桔梗と夜叉
武州青嵐(さくら青嵐)
第1話 山に住む娘
「桔梗! おらぬか!」
大声で呼ばわる声に、桔梗は野菜を洗う手を止める。
ごわつく袖口で額の汗をぬぐい、立ち上がった。
声は、家の入口から聞こえるようだ。
手を振ってしぶきを飛ばし、まだ残る水気を着物に押し付けて拭いとる。ちらり、と井戸端を見た。桶に笊。いずれも使い古されたそこにあるのは、親指ほどにも満たぬ間引き大根と、帰宅途中にみつけた大ぶりのぶなしめじ。
(……盗まれはしないだろう)
肩を竦め、足を踏み出す。
村長たちが何用で来たのかは知らぬが、彼らにとって、こんな食材は奪うほどでもないに違いない。
入り口に向かいかけて、一旦足を止めた。
忘れていた。
『素顔で出ちゃいかん』
それは、昨年死んだ祖父の言葉だ。
桔梗が物心ついたころから、祖父は口をすっぱくしてそう言った。
この家には鏡がない。
だから、自分自身の顔をしっかりと見たことはないのだが。
髪の色が他人と違うことは自覚していた。
なんでも。
祖父の娘であり、桔梗の母である女は。
海から来た
祖父は死の間際まで、桔梗の容姿のことをひどく案じていた。
『里の者にうかつに近寄っちゃいけない』『里の者と話す時は、頭巾をしっかりとかぶっておれ』
悪さをされるから。
祖父が言うたび、そうか自分は人から疎まれるほど醜いのか、と落ち込んだものだ。
晩年、足腰が弱って動けなくなった祖父に代わり、きのこや山菜、薬草を里の者と売買していた桔梗に、祖父はしつこいぐらいに言い続けていたせいで、最近はなんとも思わなくなっていた。
むしろ。
来訪神が父親なのに、なぜ自分にはなにも
「はい。ここにおります」
ざくざくと背の低い草を踏みしだきながら、頭巾を目深にかぶる。狭い視界で、玄関口をみやると、初老の男と、若い男。ふたりいた。
それは、村長の佐平と、その息子の
玄関扉、といっても、板を一枚たてかけているような粗末なものだ。開け方にコツがいるから、閂や、ましてや鍵などかけなくても桔梗以外開けることができない。
その、古びて表面が毛羽だった扉を、ドンドンと弥吉が叩いているから肝が冷える。壊れるではないか、と言いかけて、非難の言葉を飲み込み、ぺこりと頭を下げた。
「おお、そこにおったか。お前に頼みたいことがあってな」
目線を下げたままの桔梗の頭上を、上機嫌な佐平の声が滑っていく。
(……なにかしら)
警戒感からくる緊張に身体をこわばらせ、桔梗はそっと目を上げる。
そこにはやはり、ほくほく顔の佐平がいる。
山に住み、山菜や薬草で生計を立てている桔梗を、里の者はよく思っていない。
田植えのときや収穫時に無償で奉仕することで、役所からは年貢の徴収を免除してもらっているが、里の者からすれば、「ずるいやつら」に見えるのだろう。籍としては
現に、祖父が死んだとき、桔梗はひとりで山桜の木の下を鍬で掘った。
生前「自分が死んだら、ここに埋めてくれ」と言っていた場所だ。
桔梗は手に血豆を作りながらも鍬をふるい、墓穴を掘る。
掘りながら、悔しくてたまらない。
農繁期。
里の者は
祖父が腰を痛めたのも、執拗なほどに落穂拾いを続けさせられたせいだ。牛や馬でさえ休憩させてもらえるのに、自分たちにはそんなものは無用とばかりに、日が落ちても
それなのに。
熱が出た。傷が化膿した。滋養をつけたい。
そんな都合の良いときだけ、おべっかや愛想笑いを浮かべて祖父の元に訪れるのだ。
多くを語らなかったが、祖父には学があった。
何故、こんな
医者にかかるほどの金を、村人は持っていない。だが、祖父が作り、提供する薬草や煎じ薬は安価だった。
彼らは薬をもらうときだけ、祖父と桔梗を村の仲間として扱った。
祖父は桔梗に、『里の者にうかつに近づくな』とよく言っていたが。
そんな心配などいらぬ、と常々おもっていた。
「あいかわらず、気味の悪いなりだな」
ぶっきらぼうな声に、するりと視線だけ動かす。
弥吉だ。
顔を頭巾で覆っているから、彼から見えるのは、目のあたりだけだろうが、それでも鼻に皺を寄せて嫌悪される。
「山の者は、顔も見せられぬらしい」
吐き捨てるように言われるが、桔梗は虫の羽音ぐらいにしか感じない。
「かまわん、かまわん。そのままでよい」
「ついて来い。お前に頼みたいことがあるのだ」
「頼みたいこととはなんですか」
もう収穫は終わったはずだ。今からは里の者も家にこもり、冬支度を始める。
桔梗に頼みたいことなどないはずだ。
不穏に桔梗の心臓が鳴る。
自分には、価値がないはずだ。
「案ずるな。なにもお前に害を加えようなどとおもってはおらぬ」
あきれたように佐平が目を丸くし、そのとなりで弥吉が腕を組んで鼻を鳴らす。
「一人前になにを怯えてやがんだか。金を貰っても、おまえなんぞに手を出すか」
それでも慎重に桔梗は視線を佐平に向ける。
まだ幼いころ。
桔梗の素顔を見てやろうと、村の若者に集団で襲い掛かられたことがあった。
あの時は異変に気付いた祖父がやって来てくれて難を逃れたが、それ以降、甘い誘いや「たのみごと」には用心することにしている。
佐平は。
今までみたこともないほどの笑みをうかべ、うんうん、と何度も首を縦に振ってみせた。
「とある人の、世話をお前に頼みたいのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます