第4話 ④
八代の自宅は慎太の実家よりも三キロほど市街地寄りだ。慎太が八代の自宅を訪れるのは初めてだが、おおよその位置は中学生のときに耳にしていた。慎太の案内によって、紗耶香の運転するコンパクトカーは、その家へと向かって走った。
高卒で町工場の従業員として働き出した八代は、実家から職場にかよっている――といった事情を、ハンドルを握る紗耶香が口にした。級友からの又聞きらしい。
幹線道路から南に入り、太陽光パネルが設置されただけの土地や草だらけの空き地、といった寂れた風景の中を走った。道は舗装路だが、乗用車がかろうじてすれ違える程度の幅である。
空き地の先に二、三軒の家屋が見えた。慎太はその一番奥に進むよう案内した。
どの家も塀や生け垣といった仕切りがなかった。家々の間には手つかずの草地が入り組んでおり、それが各家同士の仕切りとなっているようだった。
舗装路から未舗装路へと進んだコンパクトカーは、その先の空き地でエンジンを切った。
時刻は午後一時三分だった。
先に車外に出た慎太は、目の前の民家に視線を向けた。洋風の家屋だった。庭に一台の車が停まっている。黒いミニバンだ。
コンパクトカーの運転席から降りた紗耶香が「その家?」と尋ねてドアを閉じた。
「たぶん」
確認してみなければわからないため、慎太はそう答えた。
紗耶香は片手に菓子折を持っている。手ぶらでは失礼だから――という彼女の意向で、郊外の菓子屋で購入したのだ。代金は折半だった。
二人は並んで歩いた。
玄関前に立ってみれば、「八代」という表札が玄関ドアの右に掲げられていた。
慎太はブザー式呼び鈴のボタンを押した。
三秒ほどしてから、スピーカーから「どちら様ですか?」と女の声がした。
「牧野と申します。八代くん……篤志くんの同級生です」
あえて「友達」とは伝えなかった。
「牧野さん……ああ、牧野さんところの……お待ちください」
そして数秒後に玄関ドアが開けられた。
姿を見せたのは、コットンシャツにジャージパンツの女だった。五十代とおぼしい。
「篤志の母です」
女はそう告げて、軽く頭を下げた。
「わたしも篤志くんの同級生で、三田村と申します」
慎太の横で紗耶香が名乗った。
「牧野さんに三田村さん、どちらもよく知っていますよ。牧野さんのお父さんは市役所の職員で、三田村さんのお父さんは地元で農家をされていらっしゃる……あ、でも、三田村さんのお嬢さんはご結婚なされたとか」
特に悪気はなさそうだった。軽い詮索だろう。
「いえ」紗耶香は苦笑した。「わたしは独身になりました」
「え……?」
八代の母の表情が固まった。
お茶を濁す時間が惜しく感じられ、また、助け船として、慎太は本題に移ることにする。
「篤志くんが体調を崩した、と聞いたのでお見舞いに伺いました。篤志くんとお話ししたいのですが……」
「それはわざわざありがとうございます」八代の母は慇懃に頭を下げた。「でも、今は寝込んでいて、面会するのは無理なんです。せっかく来てくださったのに、本当にごめんなさい」
「実はわたしたち、二日前の夕方に、篤志くんと会っていたんです」
間髪を入れず紗耶香が言った。本人との面会が不可能な場合は家族の者から話を聞いてみる、と打ち合わせておいたが、慎太は、まさかそう出るとは思っていなかった。このとっさの発言は自分の身の上話に戻らせないための苦肉の策――ではなさそうだ。
「紗耶香ちゃん――」
「あのときの篤志くんは」紗耶香は慎太に話をさせなかった。「波瀬くんと高梨くん、その二人と一緒でした」
「え、ええ……。あとからその二人が訪ねてきて、篤志が突然先に帰っちゃったから心配で来てみた……って言っていました。そういえば、その二人から聞いたんですけど、小学校と中学校で同期だった人と、街でばったり会ったとか……それから、もう一人、見知らぬ女の子もいたとかで」
八代の母はそう返した。
どのように話を進めればよいのか、慎太は思いつかなかった。見知らぬ女の子――ワカバについての説明などしようがなく、また、八代ら三人にからかわれたことも、八代の母に伝えることが罪に思えてしまう。
「あの日の夕方」紗耶香の反応は早かった。「牧野くんとわたしは買い物をしていたんです。それで駅前を歩いていたら、篤志くんたち三人とばったり行き会ったんです。牧野くんもわたしも八代くんたちと会うのは久しぶりだったので、昔話で盛り上がっちゃったんですよ」
慎太は唖然とした。紗耶香がこうまで機転が利く、とは思わなかったのだ。
「そんなところに、牧野くんとわたしとの知り合いである女の子が、たまたま通りかかったんです」
そう付け加えて、紗耶香は横目で慎太を見た。
八代の母の面前でもあり、感慨を表に出さず、慎太は無言で小さく頷いた。
「そうだったんですか」
得心がいったように、八代の母は言った。
「でも」紗耶香は続けた。「あのとき、篤志くんは突然、走り去っちゃったんです。叫びながら行ってしまったので、もう驚いちゃって。そうしたら、先ほど、街で波瀬くんに会ったので、その後はどうなったのか、彼から聞いたんです」
こちらがある程度の事情を把握していることを、八代の母は悟ったらしい。彼女の目は落ち着かなく動いていた。
「部屋に閉じこもったきりだとか」
紗耶香のそんな言葉に八代の母は観念したらしく、「はい」と答えた。
「篤志は……」八代の母は声を潜めた。「あなたたちと会ったあのときに、祖母を見たらしいんです」
「祖母……つまり、篤志くんのおばあちゃん、ですか?」
紗耶香が問うと、八代の母は頷いた。
「あの子の父方の祖母です。もう十年くらい前に亡くなっているんですが、その姿を見たそうなんです」
「自分たちにその姿は見えませんでした」
慎太は事実を告げた。
「波瀬さんと高梨さんも、そんな姿は見えなかったそうです」
そう返して、八代の母は疲れたように背後――二階へと通じる階段を一瞥した。どうやら、八代の部屋は二階にあるらしい。
「みんなの前から走り去って、行く先々でも祖母の姿を目にしたそうです。それも、奇っ怪な姿をしていたんだとか」
八代の母の言葉に不穏な響きを覚え、慎太は問う。
「奇っ怪な姿とは?」
「首が曲がっていたそうなんです」
「首……」
声を漏らしたのは紗耶香だった。
「あ、あの……」慎太は一歩、前に出た。「首はどっちに曲がっていました? 右でしたか? 左でしたか?」
「ちょっと、慎太くん」
紗耶香に小声でたしなめられ、慎太は自分が走りすぎたことに気づいた。案の定、八代の母は、困惑の色を呈している。
「すみません、お母さん」紗耶香が頭を下げた。「牧野くんもわたしも、あのときの様子が気になっているんですよ。目の前で起きたことですから」
紗耶香が取り繕った。無論、その言葉に偽りはない。
それが通じたのか、八代の母は表情を和らげた。
「右か左か、どっちに曲がっていたのかはわかりませんが、なんでも……ほぼ九十度にかくんと曲がっていたんだとかで……」
言いよどんだが、まだ何かある――と察し、慎太は「はい」と頷いて話の再開を待った。
「それから」八代の母は口を開いた。「額に大きな傷があって、白目を剥いていた、と言っていました。何しろ本人は度を失った様子だったので、それ以上の詳しいことは聞けませんでした。でも……篤志の祖母の死因は老衰だったんです。額に傷があったりとか、首が折れ曲がっていたりとか、そんなわけないのに……」
それだけで十分だった。慎太が横目で見ると、紗耶香も得心した様子だった。
「篤志くんは、お医者様に診てもらったんですか?」
紗耶香が尋ねた。こんな気配りを、慎太は忘れていた。
表情をより一層曇らせて、八代の母は首を横に振った。
「主人が……あの子の父が、どうせ気の迷いなのだからしばらく寝ていれば治る、だなんて言って……」
「そんな……」
紗耶香も表情を曇らせた。
さすがに慎太も閉口してしまう。
「要は精神的な病、ということなんでしょうけど、主人はそれを恥ずかしいものと思っているんです。自分の家族がそんな病に罹るなんて、認められないんでしょう。ご近所や知り合いとか、よその方々には伏せておかなければならない……そう思っているんですよ」
無念そうな表情で、八代の母はそう訴えた。
「ご主人は、ご不在なんですか?」
慎太は尋ねた。
「ええ……そんなことにかまっていられない、といった感じで、きのうもきょうも、普通に出勤しました」
「そうですか……」と返した紗耶香が、不意に顔を上げた。「これを……」
紗耶香は両手で菓子折を差し出した。
「牧野くんとわたしからです」
「いえ、そんな……来ていただいただけで十分なんですよ。しかも本人に会わせていないのに……」
「受け取ってください。自分たちの気持ちです」
本当に気持ちがこもっているのか――と首を傾げたくなるのを抑えつつ、慎太は言った。
「でも……」とさらに八代の母は遠慮するが、紗耶香が菓子折を差し出したまま動かないこともあり、ついには頭を下げた。
「では、ありがたくちょうだいさせていただきます」
八代の母が菓子折を受け取ったところで、慎太と紗耶香は辞去を申し出た。
玄関から数歩離れて、慎太は立ち止まった。紗耶香もそれに合わせて足を止める。
二人そろって振り向くと、玄関ドアを開けたまま、八代の母が深々と頭を下げていた。
そして慎太は、何気に二階の窓の一つに目を留めた。
カーテンを開け広げた状態のその窓に、八代の顔があった。
「八代くん……」
紗耶香がつぶやいた。
見開いた目を、八代はこちらに向けていた。何か恐ろしいものでも見るような目だ。
「行こう」
慎太は紗耶香を促した。
「うん」
二人は八代の母に会釈し、八代宅に背中を向けた。
それは、八代の視線から逃れるためでもあった。
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