第16話 鬼神

(火事……?)


 昨日、自分の家を焼いた忠相ただすけの顔が脳裏をよぎるが、違う、とすぐに却下する。


 彼は今まで自分のすぐ近くにいたのだから。


 村自体も騒然としていた。

 女子供は家財道具を運び出したり、高齢の村人の手を引いたりしている。


 男たちの姿が見えないが。

 きっと消火にあたっているのだろう。


 桔梗ききょうは、景親かげちかが蟄居を命じられている屋敷まで、不安を抱えながら足を進める。


 どうなっているのか。


 まったく状況が読めない。

 風向きのせいか、時折濃く煙が噴きつけてくる。


 おまけに、火勢が強まるのか、それとも延焼が始まったのか。火がさっきよりも近くに見える。女たちの悲鳴に近い声が道にあふれており、桔梗は逆行するように、屋敷へと向かう。


 皆が皆、慌てているからだろう。


 覆面をしていない桔梗を目にとめる者はいなかった。

 桔梗は束ねた金の髪を揺らし、緑の瞳に焦りをにじませて、景親の元へと向かう。


(きっと大丈夫……。だって、忠相様がお味方を連れて先に向かったんだもの)


 自分を必死になだめながら、白煙が漂う中を走る。


 その桔梗の手は。

 いきなり背後から握られた。


 がくん、と前のめりになったものの。

 肩の痛みに反射的に振り返る。


 咄嗟に。

 大鴉おおがらすだろうか、とおもった。


 自分を追ってきたのだろう、と。

 きっと叱られる。「危ねぇだろう!」と怒鳴られる。


 そう思ったのに。


「見ぃつけた」


 そこにいたのは。

 弥吉やきちだ。


 自分の右手を掴み、ニヤニヤと笑っている。


 その粘着的な笑みから目を逸らそうと。

 咄嗟に顔を伏せると。


 彼が右手に掴んでいるものが見えた。


「……え……」


 声が漏れた。


 彼は左手で自分の右手を掴み。

 右手には。

 抜き身の刀を持っている。


 いつぞやか、自慢した刀だ。


 本来は、光条こうじょう親王が景親に送った刀。


 その刀身は。

 今。

 ぬらぬらと血で濡れている。


 真っ赤な液体を、滴らせている。


「来い」

 ぐい、と引っ張られ、桔梗は悲鳴を上げた。


「いやよ! やめて!」


 足を踏ん張り、大声を上げたが、間が悪かった。大きな爆ぜる音が村の中心部から上がり、村の女たちのいくつもの悲鳴が重なったのだ。


 誰も。

 桔梗と弥吉を気に止める者はいなかった。


「お前を連れて行くって、志賀しが様に伝えてあるんだ」


 弥吉は相変わらず気持ちの悪い笑みを浮かべたまま、桔梗に言った。


「し、志賀……?」


 誰だそれは、と思う間に、弥吉は滔々と語っている。


 その内容から。

 どうやら、彼の武士ごっこに付き合ってくれている侍の一人だと気づいた。


「お前を連れて行けば、天子様にお仕えできるらしい」

「……何を言っているの」


 呆気に取られて桔梗は彼を見つめる。


「そんなことできるわけないでしょう。あなたは村長の息子なのよ? お嫁さんだってもらったし……。将来、この村の……」


「うるさい! 親父と同じことを言うなっ」


 刀を振りかざされて、肩を竦める。


「おれは、こんなショボい村で終わる男じゃねぇんだ。都に行って、武勲を上げて……」


 目が、どんどん剣呑な色を宿していく。


「それなのに、親父もあのバカ女もおれの言うことなんて、ちっとも理解しようとしやしねぇ」


 怒気を含む声に、ぞくり、と桔梗は身体を震わせる。


 ひょっとして。

 ひょっとして、この血は……。


 刀身を汚すこの血は。 

 その、ふたりのものではないのか。


「……この騒ぎ……。弥吉さんが……?」


 火をつけ、自分を止める者を薙ぎ払い。

 そして、自分を探そうとしたのだろうか。


 捕らえようと、したのだろうか。


「都から来たあの貴人たちがお前のことを狙っていることに気づいたからな。先手を打ってやったんだ。お前、そんな髪と目の色をしていたんだな」


 げらげらと笑うが。


 放火は大罪だ。

 親殺しも大罪だ。


 この男は。

 もう、狂ってしまっている。


「おお、弥吉よ。娘を捕らえたか」


 不意に聞きなれぬ声が紛れ込んできた。 


 は、と顔を向ける。

 手で、どんどん濃くなる煙を払いながら近寄ってきたのは、景親の屋敷を警護する武士たちだ。


「これで、おれも都に連れて行ってくださいますよね!」


 ぐいぐいと桔梗の手を引いて武士たちのところに連れて行かれる。弥吉ははしゃいだ声を上げ、男たちに失笑されていた。


「ああ。お前の働きのことは、われらの上に伝えておこう」

「おい、馬を。夜叉が来る前に、この娘を連れて行くぞ」


 声掛けに、蹄の音が混じる。

 視界がどんどん悪くなる中、桔梗は自分が都へと連れて行かれることを知った。


 運命さだめ姫巫女ひめみことして。


「や、弥吉さん。あなた騙されているんですっ」


 まだ自分の手を握り続けている弥吉に、桔梗は小声で訴えた。


「私を連れて行けば武士になれるなど……。そんなこと、あるはずがない。それよりもあなた、逃げた方がいい。この人たち、知ってるんでしょう?」


「なにを」


 目を細め、凄まれるが桔梗もひるんではいられない。


「その刀で誰を斬ったのか。この村で火をつけたのは誰なのか、を」

 早口に捲くし立てると、弥吉が当然だとばかりに頷いた。


「志賀様に伝えて、許可をいただいたんだから」

「許可など出てません……っ。きっとあなた、罪に問われますよっ」


 桔梗の声も弥吉の表情も。

 移送の準備をしている武士たちも気づいていない。


 今が好機だ、と桔梗は訴えた。


「放火と、親殺しの罪に問われる前に、ここを逃げるべきです! 田中様は!? あの人に相談して……っ」


「うるさい、うるさい、うるさい!」


 弥吉は地団太を踏み、ふたたび刀を振り上げる。桔梗は怯えて腰を引いたが。

 それがまずかった。


「逃げるのか!?」

 弥吉が激高する。


(……斬られる……)


 目を閉じ、痛みを覚悟したとき。


 地面を震わせて近づくのは。


 蹄の音だ。


 音に合わせ。

 空気が揺れる。


「……な」


 不審げな声を弥吉が漏らす。

 桔梗も目を開き、周囲を見回した。


 音が、近づく。

 弥吉が刀を振り上げたまま怯えた目を巡らせた。


「その手を離せっ」


 白煙を分け。

 地響きを立て。

 いきなり現れたのは。


 馬上の景親だ。


 鐙に力を入れ、ぐ、と上半身が伸びたと思った瞬間。

 日光を浴びて彼の右手が握る刀が翻る。


 猛烈な勢いで、景親が繰る馬が桔梗と弥吉の側を通り過ぎる。

 途端に、背後で武士たちが喚き始めた。


「夜叉だ!」

世良守せらのかみだ!」


 声に混じり。


 ぴしり、と。

 水滴が桔梗の頬を打つ。


 ずるり、と。

 視界の隅で、弥吉が


 ずれていく彼の姿を。

 目が追ってしまう。


 首が。

 彼の首が。

 胴体から離れ。


 どすり、と。

 地面に落ちる。


「……………」


 しゅうしゅう、と音を立てて弥吉の首からは血が噴きあがる。


 茫然と。

 ただただ、首のない彼に右手を掴まれたまま、桔梗は無言で立ち尽くす。


 やっと。

 景親が通り過ぎざまに、弥吉の首を撥ねたのだと気づいたのは。

 武士に腰を捕まえられた時だった。


「こっちに来い!」

「馬に乗せろ!」

「来るぞ! 夜叉が来る!」


 大混乱の中、時折、男たちの断末魔が聞こえる。


 夜叉なのだ、と。


 白煙の中からいきなり出現した景親の姿を思い出して、桔梗は震えた。


 あの穏やかで優美であでやかな彼は。


 馬上においては。

 刀を握ったら。

 夜叉なのだ、と。


 その夜叉の力を。

 鬼神の力を。


 自分のために使ってほしい。

 利用されるのではなく、使役されるのではなく。

 ただ、自分のために。


「景親様!!」


 無理やり連れ去られながらも、桔梗は泣き叫んだ。


「逃げて! お願い!」


 その悲痛な声は。言葉は。

 猿轡さるぐつわをされるまで続いたが。


 彼が姿を現すことはなかった。

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