の登場人物の死だけに注視するのは、物語全体に目を向けない事と同じで、それはきっと作者の思いを無碍にする事なんだろう。

 この死の向こうに何があるのか。それを感じ取る事が、本を読むという事なのかもしれない。

「ありがとう、四ツ谷、ミューズ。気持ちが軽くなったよ」

 後輩はニッコリと笑う。白猫はどこか得意げに胸を逸らした。

 それから、僕たちは取り留めのない話をし、屋敷での夜を過ごした。

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