第2話 ①
三田村宅はコンビニエンスストアから西へ百メートル弱の位置にあった。コンビニエンスストアとは同じ道沿いであり、北向きの門扉は歩道に面していた。大谷石の立派な塀が印象的な外構だ。
三人はそこまで歩道を歩いた。幸恵と紗耶香は雑談に興じていたが、慎太はその間に、帰省している旨をメッセージにしたため、孝史のスマートフォンに送信した。まとまった休暇が取れたこと、四泊か五泊はする予定であること、なども記したが、仕事を休んだ理由や美琴の墓参りをしたことなどには、ふれていない。休暇の口実はまだ考えておらず、墓参りはやり直すつもりでいたのだ。
メッセージを送信したあとで、慎太は胃の痛みを感じた。孝史からの反応を想像するだけで、気が滅入ってしまう。
三田村宅の玄関は東向きだった。瓦屋根の二階建てだが三階ぶんほどの高さがある。敷地内にはほかに、納屋が二棟、近代的なガレージが一棟、建っている。三田村家は豪農なのだった。
子供の頃の慎太は、健二と遊ぶ、という目的で三田村宅を何度か訪れていた。ゆえに慎太は、この敷地内の配置や屋敷内の間取りをある程度は把握しているのだ。もっとも、その当時の慎太が紗耶香という存在を意識していたのは、言うまでもない。
幸恵は玄関を解錠すると、引き戸を開けた。
「さあさあ」
せわしなく幸恵にいざなわれ、慎太は玄関に足を踏み入れた。
「お邪魔します」と慎太は頭を下げつつも、幸恵と紗耶香が靴を脱ぐのを、三和土に立ったまま待つ。
「何を遠慮してんのよ」紗耶香が言った。「うちに来るの、初めてじゃないんだし」
しかし今回は、健二に会う、という口実があるわけではない。少なくとも、幸恵や紗耶香に誘われてこの屋敷を訪ねるのは、初めてである。
二人に続いて上がりかまちを越えた慎太は、玄関ホールの正面に位置する座敷へと通された。
大きめの座卓をコの字に囲んで、三人は腰を下ろした。
幸恵と紗耶香がおのおののトートバッグからぞろぞろと取り出したものが、座卓の上に並んだ。弁当が二つ、焼きそばが二つ、おにぎりが四個……コンビニメニューの定番ばかりだが、三人で食べるにしてもやや多い。
見開いた目を、慎太は幸恵に向けた。
「これ、二人で食べるつもりだったんですか?」
問いつつ、慎太はリュックを自分の隣に置いた。
「そうなの。ちょっと多かった」
幸恵は答えて噴き出した。
「そういえば、おじさんはお昼に戻ってこないんですか? おじさんがいれば、ちょうどよかったんじゃ……」
「お父さんは仕事場で食べるんだ」紗耶香が言った。「お昼に自宅に戻るのが面倒なんだって」
慎太は紗耶香の顔を見る。
「仕事場、って田んぼ?」
そのはずだった。
「稲作はやめちゃったのよ」幸恵が答えた。「紗耶香も健二も農家を継ぐ気がなくてね。なら、楽な仕事がいいじゃない。田んぼは手放して、別の所有地にビニールハウスを建てたの。トマト栽培を始めたのよ。これがようやく軌道に乗ってね。まあ、思ったより成果が出るのが早くて、よかったわ」
「で、そのビニールハウスでお弁当を食べるんだってさ」
紗耶香が言った。
「しかも、自分で作ったお弁当なんだよ」
今度は幸恵だ。
「へえ……あのおじさんが……」
慎太は感嘆した。三田村家の主である
もっとも、牧野家も似たようなものだ。それまでは炊事に関心のなかった孝史だが、美琴が息を引き取ってからは、その孝史が台所に立つことになったのだ。慎太は大学の入学で上京したが、美琴がいなくなってからそれまでの間は、慎太は父の手料理を口にしていたのである。中学に入学してしばらくして、慎太は「自分も料理をする」と訴えたが、孝史は「料理はやらなくていい。そのぶん、勉強に時間を費やせ」と返したのだった。
今になって思えば、父との会話がなかったわけではなかった。確かに、互いに交わす言葉は少なかったが、父である孝史は、何かと慎太を気遣っていたのだ。
慎太がそんな感慨に浸っていると、紗耶香が「お父さんはお手製弁当なのに、わたしたちはコンビ弁当……」とこぼした。
幸恵が眉を寄せる。
「紗耶香が今朝になって急に帰ってきたからでしょう。わたしのお昼は、ゆうべの残りものにするつもりだったの。量が増えたのだって、紗耶香が、あれもこれも、って買い物かごに入れちゃうから」
「そう、全部わたしのせい」
言って紗耶香は口をとがらせた。
「子供みたいにすねてんじゃないわよ」そして幸恵は、目を丸くした。「あら、飲みものを買っていなかった。……お茶を入れてくるわ。それと、漬物も出そうね」
腰を上げた幸恵が、いそいそと台所へ向かった。
「せわしないというか……うちのお母さん、相変わらずでしょう?」
紗耶香は苦笑しつつ、同意を求めるように慎太に目を向けた。
「でも、明るくていいじゃん」
それはある意味、本音だった。母がいる家庭を羨望したのも、事実である。
「ところで、どれにする? わたしは……とりあえず焼きそばゲット」
紗耶香は焼きそばのパックを自分の手前に置いた。そして、「おなかが空いているんだったら、まずはお弁当をもらっちゃったほうがいいよ」と告げた。
「いや、おれは残ったやつでいいよ。おばさんが戻ってきてから、決める」
「ていうか、お弁当は同じのが二つあるんだから、気にする必要はないじゃん」
紗耶香は笑った。
この笑顔が、慎太は好きだったのだ。小学生低学年の頃からずっとだ。しかし、そんな彼女も今では人妻である。
そして慎太は、ふと思った。
「紗耶香ちゃんは今、どこに住んでいるの? 旦那さんは、きょうは仕事?」
「あ、ああ」虚を突かれたような顔で、紗耶香は口を開いた。「住んでいるところは、たぶん、もうすぐここになる……というか、実際にはきょうからここになって、手続き上はもうちょっと先になるのかな……まだほとんどの荷物を運んでいないし」
「えーと」
話が呑み込めず、慎太は眉を寄せた。
「実質上、きょうから出戻り。そういうことなの」
紗耶香は笑顔を取り戻すが、不自然さが浮かんでいた。
「出戻り……」と復唱した慎太は、ことの重大さにようやく気づいた。目のやり場に困り、視線を落としてしまう。
「旦那……っていうか元旦那は、今頃、職場で普通に仕事をしているんじゃないかな。今朝もね、わたしが、今から実家に帰る、って言ったら、好きにすれば……だってさ。もうどうでもいいみたいよ。まあ、わたしもそうなんだけどね。どのみち、離婚届の受理通知はとっくに届いているんだ。で、名字も三田村に戻しちゃったし。離婚してもわたしがさばさばとしているせいか、お父さんもお母さんも、心配しているというよりも、あきれているみたい。健二にも電話で報告したんだけど、やっぱりあきれられちゃった。ちなみに元旦那の両親には、挨拶は抜き。結構むかつく人たちなんだよね、向こうの両親。挨拶に行くにも、元旦那の実家は県外というかそもそも東北地方じゃなくてやたらと遠いし」
慎太が視線を戻すと、紗耶香は左手で頬杖を突きながら、天井を見上げていた。
「あ、そうだ」
不意に紗耶香が慎太を見た。頬杖をやめ、背筋を伸ばす。
合わせて慎太も背筋を伸ばした。
「慎太くん、連絡先を交換しようよ」
「あ、ああ……いいよ」
驚きと不安と歓喜とが、入れ替わり立ち替わり慎太の脳裏を巡った。離婚届が受理されたのであれば、これは不倫に相当しないだろう。そもそも、連絡先の交換程度では、不倫とは言えないはずだ。平静を装いつつも、慎太の頭の中は混乱していた。
慎太がリュックのポケットからスマートフォンを取り出したときには、すでに紗耶香が自分のスマートフォンを手にしていた。そして二人は、メッセージアプリのIDや、電話番号などを交換した。
「きょう、慎太くんに会えてよかったよ。おかげで気持ちの切り替えができた」
そう告げて、紗耶香はスマートフォンを座卓の上に置いた。
しかし、慎太は紗耶香のその言葉の意味を理解できずにいた。瞑想するような心持ちのまま、自分のスマートフォンをリュックのポケットに入れる。
「ところで慎太くん」お盆を両手で持つ幸恵が、座敷に戻ってきた。「お休みもらったんでしょう? こっちにはいつまでいられるの?」
「今週の土曜日か日曜日までいようかな、と思っています」
慎太は答えた。
「そうなんだ。孝史さんもきっと喜ぶよ」
言いながら腰を下ろした幸恵は、お盆を傍らに置き、それぞれの前にお茶の入った湯飲み茶碗を配った。そして、座卓の真ん中に漬物の載った皿を置く。漬物はキュウリやナス、といった野菜の浅漬けだった。
「紗耶香も喜んでいるもんね」
「何、その言い方?」
紗耶香は幸恵を睨んだ。
一方の幸恵は至って幸福そうな笑みを浮かべている。
「こうやって慎太くんとも再会できたんだし。この日に再会できるだなんて、偶然というか、僥倖っていうのかしら」
「慎太くんが困っているじゃない」
紗耶香の言うとおりだが、よく見れば、紗耶香は特に困ったふうでもなかった。
「ねえ、慎太くん」紗耶香は続けた。「やっぱり東京からここまでは、新幹線とか使って移動するんだよね?」
「そういう人も多いかもしれないけど、移動費を浮かせたかったから、新幹線と各駅停車との間を取って特急にしたよ」
とはいえ、怪異から早く逃れたかったのは、事実だ。
「へえ」紗耶香は得心がいったような感心したような、複雑な表情を見せた。「さすがは都会のサラリーマンだね。合理的というか、ちゃんと考えて行動している」
「考えなしの紗耶香に言われてもねえ……」
あきれ顔た様子で幸恵は肩をすくめた。
「ちゃんと考えているじゃない」
「さあさあ、食べよう」
紗耶香の反駁を無視して幸恵は弁当のひとつを取った。
「あれ……慎太くんはどれにするの?」
幸恵に訊かれた慎太は、「じゃあ、おれも弁当を」と答えた。
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