第1話 ④

 慎太は全裸で毛布にくるまっていた。毛布はワカバがかけてくれたに違いないが、毛布の中にいるのは慎太だけだった。毛布の温かさに反して、畳はひんやりとしていた。

 甘い香りは相変わらず鼻腔を満たしていた。この毛布にもそのにおいは染みついているらしい。

 上半身を起こすと、毛布がずれ落ちた。

 部屋の照明は消されていた。まだ夜である、ということは把握できた。

 街灯なのか、わずかな光がカーテンの隙間から差し込んでいた。その光が届かない片隅で、ワカバが両膝を抱えて座り込んでいる。

 ワカバは服を着ていた。白いロングTシャツと七分丈ジーンズ――行為に入る前に着ていた衣服だ。

 慎太の傍らには彼の下着やシャツ、ズボンなどが脱ぎ捨てられたままになっていた。毛布はかけてくれたが、さすがに男物の下着にふれることはできなかったのだろう。

 そんな感慨が、不意にかき消された。

「おれ……ゴムを使わなかったね。ごめん」

 情けない言葉であるのは承知のうえだ。万が一の場合は責任を取るしかない。だが、そんな覚悟がないのも、事実である。

「大丈夫だよ、きょうは安全日だから。ゴムが必要なときは、あたしが用意する」

 慎太とは今回限りではない、という意味にも受け取れた。もっとも、ワカバがどのような表情を浮かべているのか、闇に沈む顔を慎太は見定められなかった。

 傍らに置かれた自分の腕時計を左手首にはめ、改めて確認すれば午前三時四十二分だった。

「今度こそ、帰るよ」

 朝になれば出勤である。初体験の余韻をここで味わう時間は、ないだろう。

「また出たら、どうするの?」

 背中に冷や水を浴びせられたようだった。それでも慎太は、毛布をよけて立ち上がり、黙したまま衣服を身に着けた。

「ねえ……どうするの?」

 身支度を済ませてリュックを背負った慎太に、ワカバが再度、声をかけた。

「なんとかするよ」

 その場しのぎだった。あの異形を相手にするなど、慎太にできるはずがない。

「慎太……」ワカバがおもむろに立ち上がった。「だったらさ」

 恍惚とした表情が、闇の中でわずかに窺えた。


 カーテンの隙間から差し込む光が、慎太のまぶたをこじ開けた。

 甘い香りがあった。

 慎太はベッドの上でワカバとともに横になっていた。全裸の二人を覆っている一枚の掛け布団が二人の体温を倍増させているおかげで、肌寒さは感じなかった。

 自分の寝室で朝を迎えていることを把握してから、慎太は昨夜から明け方にかけての出来事を脳内で再構築した。この部屋に移ってからも二人は激しく求め合った――その情熱は明け方まで続いたのだ。

 枕元の目覚まし時計を見ると、午前六時十四分だった。出勤日の起床時間より十六分も前だ。目覚ましに頼らずによく起きられたものだ、と我ながら感心してしまう。

 慎太に顔を向けているワカバが、軽い寝息を立てていた。そんな彼女を起こさないよう、そっとベッドから抜け出し、目覚まし時計のタイマーをオフにした。

 ベッドを出るとさすがに肌寒さがあった。散乱している二人ぶんの衣類を躱しつつ浴室へと向かい、熱いシャワーを浴びる。

 タオルで体を拭きつつ寝室に戻ると、すでに服を身に着けたワカバが、ベッドに腰かけていた。

「ワカバもシャワーを浴びたら?」

 慎太は前を隠すこともせずに声をかけた。

「ううん、あたしはいいよ」ワカバは首を横に振った。「服、着ちゃったし」

「そう?」

 執拗に勧めるのもはばかられ、頷くだけにとどめた。そして、タンスから下着とシャツを取り出し、それらを身に着け、さらに、床に置いたままのズボンを穿いた。

「仕事に行くの?」

 けだるそうな表情が、慎太を見上げていた。

「そりゃあ、もちろんだよ」

 答えつつ、足元のネクタイを拾った。

「仕事をするより、お母さんのお墓参りに行くべきじゃないかな?」

 慎太を見上げる瞳に力が入った。

 美琴の凄惨な姿が脳裏をよぎる。

 何も言葉が返せなかった。

 ネクタイが足元に落ちた。


 職場の電話口に出たのは、あろうことか川村だった。しかし、慎太は臆することなく、週の残り四日のすべてを有給休暇にする、と伝えた。

「おまえ、何を考えているんだ」

 川村の荒れようは尋常ではなかった。

「実家に行かなきゃならない用事が、できたんですよ」

 ベッドの脇に立ったまま、淡々とした調子で告げた。切実な事態なのだから妥協するつもりはなかった。

「用事って――」

「よろしくお願いします」

 川村の言葉にかぶせた慎太は、相手の反論を待たずにスマートフォンの通話を切った。

 すぐに着信があった。スマートフォンの画面を見れば、川村のスマートフォンからだった。通話にせず、それを切る。

 枕元の目覚まし時計は午前九時四十分を示していた。ワカバが帰って一時間ほどが経っていた。

 ワカバは「一緒にお墓参りに行く」と申し出たが、慎太はそれを断り、とりあえず彼女を帰宅させたのだった。ワカバにも仕事があるのだ。フリーターとはいえ、それを休ませてまで自分に付き合わせることはできない。ワカバは特に気を悪くしたふうでもなく、納得した様子だった。

 職場への電話を済ませた慎太は、カーテンを閉めきったままであることに気づいた。さらには、ノーネクタイにシャツ、といった中途半端な姿だった。こんな状態で一時間も呆然と立ち尽くしていたのである。

 スマートフォンを枕元に置き、私服に着替えてカーテを開け、青空を確認したところで、ようやく心持ちが穏やかになった。とはいえ、美琴がいつまた現れるかもしれないのだ。

「墓参りだ」

 そうつぶやいて、ため息を落とした。

 甘い香りがかすかに漂う。

 この香りが消えぬうちに身支度を整えなくては――慎太にはそう思えてならなかった。

 ワカバの連絡先を尋ねていなかったことに気づいたのは、出かける準備が済んだあとだった。


 片道二時間弱の短い旅の友は、着替えなどが入ったリュックだけだ。背負うそのリュックは普段のビジネスリュックよりも大きいが、重さは感じなかった。

 空は晴れ渡り、外出日よりである。幹線道路へと向かう道を歩くが、通勤時間と異なり、人の気配は皆無だ。そんな寂寥感さえもが、今の慎太には好ましかった。

 右へと延びる道――ワカバの家に続く脇道を前にして、慎太は立ち止まった。

 ――墓参りをするだけでいいのかな?

 ふと湧いた疑問は、ワカバに会う名分になるだろうか。

 もっとも、時間的に今からワカバの家に寄っても彼女はいないだろう。仮に仕事を休んで在宅中であるとしても、彼女の同行の意思を慎太は遠慮したのだ。些細な疑問にかこつけてわざわざ声をかけるのは、無粋かもしれない。四、五日ほど戻ってこないつもりなのは、すでに伝えてある。それだけで十分なはずだ。彼女の連絡先を訊くのは、戻ってきてからでもよいだろう。

 逡巡は消えていた。

 慎太は歩き出した。


 北へと向かう特急列車にて一時間以上は揺られた。列車を降りてバスに乗り換え、西に二十数分ほど走ったとろで下車する。

 東の遠方に街並みが見えるが、その彼方を含む全周囲に山があった。特に西の山々はすぐ近くまで裾を伸ばしている。散在する民家と稲刈りの済んだ田地――ここが、慎太の故郷だった。

 冷え込みは特急列車を降りた時点ですでに感じていた。東北地方の最南端とはいえ、都心から二百キロも北に位置するのだから、この温度差は当然である。それでも、リュックに忍ばせておいた薄手のカジュアルジャケットは、まだ出さないでおいた。

 田んぼを南北に貫く道を南へと歩いた。乗用車一台ぶん程度の幅の舗装路だ。同じような道がこの道の東側と西側に数十メートルほど隔てて平行に延びており、この道を含め、それら三本の道に人の姿も車両もまったくなかった。バスの路線にもなっている道――慎太の背後を横切る幹線道路を、ときおり車が往来するだけだ。

 道を二百メートルほど南下すると、集落があった。東西に延びる片側一車線の舗装路を渡り、農家然とした家屋が目立つ集落へと入る。

 道沿いに植えられたコスモスが、ピンクやオレンジ、黄、白などの花びらを咲かせていた。ひっそりとした集落に妖精たちが舞い降りてきたかのごとくだった。

 この辺りまで来ると、わずかに体がほてった。長袖シャツにジーンズという服装のままでいたことは正解である、と実感した。

 右に疎林、左に畑、という一帯に差しかかった。

 右前方――疎林の先に二階建ての民家が垣間見えた。都会では目にすることの少ない和風の家屋だ。それが、七年ぶりに目にする実家だった。

 実家へと至る未舗装の小道が右に繋がる位置で、足を止めた。小道の奥で静かにたたずむ家が、慎太を待ちわびていたかのごとくこちらに玄関口を向けている。

 懐かしいのは当然だが、目に入る景色のすべてが記憶に残っているわけではない。門扉や生け垣の細部に目を配れば、陰影や形状など、亡失した情報によって、慎太は自分がよそ者になっている事実に気づくのだった。

 父――たかは仕事に出かけているはずだ。仕事を休んで家にいる、という可能性もあるが、いずれにせよ、慎太はきょうの帰省を孝史にまだ伝えていない。

 合鍵があるため、たとえ孝史が留守であろうと、家に入ろうと思えばいつでも入ることはできる。だが、するべきことを先に済ませたかった。

 実家へと至る小道を横目に、再び舗装路を歩き出した。

 慎太の気持ちはそぞろになっていた。東京を発つまでは穏やかだった気分が、故郷に近づくにつれて徐々に落ち着きを失ってきたのだ。孝史と顔を合わせるのは気が重いが、それが原因でないのは慎太自身がよくわかっていた。

 何軒かの民家が左右に並ぶ区画を抜けると、東西に延びる舗装路に突き当たった。片側一車線の道であり、バス停があった先の幹線道路と同程度の作りである。この道沿いにも民家がまばらに並んでおり、道路の反対側――すぐ目の前には一軒のコンビニエンスストアがあった。

 道を渡り、そのコンビニエンスストアへと足を踏み入れた。

 三十代とおぼしき女性店員が一人、レジの内側にいた。昔から存在する店舗だが、この店員には見覚えがない。少なくとも、慎太がこの土地に住んでいた頃には、この集落にはなかった顔である。あとから移り住んだのか、もしくは少し離れた土地からかよっているのかもしれない。店内にはそれ以外に人の姿はなかった。

 ここまでは、まだ顔見知りとは出くわしていない。なじみの者ならば、何かと詮索してくるだろう。取り繕うなどたやすいが、面倒な対応であるには違いない。ゆえに、この状況が続いてほしい、と慎太は願うのだった。 

 線香を一箱と、使い捨てライターを一つ、購入した。それらをリュックに入れ、慎太は店を出た。

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