第1話 ⑤
墓参りの作法に疎いにもかかわらず、事前に調べたりはしなかった。そこまで頭が回らなかった、というのが事実である。しかし今は、常軌を逸した出来事に悩まされているのだ。有給休暇を四日も取っての墓参りなのだから、なおのこと、作法に則った墓参りでなければ意味はないだろう。線香は購入したが、花や菓子などは持参しなくてもよいのだろうか――この期に及んでそういったことが脳裏を駆け巡るのだった。慎太は田畑の間を抜ける道をたどりながら、己のうかつさを悔やんでしまう。
コンビニエンスストアから二百メートルほど南の位置に、霊園の出入り口があった。その近くに桶置き場と水場が併設されている。
日中とはいえ、平日である。故人の命日や月命日で参拝する者が来ているとしても少数だろうが、今のところ、慎太以外に人の姿はない。
桶置き場の桶はどれもが霊園の備品だ。逆さの状態で並べられた桶のうちから一つを取り、ひしゃくも忘れずに手にした。しかし、大学入学直前に父とここに訪れたときは桶を二つ借りた――ような気がした。それも作法のうちかもしれないが、二つを使う意味が思い出せず、今回は一つだけにすることにした。
作法に間違いがあるのなら、また来ればよいのだ。週末を含めれば六日も休める、という余裕が、慎太に迷いを抱かせなかった。
桶に水を入れ、さらにその桶にひしゃくを差し入れた。それを右手に提げて、霊園の奥へと向かう。
霊園は南向きの緩い傾斜に広がっていた。孝史を家長とする牧野家――その墓は、傾斜の中央の辺りに位置している。牧野本家の三男である孝史が、美琴を葬るに当たって本家とは別となる墓を建てたのだ。
墓の前に少量の雑草が生えているのを目にし、墓参りには清掃が必要なのでは、と慎太は考えた。とりあえず、リュックと桶を敷石の上に置き、目立つ雑草を引き抜いて親柱の手前にまとめた。
墓石の正面には「牧野家之墓」と刻まれており、その向かって左側面には美琴の名前と彼女の戒名が入っていた。
墓石にひしゃくで水を静かにかけ、使い捨てライターで火を点けた線香の束を、香炉に供えた。そして墓石の前に立ち、合掌する。
――母さん、ご無沙汰してごめんなさい。無事に就職して、ちゃんと働いているよ。
ちゃんと働けているのか自信はないが、心の中でそう唱え、目を開けた。
ほかにすることが思いつかず、慎太は桶を持って牧野家の墓石に背中を向けた。
静かだった。
日差しが心地よい。
慎太の心持ちは軽かった。
四歩、足を進めたところで、背後に気配を感じた。
立ち止まって振り向く。
牧野家の墓の前に、美琴が立っていた。慎太に正面を向ける彼女は、首が右に九十度曲がり、額の傷は血にまみれ、髪は乱れるままで、双眼は白目を剥いている、といういつもの異形の姿だった。スタンドカラーコートとウールスカートも、いつもの身なりだ。
慎太の足元に落ちた桶が横になり、ひしゃくが飛び出して、水が地面をぬらした。
「母さんはおれに恨みがあるの? そんな姿をしている理由は……何?」
慎太は嗚咽交じりだった。
しかし、白昼の墓地にたたずむ美琴は、毎度のように無言である。墓参りに感謝しているようには窺えない。
「慎太をこれ以上苦しめないで!」
背後の声を耳にして振り向けば、ワカバがすぐそばに立っていた。
美琴から意識が解放された慎太は、不意に全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
状況を把握できないまま視線を牧野家の墓の前に戻すが、美琴の姿は消えていた。
脅威が去ったことにより、慎太の意識はワカバに集中した。
「どうしてワカバがここにいるんだ?」
ワカバを見上げて、慎太は尋ねた。腰が抜けているらしく、立ち上がれない。
「あたしね、慎太と同じ電車に乗っていたんだ。車両は別だったけど」
答えたワカバをよく見れば、ボトムはいつもの七分丈ジーンズだが、トップはレモン色のロングTシャツだった。
「え……」
まだ理解できず、返す言葉が出なかった。
「やっぱり気になって、アパートの……慎太の部屋に戻ったんだけど、もう出かけたあとだった」
ワカバのその予感は的中したわけだ。むしろ、慎太の考えが甘かった、というのが現実的かもしれない。
「でもさ、おれの行き先、伝えていなかったよ」
「慎太が留守の部屋の前で、慎太のお母さんのお墓がここにあること、不意にわかったの。それとね、慎太はアパートの近くからバスに乗って、それから都電に乗って……」
電車を乗り継いだこともお見通しだった、とワカバは訴えた。
「霊能力でわかった、ということ?」
「そうだよ」ワカバは頷いた。「あたしはバスも都電も使わないでタクシーにした。慎太が乗るはずの特急に、慎太よりも先に乗り込んでいた」
「だったら、その特急の中で声をかけてくれたらよかったじゃないか」
もっともな反論である、と自負した。
「だって、一人で行く、って言うから、ちょっと意地悪したくなったの。お墓で声をかけて驚かしてやろう、って思ったのよ。そのために、特急を降りたらまたタクシーを使って、お墓に先回りしたの」
すなわち、ワカバは牧野家の墓の場所も完全に把握していたわけだ。
「怒っているの?」
そう問われて、慎太は再び言葉に詰まった。こんないたずらをされたのだから、憤りを感じているのは事実だ。しかし――。
「ムッとしたには違いないけど、おかげで助かったよ」
「ムッとしたの?」
ワカバが小首を傾げた。
黒目がちの目が日差しを受けて輝いている。
いたずらなど、もうどうでもよくなっていた。異形の美琴を退散させてくれた恩もあるが、ワカバがいてくれるだけで、慎太の心は和んだ。
大いなる開放感だった。この土地においてのよそ者である自分だが、少なくともワカバには認められているのだ。
慎太は桶を手にして立ち上がった。そして拾ったひしゃくを桶に差し入れる。
「ムッとしたのは、ちょっとだけだよ。そんなに怒ってはいない。それより、仕事は休んだんだろう?」
「もちろん。でね、一週間ぶっ続けのお休みをもらっちゃった。来週の月曜日まで、お休みだよ」
そんな答えに慎太は一抹の不安を抱いた。
「そんなに休んで大丈夫なの?」
ワカバがどんな仕事をしているのかわからないが、フリーターなのだから、待遇がよいとは思えない。
「全然平気」
ワカバは平然と言ってのけた。慎太が気をもむ必要はないのかもしれない。ならば、これからの予定を早々に立てるべきだろう。
「今から実家へ行くんだけど、ワカバもおいでよ。すぐそこなんだ。徒歩で七、八分。泊まっていけばいい。父さんが今いるかどうか、まだ確認していないけど、いないとしても夕方には帰ってくる。いずれにしたって、文句は言われないはずだ」
何か言われる可能性はあるが、見知らぬ土地に舞い込んだ若い女を放り出すほど、孝史は唾棄すべき人間ではない。慎太はそれを知悉していた。
「泊まらなくても大丈夫だよ」
ワカバは言った。
「え……じゃあ、東京へとんぼ返り?」
「ていうか、あたしの実家も同じ市内なんだ」
さすがに耳を疑い、慎太は眉をひそめた。
「本当なんだよっ」ワカバは慎太を睨んだ。「駅から東へ歩いてだいたい十五分くらいのところ。……この場所を知るのに霊能力っていうやつの力にも頼ったけど、特急を降りてからは、自分の土地勘が活かされたよ。まあ、あたしの実家、ここからはちょっと遠いけどね。小学校も中学校も、こことは学区が違うし」
「そうなのか……」
信じるしかなさそうだ。慎太は小さく頷いた。
「あたしも驚いているんだよ」
しかし、学区が異なるとはいえ市内に住んでいたのなら、共通の知り合いがいる可能性はある。誰がその知り合いだとしても、やっかいごとの原因になりそうな気がした。
「ワカバって、いくつなんだっけ?」
ワカバについて知っていることは少ないが、肉体関係を持ったにもかかわらず、何歳であるかもわからないのだ。少なくとも、ワカバは慎太よりも年下に見える。年齢が離れていれば離れているほど共通の知人がいる確率は下がる、と感じた。
「ハタチだよ」
五歳の差があった。さらに訊けば、ワカバがかよっていた高校は市外にあるとのことだった。慎太がかよっていたのは市内の高校であり、接点は少なそうだ。
「そうなんだ」
わずかな安堵を覚え、慎太は肩の力を抜いた。
「なんだかほっとした様子だけど、心配ごとでもあったの?」
尋ねられたが、焦燥はなかった。むしろ、懸念は共有しておいたほうがよさそうである。
「お互いの実家が同じ市内だから、共通の知り合いがいるかも……って思ったんだ。共通の顔見知りがいたとして、おれたちが二人でいるところでばったりと出くわしたら、何かと詮索してきそうじゃん」
「あたしと一緒にいるところを見られるの、嫌なの? あたしみたいな女と一緒にいるの、恥ずかしい?」
尋ねた内容にしては、さほど悲しそうでも憤っているふうでもなかった。しかし、慎太はさすがに焦慮に駆られた。
「そうじゃなくてさ……そんなに仲良くないやつにしつこく訊かれるのって、嫌じゃん」
「ああ、しつこいのは嫌だよね」
ワカバは頷いた。
「だからさ……まあ、そういうこと」
はっきりとした言葉にするのははばかられるが、気の合う友人などいなければ、楽しい思い出もない――そんな故郷なのだ。それをくみ取ってほしかった。とはいえ、ワカバの表情を見る限り、得心のいった雰囲気は希薄だった。
長期滞在をするわけではないのだ、と開き直った慎太は、目につく現実的な問題に留意する。
「ここ、東京より涼しいよね。そんなんで寒くない?」
加えて、この田舎においては、気候にそぐわない服装ほど目立つものだ。しかも、若い女ならばなおさらである。
「そんなに寒くはないけど」
「いやしかし……」
言葉を詰まらせつつ、慎太は背中のリュックを胸に抱いた。そして、その中からカジュアルジャケットを取り出す。
「これ、着なよ」
たたまれたカジュアルジャケットを慎太が片手で差し出すと、ワカバは首を傾げた。
「だって、寒くないし」
「その格好、目立つよ」
しかたなく、もう一つの理由を告げた。
「そうかなあ?」
得心のいかない表情を見せるワカバだが、小さく頷くと、カジュアルジャケットを両手で受け取った。
「ここ、都会じゃないからさ」
慎太は断言すると、リュックを背中に戻した。
「それはわかるけど……ていうか、慎太は寒くないの?」
「歩いたら体が温かくなったし、上着が必要になれば、実家にいくらでもある」
「ふーん」
そううなったワカバが、カジュアルジャケットを広げて両手で掲げた。カーキ色のミリタリー風ジャケットだ。
「当然なんだけど、男物」
とりあえず、慎太は注釈を入れた。
「むしろかっこいいかも」
笑顔を浮かべたワカバが、カジュアルジャケットを身に着けた。案の定、袖が長い。その状態を眺めつつ、ワカバはさらに笑う。
「でも、さすがにこのままじゃ、あれだな」
慎太はカジュアルジャケットの両袖をまくってあげた。
袖をまくったところで大きめの上着を無理して着ている感は否めない。だが、これはこれで様になっている――ような気がした。
「じゃあ、しばらく借りるね」
「ああ。返すのはいつでもいいよ」
あげてもかまわないのだが、このサイズでは一時しのぎという扱いだろう。
ふと、ここが霊園であるのを思い出し、慎太は場所を移す旨を提案しようとした。
ワカバが目を見開いていた。慎太の肩越しに何かを見ている。
振り向くと、美琴が立っていた位置に小さな何かがあった。
目を凝らせば、それは一匹の青灰色の猫だった。前足をそろえて後ろ足をたたみ、上半身を起こす――という、「お座り」もしくは「エジプト座り」と呼ばれる姿勢だ。青灰色のその猫が、丸い瞳でこちらをじっと見つめている。
美琴が立っていたのと同じ位置にいる、という状況にも不穏を受けるが、それよりも、ワカバが無言でいる――という事実に気づき、慎太は視線を変えた。
見開いた目を猫に向けているワカバがいた。
「大丈夫か?」
たまらずに、慎太は声をかけた。
「え……」とまばたきをしたワカバは慎太を横目で見ると、すぐに牧野家の墓の前に視線を戻した。
慎太も合わせて墓の前に視線を移すが、青灰色の猫の姿はなかった。
「今の猫、何?」
尋ねつつ、慎太はワカバを見た。
「何って、種類? 猫の種類なんて、わかんない」
そう返したワカバも、慎太を見た。表情のこわばりがありありと浮かんでいる。
「いや、種類じゃなくて……」
慎太は口ごもった。美琴と関係があるのかどうかを尋ねたかったのだが、ワカバの様子を見て、それを口にする勇気も失せてしまったのだ。
「あたし、用事を思い出した。今から自分の実家へ行くね」
何かを隠している――と感じたが、問いただすことができず、慎太は小さく頷いた。ワカバの「用事」についても、尋ねることができない。
「わかった。でも、タクシーを呼ぶにしてもバスを使うにしても、街まで行くのは時間がかかるよ……駅まで七キロくらいあるんだ。調子が悪そうだし、おれの実家に寄って少し休んだほうがいいんじゃないかな。タクシーを使うのなら、先にタクシーを呼んでおいて、それが到着するまでの間、ゆっくりしていればいい」
断られるのは予測できたが、案の定、ワカバは「ううん」と首を横に振った。
「そう……」
無理強いをできず、慎太は口をつぐんだ。
「街に向かってしばらく歩く。バスに乗るかタクシーを呼ぶかは、そのときに決める」
「うん」
頷いたものの、大事な何か忘れているような気がしてならなかった。
「じゃあ、またね」
表情を変えずに言ったワカバは、慎太に背を向けるなり、霊園の出入り口に向かって駆け出した。
カジュアルジャケットの背中が墓石の群れに隠れてすぐに、どこかで猫が鳴き声を上げた。
息を呑んだ慎太は、自分も早々にここを立ち去らねば、とワカバが去ったほうへと歩き出した。そして歩きながら、忘れていた何かを、不意に思い出す。
「なんてことだ」
この歯がゆさは例えようがなかった。
ワカバの連絡先と彼女の名字を、またしても訊きそびれていたのだ。
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