第2話 ②

 結局、幸恵と紗耶香はさらにおにぎりを一つずつ食べた。残った焼きそばと二つのおにぎりは土産として慎太に渡された。おにぎりは「梅昆布」と「ツナマヨ」だった。土産のすべては、幸恵が押し入れから取り出した紙バッグに入れられた。

 慎太が三田村宅を辞去したのは午後一時を過ぎた頃だった。食事中の話題は昔の思い出に終始した。美琴の話題もあったが、彼女の死に関する話には一切ふれなかった。慎太がそのように話を導いたのではなく、三田村母娘が意図してそうしたようだった。特に幸恵は美琴と昵懇の中だったゆえ、慎太を気遣っただけではなく、自分自身も悲しい思い出にはふれたくなかったのだろう。

 慎太はリュックを背負い、右手に紙バッグを提げ、実家への道を歩いた。集落は相変わらず閑散としており、慎太の気持ちを逆なでする要因は皆無だった。

 慎太は実家の玄関先に立った。見上げると、まるで他人の家のごとく、それが慎太を見下ろしていた。

 玄関先から見える範囲だが、庭木や生け垣は刈り込まれていた。孝史は昔から庭の手入れは自分でやっていた。おそらくこれらの剪定も本人がやったのだろう。花壇ではキキョウがいくつもの花をつけている。

 とはいえ、慎太は草木には興味がなかった。キキョウという花があることを知ったのは、美琴が教えてくれたからだ。この花を好きな美琴が、自分で庭の花壇に植えたのだった。

 慎太はため息をつき、玄関に向き直る。

 合鍵はリュックのポケットの中だ。

 紙バッグを玄関ドアの前に置き、リュックを胸に抱く。

 ふと気になり、合鍵の入っているポケットの隣――もう一つのポケットからスマートフォンを取り出し、スリープを解除した。

 メッセージの着信通知があった。着信時間を見れば、三田村宅で昼食をごちそうになっていた頃だった。マナーモードにはしていなかったが、着信音は会話にかき消されていたようだ。

 孝史からのメッセージだった。

   *   *   *

 夕方の六時前には帰る。夕飯はおれが作るから、ゆっくりしていろ。カップ麺が戸棚の中にあるから、昼食はそれで済ませてくれ。

   *   *   *

 気遣ってはくれているのだろうが、相変わらずの命令調だった。少なくとも出禁ではないらしい。

 返事は不要かと思ったが、慎太は必要最低限のメッセージのみをしたためた。

   *   *   *

 ありがとう。昼食は三田村さんちでごちそうになったよ。あと、三田村さんちでコンビニの焼きそば一パックとおにぎり二つをもらったから、夕飯、そのぶんは差し引いてね。

   *   *   *

 メッセージを送信した慎太は、スリープモードにしたスマートフォンをリュックに戻し、合鍵を取り出して玄関扉を解錠した。

 引き戸の扉を開けた慎太は、ようやく帰省した気分になれた。小声で「ただいま」と口にして、廊下に上がった。

 玄関の内側も座敷も台所も、誰に見られても恥ずかしくないほどに整っており、掃除が行き届いていた。美琴の亡きあと、慎太は可能な限り掃除をするよう心がけていたが、孝史のほうがその心構えは上だった。それは今でも変わらないらしい。

 実家には仏壇はなかった。美琴の俗名位牌はあるが、孝史の寝室で机の上に安置されている。位牌に向かって手を合わせたい、という気持ちはあるものの、父の寝室に無断で立ち入るのは、やはりできない。

 土産の入った紙バッグを台所のテーブルに置き、慎太は二階へと上がった。

 二階にある慎太の部屋は手つかずだった。和室だがベッドがあり、机も置いてある。よく見れば、机の上にはうっすらと埃が積もっていた。七年前、大学入学直前に美琴の墓参りをした際に入ったきりだった。

 リュックをクローゼットに入れた慎太は、部屋の窓をすべて開け放ち、一階に下りてバケツに水をくみ、そのバケツに雑巾を入れて自室に戻った。そして、雑巾でベランダの手すりを拭き、机の上なども雑巾をかけた。ほどよく手すりが乾いたところでベッドの布団をその手すりに干す。最後に畳の上を掃除機でかけた。

 掃除道具を片づけて、休憩がてらにベランダに出てみた。

 干してある布団類が、日差しを受けて白く輝いていた。

 南向きのベランダから見える集落は確かに懐かしいが、見覚えのない家屋もいくつかあった。そういった家々は概ね、新興住宅地に見られる洋風の造りである。少なくとも農家の趣はない。

 紗耶香も健二も農家を継ぐ気がなくてね――幸恵の口にした言葉が、慎太の脳裏に蘇った。

 こんな田舎でも時代は移ろうのだ。慎太が不在だった七年間は、ほんのわずかだが確実に故郷の風景を変えていた。

 クローゼットの中でメッセージの着信音が鳴ったのは、慎太が部屋に戻ったときだった。

 クローゼットの扉を開け、リュックを置いたまま、そのポケットからスマートフォンを取り出した。

 父からのメッセージかと思いつつスリープを解除して確認すれば、紗耶香からだった。

   *   *   *

 さっきは強引にうちに誘っちゃってごめんね。ところで、今からお母さんと二人で、お母さんの車でわたしの荷物を取りに行くことになったの。荷物運びはあしたの予定だったんだけど、きょうは元旦那が仕事で不在だし、面倒なことは先に済ませたいし。

 そんなわけで、あしたのわたしは時間が空いたので、もしよかったら、二人でドライブでも行かない? お母さんが車を貸してくれるんだって。つまりお母さん公認のドライブだよ。お父さんには内緒だけどね……反対はされないと思うけど、どスケベおやじだから、いろいろと詮索してきそうなの。

 じゃあ、返事ちょーだいね。待っています。

   *   *   *

 何やら予想だにしない展開となってしまった。この状況にいたって、慎太はワカバという存在を意識する。

 恋人がいるのか否か、紗耶香には訊かれていなかった。訊かれたとしても、ワカバが自分の恋人なのか、慎太にはまだわからない。ワカバとは肉体関係を持ってしまったが、それだけで恋人同士と言えるのか、甚だ自信がないのだ。

 とりあえずは昼食と土産の礼を伝えねばならない。

   *   *   *

 お弁当とお土産、どうもありがとうございました。とても楽しかったです。荷物運びは大変そうだけど、頑張ってください。

 あしたのドライブの件、承知しました。時間とか、決まったら教えてください。お母さんにもよろしくお伝えください。

   *   *   *

 送信してから、仰々しい文面になってしまったかもしれない、と悔やんだのもつかの間、誘いを承諾してしまった自分を「浅はかな男」と罵りたくなった。この粗忽さが、仕事で失敗を繰り返す原因なのだ。

 今さらドライブを断るのも不自然である。なるようにしかならないだろう。

 慎太は泣きたい気分だった。


 時間つぶしにテレビを見ることにした。自分のテレビは東京のアパートに移してあるため、居間のテレビを点ける。ワイドショーをしばらく見ていたが、やがて飽きてしまい、自室に戻った。

 取り込んだ布団をベッドに戻し、スマートホンでインターネットのニュース記事を斜め読みした。ニュースにも飽き、通販サイトを閲覧したり、しばらくログインしていなかったSNSを閲覧したりもするが、それらさえ飽きてしまう。

 慎太はベッドの上で仰向けになり、天井を見つめた。

 面白みのない人間――職場の誰かにそう言われたことを、思い出した。口にしたのが上司だったのか先輩だったのか同期の者だったのか、それは覚えていないが、事実であると自覚しているゆえにひどく傷ついたのは、確かだった。人生の楽しみ方もわからないまま老いさらばえてしまうのかもしれない――そんな不安が脳裏をよぎる。

 とりとめのない思いを巡らせているうちに、眠ってしまったらしい。

 車の音で慎太は目覚めた。

 薄暗かった。腕時計を見れば、午後六時三十八分だった。

 開けっぱなしの掃き出し窓から涼しい風が入り込み、レースカーテンを揺らしている。

 ベランダに出て玄関先を見下ろせば、白いミニバンが玄関の横に後ろ向きに停められるところだった。庭先を照らしていたヘッドライトの明かりが消え、直後にエンジンが停止した。

 慎太は一階に下り、玄関へと向かった。

 慎太が玄関ホールの照明を点けた直後に、扉が外側から解錠されて開かれた。

 廊下に立ったまま、慎太は「おかえり」と言って出迎えた。

「ただいま」

 特に感激を表すでもなく、落ち着いた口調で、その男――牧野孝史は言った。

 七年ぶりの孝史は、それ以前にはなかった白髪が、わずかに見えた。とはいえ、背筋は相変わらず伸びており、目つきも昔のままで力強い。彼は茶色のスーツ姿であり、右肩に大きめのショルダーバッグをかけ、左手には白いレジ袋を提げていた。

 扉を閉じて鍵をかけた孝史に、慎太は言う。

「指示されたとおり、夕飯は何も作っていないよ」

「ああ、かまわない。それに、外で惣菜を買ったんだ」

 いいながら廊下に上がった孝史が、レジ袋を軽く掲げた。

 改めて面と向かうと、父が小さく見えた。しかし、孝史の背が縮んだわけでなければ、慎太の背が伸びたのでもない。七年という時間が、そのように感じさせたのだ。

「買ってきたの?」

 慎太は尋ねた。

「きょうは三田村さんのお世話になったんだろう? だから、駅前ビルの店で唐揚げを買って、三田村さんのお宅に寄って置いてきた。お礼としてな」

 笑顔ではないが、穏やかな口調だった。

 どう返せばよいか思いつかず、慎太は固まった。

「ついでにうちのぶんも買ったんだ。サラダもつけてな。飯は、おにぎりと焼きそばがあるんなら、それを二人で分けよう。味噌汁は残っているし、作り置きの煮物もある」

「ありがとう」

 ようやく出た言葉はそれだけだった。

 そして慎太は、孝史に断りを入れたうえで彼の寝室に入り、机の上の位牌に向かって合掌した。この行為に関連付けて墓参りを勧められるのか――と思いきや、そういった話題を持ち出されることはなかった。美琴の位牌に手を合わせた行為自体も、特に褒められなかった。それだけに慎太は、孝史の寡黙さを改めて感じてしまうのだった。

 風呂はあらかじめ、慎太が沸かしておいた。孝史は慎太に勧められるまま先に入浴し、孝史が上がるとすぐに慎太が入った。夕食はそのあととなったが、普段着を着た男同士の会話は、ほとんどなかった。孝史は慎太の不意な帰省の理由を訊くこともなかった。

 食事の片づけは慎太が率先してやった。それが済み、自室に戻ろうと階段を上がりかけたときだった。

「慎太」と孝史の声が慎太の背中に届いた。

 足を止めて振り向けば、 階段の上り口で孝史が慎太を見上げていた。

「うちにいる間は、ゆっくりしておけ。まあ、食事の片づけだけは、やってもらおうか」

「あの、父さん……おれが帰ってきた理由、訊かないの?」

 たまらず口にしてしまった。

「理由なんて、なんでもいいさ。知ってほしければ言えばいいし、知られたくなければ黙っていればいい」

 からっ風のような言葉だった。

 慎太は曖昧に「うん……」と頷く。

「でも、向こうの仕事や生活が嫌になったんなら、いつでも帰ってこい。こっちにだって仕事はある。ここはおまえの家なんだから、遠慮する必要はない」

 相変わらずの抑揚のない口調でそう告げると、孝史は背中を向けた。

 何も返せないまま、慎太は孝史の背中を見送った。

 孝史が一階の自分の寝室へと入ってようやく、慎太は「お休み」と言葉にした。

 その声が届かなかったのか、返事はなかった。

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