9. 丘の上の天使様
「君、大丈夫? こんなところで寝ていたら、風邪を引くよ」
誰の声が聞こえて、私はうっすらと目を開けた。あれ? いつの間にか寝ていた? この声、どこかで聞いたことがあるような……。
目の前には、心配そうに私を覗き込む天使がいた。サラサラと額にかかる髪は薄茶で、目は海のような深い青。甘く整った目鼻立ちと、引き締まった口元。
あ、キスの残念イケメンさんだ……。
そう思った瞬間、私はガバッと飛び起きた。そして、私の顔を覗き込んでいる残念イケメンさんに、思いっきり頭突きをしてしまったのだった。
「ご、ごめんなさい! 驚いてしまって。あの、大丈夫ですか?」
額を押さえてうずくまる残念イケメンさんに、私はオロオロしながら声をかけた。どうしよう。怪我をさせてしまった?
「いや、大丈夫。僕もちょっと驚いただけで」
瞳にうっすら涙を浮かべて、残念イケメンさんは顔をあげた。おでこが少し赤くなっている。急いで残念イケメンさんを、その場に横にならせる。痛みで混乱していたのか、残念イケメンさんは特に抵抗することもない。
「本当にごめんなさい。少しだけ休んでください」
水筒の水でハンカチを湿らせ、額に当てる。残念イケメンさんは、気持ちよさそうに目を閉じていた。よかった、少しは痛みが引くかな。
「ありがとう。もう大丈夫」
しばらくすると、残念イケメンさんは起き上がって、私に向かって微笑みかけた。初めて会ったとき同様、その顔の麗しさに目が蕩けてしまいそう。
「本当にすみません。しばらく冷やしておいてください」
「いや、僕こそ。驚かせてしまってごめん。ここに人がいるのは珍しいから」
思った通りこの人は貴族で、上級生だったんだ。この口ぶりだと、よくここに来るのだろうか。
「ここには初めて来たんです。授業がなくなってしまったから」
「君はやっぱり、この学園の新入生だったんだね。平民には見えなかったから、そうじゃないかと思ってたんだ」
あの日の町娘の変装は、完璧だったはず。でも、バレちゃってたのか。まだまだ修業不足。そう思っていると、残念イケメンさんが突然笑い出した。どうしよう、やっぱり頭突きのせいで、おかしくなっちゃった?
「あの、大丈夫ですか?」
おそるおそる尋ねると、残念イケメンさんは笑いながらこっちを見た。
「いや、君と会うと、いつも痛い目に遭うと思って」
私のせい? そっちが仕掛けてきたくせに。 それに、前回はいきなり、キ、キスされたのよ。誰だって驚くでしょう!
私が真っ赤になったのを見て、残念イケメンさんは失言に気がついたらしい。慌てて言い添えた。
「ごめん。そういう意味じゃないんだ。この間も今日も、僕が悪かったから」
残念イケメンさんは笑うのをやめて、真剣な眼差しでこっちを見た。そんな真っ直ぐに見つめられてしまうと、なんだか変な気分になってしまう。
「その、あれは、僕の勘違いだった。どうやら、女性を口説く手管だったらしいんだ。本当に申し訳なかった。実生活では自分から女性に気持ちを伝える機会がなくて」
なるほど。この人はかなり箱入りのお坊ちゃま。たぶん、お勉強でしか、女性についての知識がないんだろう。つまり、すでに婚約者のいる高位貴族。きっと卒業と同時に結婚するので、周囲に女性がいない環境で過ごしているんだ。
「もういいです。何か誤解があると思ってましたし。でも、ああいうことは、簡単にしないほうがいいですよ。女性に期待させますから」
こんなイケメンにあんなことをされたら、たいていの貴族令嬢はイチコロ。婚約者がいる男性に熱を上げてしまうのはよくない。小説なんかでは、婚約破棄が流行っているけれど、実際には、そんなドラマチックな大どんでん返しなんてない。
「君も期待してくれた?」
「は? あの、私の話、聞いてました? そういうのがよくないって言ったんですが……」
この顔で、思わせぶりな態度はダメ! どれだけの令嬢が好き勝手な解釈をするか分からない。この人はあまりにも無防備だ。
「ああ、そうか。うん、ごめん」
残念イケメンさんは、素直に非を認めた。うかつな人だけど悪気はないし、ちょっと心配になるくらい天然。
「もうお互いなしにしましょう1 今日の頭突きは、私のせいですし」
私がにっこり笑ってそう言うと、イケメンさんもにっこりと笑った。すごい美形だ。一体、どんな令嬢がこの人の婚約者なんて大役を務められるんだろう。
「学園で会えると思って、あのときのお礼を持ってきてるんだ」
イケメンさんはポケットから、小さな袋を取り出した。見覚えのあるロゴは、街でみかけた雑貨屋さんのものだった。
「そんな、お礼なんて……」
「高価なものじゃないんだ。僕の給金で買ったものだから」
小さな包を手に押し付けられてしまうと、さすがに断るわけにもいかない。私はそっと中を開いた。
「わあ。かわいい!」
金色のハートの土台に大好きなアメジストがついた、かわいいネックレスだった。
「君の髪と瞳の色だから。きっと似合うと思って」
確かに私の髪は濃い金色で、瞳の色は深い紫だ。そういえば、あのときも髪と目を褒めてくれたっけ。もちろん、社交辞令だと思うけれど。
「ありがとうございます。でも、給金って……」
箱入り貴族のお坊ちゃまが、労働の対価をもらったの?
「社会勉強でね。市場で働いてたんだ。あの日は初日で、まだ不慣れで」
そうか。社会勉強。うん、この人には必要。だって、全然、世間ずれしてない。いくら貴族社会といったって、ここまで純粋培養じゃ簡単に騙されそう。
私は彼の多難な前途を思って、大きなため息をついた。
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