第1話 ⑥
ワカバが一緒にいてくれたら美琴が実家に現れてもなんとかなる――そんな期待があったのは事実だ。一緒にいたい、という単純な思いがあるのも事実である。いずれにせよ、霊験あらたかなる力が不在なのでは、不安はぬぐいきれない。
桶とひしゃくを元の位置に返した慎太は、霊園をあとにした。
実家を目指し、来た道を戻る。カジュアルジャケットがないぶんリュックはさらに軽くなったはずだが、それが実感できなかった。
霊園での出来事の一つ一つが頭の中で混濁し、整理しきれなかった。あるいは、それらのすべてが幻影だったのかもしれない。自分は霊園にさえ入っていなかったのでは、と勘ぐり、立ち止まってリュックの中を確認すれば、半分以上も余った線香はあるが、カジュアルジャケットは入っていなかった。ならばワカバと会っていたことは現実であり、彼女から連絡先や名字を聞き忘れたことも、同様に現実なのだ。
失意のままリュックを背負い直した慎太は、再び歩を進めた。
コンビニエンスストアの横に差しかかったときは、少なくとも茫然自失の体だったに違いない。
声をかけられたような気がした慎太は、常軌を逸する現象ではないことを期待しつつ、歩きながら周囲に目を走らせた。
「ねえ、慎太くんでしょう?」
今度はしっかりと女の声が耳に届いた。明らかに慎太にかけられた言葉だ。
慎太は足を止めて、コンビニエンスストアのほうへと顔を向けた。
トートバッグを右肩にかけた一人の女が、店舗の前に立っていた。カーディガンに楊柳スカートという出で立ちの彼女は、ミディアムの髪を外ハネのくびれに仕立てていた。慎太と同世代であるらしい――否、顔をよく見れば、既知の人物だった。
「
無視するわけにはいかず、記憶にある名前を口にした。
それがうれしかったのか、彼女――紗耶香は笑顔を浮かべた。
紗耶香は既婚者であるはずだ。結婚式は挙げなかったらしい。入籍報告のはがきが慎太のアパートに届いたのは、去年の夏だった。彼女の旧姓は
「よかったあ。慎太くんじゃなかったら、わたし、大恥をかくところだったよ」
笑顔のまま、紗耶香は慎太に近づいた。
覚悟を決めて、慎太も笑顔を作った。
「久しぶり」と言葉にしたものの、声はうわずってしまった。
「あれれ……なんか緊張している?」
そして紗耶香は噴き出した。
「緊張というか……」
言葉を濁したが、認めてしまったようなものだろう。
「変わんないよね」
そう、あの頃と変わっていないのだ。紗耶香はこのように今でもきらめいており、慎太は甲斐性なしのままである。これも認めるしかない。
「ああ……うん……」
慎太は曖昧に頷いた。この態度がせめてものあらがいだった。
「あ……気に障った……かな?」
さすがにこちらの意図が伝わったらしく、紗耶香は動揺の色を表した。
「いや、問題ないよ……」
この気まずさを払拭するのは難儀だ。慎太にはなすすべがなかった。
「そういえば……慎太くん、今、そっちから来たよね?」
不意に話題を振られて慎太は混乱しつつも、来た道を振り返った。
「うん、霊園に行ってきた」
答えて視線を戻せば、紗耶香が安堵の色を呈していた。どうやら、取り繕うために話を逸らしたようだ。
「そうか、お母さんのお墓参り」
「命日でも月命日でもないんだけどね」
口にしてから、余計なことだったかもしれない、と悔やんだ。
「せっかく帰省したんだから、忌日じゃなくたっていいじゃない」
昔の紗耶香なら茶化すだけ茶化してそれっきりだったが、さすがに今の彼女は相手を慮る余裕を持ち合わせているようだ。
「そうだよね」と慎太は頷いた。
「あら、慎太くんじゃないの」
またしても声をかけられ、慎太は辟易とした。誰か、と思って目を向ければ、コンビニエンスストアから出てきたばかりの中年の女だった。
「えーと……」
さすがに瞬時には思い出せなかったが、目の前に紗耶香がいる現状と鑑みて、慎太は確信する。
「三田村のおばさん、ご無沙汰しています」
慎太は慇懃に頭を下げた。
三田村
「本当に久しぶりよね。五年ぶりくらいかな?」
ブラウスにジーンズという差し障りのない服装だが、この田舎では垢抜けているほうだろう。ショートヘアもこざっぱりとした感じで、若々しい。右手に提げたトートバッグは紗耶香のものより若干だが地味目だ。
「高校を卒業して以来だから、たぶん、七、八年ぶりよ」
紗耶香が答えた。
「そうかあ。それにしても立派になったね」
幸恵は破顔した。
「そんな」慎太はうつむいた。「立派だなんて」
就職はできたが、何も成し遂げていないのだ。そんな引け目があるからこそ、謙遜を装っているだけの自分が恥ずかしかった。
「で、今から買い物?」
尋ねつつ、幸恵はコンビニエンスストアの店舗を横目で一瞥した。
「いえ、墓参りをしてきたんです」
「お母さんのお墓参りよ」と紗耶香が補足した。
「慎太くんがお墓参りをするんだったら、お母さんのに決まっているじゃない」
幸恵は紗耶香を睨んだ。
「それは失礼いたしました」
そう言って、紗耶香は舌を出した。
「それにしても」幸恵は慎太に視線を戻した。「本当、偉いわね。というか、大人になったんだね。きっと美琴さんも天国で喜んでいるよ」
はたしてそうだろうか――今も美琴のあんな姿を目にしたばかりなのだ。
「ところで……慎太くん、実家には寄ったの?」
幸恵にそう問われて、慎太は「いいえ」と答えた。
「孝史さんはきょうも仕事なんだね。今朝ね、孝史さんが車で出かけるのを、いつもの時間に見かけたの。息子が帰省するときくらい、休んだらいいのに」
幸恵のその言葉を受けて、実家の玄関脇が孝史の車の定位置であるのを、慎太は思い出した。確かに、先ほどはそこに孝史の車はなかった。
「今回の帰省、父さんにはまだ伝えていないんです。そもそも、父さんとはほとんど連絡を取っていないし」
これも余計な話だったのだろうか。だが、この親子なら知られてもかまわない――そんな気分になっていた。
「まあ、そうなの?」
幸恵は顔全体で驚きを表した。
「男同士の親子ってそんなものだよ」紗耶香が幸恵に言った。「うちの
慎太は紗耶香に尋ねてみる。
「けんちゃん、今はどうしているの?」
健二は紗耶香の二歳下の弟だ。一人っ子の慎太は、幼い頃、健二を弟のようにかわいがり、よく遊んだものだ。高校が別になってからは顔を合わせれば短い会話を交わす程度の付き合いになり、今では交流が皆無となってしまった。
「大学を出て、大阪の会社に就職したの」
幸恵が答えた。
「大阪かあ……遠いですね。でも、けんちゃんのことだから、うまくやっているんでしょうね」
自分とは同じであってほしくなかった。人生を謳歌してほしい――素直にそう思った。
「どうなんだかわからないけど、まあ、好き勝手に楽しんでいるみたいよ」
そう告げて、幸恵は肩をすくめた。
「そうそう……ねえ、お母さん。お昼ご飯なんだけど、慎太くんも一緒に、どうかな?」
紗耶香のそんな提案に幸恵は大きく頷いた。
「そうね、それがいいわ。コンビニメニューだけど、多めに買っちゃったから」
「いや、そんな……」
実家に戻ってから一人で食べる、という予定でいたのだ。料理には慣れているため、孝史には申し訳ないが、食材を見繕って適当に作るつもりだった。
「遠慮することないよ。うちもお父さんは仕事に行っているし」
紗耶香に引き下がる様子はなかった。その隣では幸恵が頷き続けている。
一人でいるよりは、美琴が現れてもなんとか耐えられるかもしれない――そんな思いが芽生えていた。
平日の昼食はほぼ毎回、職場に近い定食屋だった。そしていつもなら三人の同僚らとともに出向くのだが、その三人が、それぞれ仕事で都合がつかず、木崎は一人でのれんをくぐった。メニューはその日の気分次第であり、この日はとんかつ定食を選んだ。会話がないおかげで、五分ほどで平らげてしまった。
いつもなら食後は仲間らとともにすぐに職場に戻る。だが、一人という状況であり、ルーティンを崩してみるのも悪くない、と思えた。
賑わう定食屋をあとにして立ち寄ったのは、定食屋と職場との間にある公園だった。中央に噴水があり、いくつかのベンチが噴水を囲むように置かれていた。
日差しが心地よかった。会社員とおぼしき老若男女の姿がちらほらとあった。芝生の上やベンチで、おのおのがくつろいでいる。
空いているベンチを見つけ、木崎はそこに腰を下ろした。
スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、メールやメッセージアプリ、SNSのチェックをした。案件らしい案件はなく、ネットサーフィンでもしようかと気分を切り替えたところで、不意に、それを思い出した。
アパートの隣人が連れていた若い女――彼女から放たれていたあの甘い香りに違和感を覚えたことだ。
時間がゆっくりと流れていた。
考えごとにはもってこいの日よりだ。
青空を見上げつつ、あの香りを自分なりに冷静に分析してみる。
ポップコーンのにおい。
焼きたてのパンのにおい。
クッキーのにおい。
それらの香ばしさに似ているが、それらのどれとも異なる別の何か――遠い昔に嗅いだことのあるにおいであるような気がしてならなかった。
ならば、「ポップコーンのにおい」や「焼きたてのパンのにおい」など、思い当たる語句をキーワードにしてインターネットで検索してみるのも手だろう。
電話の着信音がけたたましく鳴ったのは、インターネットブラウザを立ち上げようとした矢先だった。上司からだった。木崎はすぐに電話に出た。
「休憩時間中にすまない」
上司である五十代の男は、声に焦燥を醸していた。
「いえ……どうしたんです?」
「午前中に仕上げてもらった書類なんだが、顧客からの連絡があって、数カ所に直しが入ることになったんだ。すぐに戻ってくれないか?」
「あ……ああ、はい。職場の近くにいるんで、すぐに戻ります」
「頼む」
通話が切れた。
スマートフォンをスーツの内ポケットにしまい、立ち上がる。
恋人に振られたことはすでに「過去のもの」と片づけていた。ならば、嫉妬も敗北感も意味がなく、あの甘い香りに拘泥するのは自分にとって無駄でしかない。
木崎は頭の中のすべてを業務モードに切り替えた。
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