第1話 ③

 アパートが見える位置に差しかかった木崎まさは、帰宅まであとわずか――という安堵を得ていた。二時間の残業を終えてオフィスを出た時点で日は暮れており、疲労感も相まって、街明かりに照らされるアパートの外観以外は、無の世界のように思えた。

 ゆえに、この細い道の前方に二人ぶんの人影を認めたときは、勤務中以上の緊張を覚え、意図せずに足を止めてしまった。

「一週間は出ない……って、君は言っていたじゃないか」

 男の声だ。

「絶対に、とは言っていないよ」

 今度は女の声だ。

 二人との距離は容姿が把握できるまでになった。一番近い街灯は木崎の十メートルほど後方だが、視界の確保に不足はない。

 男はスーツ姿であり、ビジネスリュックらしきものを背負っていた。女はこの季節にロングTシャツに七分丈ジーンズである。マッシュショートの女は二十歳前後らしいが、男のほうも若そうだ――というよりも、その男は見知った人物だった。

「あ……」と素っ頓狂な声を出したその人物――木崎の隣人である牧野という男が、立ち尽くす木崎にようやく気づいたらしく、あと二、三メートルという距離になって足を止めた。同伴の女も合わせて立ち止まる。

 女のロングTシャツは宵闇でも目を引く白だが、その色が豊かな二つの胸の膨らみを強調していた。

「こんばんは……お疲れ様です」

 動揺の色を表しつつも、隣人が先に挨拶した。

「ど、どうも……こんばんは」

 動揺の規模はこちらのほうが大きいかもしれない。そんな自分に嫌悪を抱きつつ、木崎は少しだけ右に寄り、道を空けた。

「ありがとうございます」

 礼を述べた隣人が、女をいざなって歩き出した。

 通り過ぎる瞬間、女は木崎を横目で一瞥した。黒目がちの目は無表情だが、引き込まれそうな輝きがあった。

 全身から力が抜けた。左の小脇に抱えたハンドバッグを落としそうになり、慌てて感覚を取り戻す。

 隣人の動揺に気づいてしまったからなのか、自分が動揺を呈してしまったからなのか、女を意識してしまったからなのか、居心地の悪さがあった。

 遠ざかる二つの後ろ姿を見送りつつ、不意に湧き上がった嫉妬に、自分の現状を思い知らされた。三日前に恋人に振られたばかり、という現状である。

 あの隣人よりは女受けする顔である、と自負していた。それなのにこの境遇の違いはいかにして起こるのか。

 ――どうせあいつも長続きはしないさ。

 そうでなければ世の中の摂理が意味のないものになってしまう。

 甘い香りがかすかに漂っていた。これは隣人からではなくあの女から放たれている、ということはさすがに察しがつく。もっとも、この香りによって木崎の嫉妬はさらに増してしまった。

 乱れる気持ちをどうにか鎮めた木崎は、アパートに向かって歩き出すが、ふと、その足を止めた。

 この甘い香りには覚えがあった。以前に、どこかで嗅いだことがある。だが、香りの源がなんだったのか、思い出せない。

 立ち止まって振り向くが、二人の後ろ姿はすでに宵闇に消えていた。


 街灯の明かりに浮かぶのは、意外にも一戸建ての家だった。とはいえ、こじんまりとした平屋であるのはさておき、古さは否めない。同じような家があと三軒、この家の向かって右に並んでおり、低いフェンスによってそれぞれの敷地が仕切られていた。

 慎太が住むアパートから徒歩で十分程度の距離だが、時代に取り残されたままのような界隈だった。就職してから四年も住み続けた地――その一角にこんな風景があるなど、まるで知らなかったのである。

 玄関前で立ち止まったワカバが、振り向いて慎太を見た。

「借家だよ。借家は、アパートの一戸建て版みたいな感じのおうち」

 ワカバの住居は玄関灯のみが灯されていた。あとの三軒に至っては、外灯も室内灯も暗いままである。寂寥たる空気をひしひしと感じるが、先ほどの出来事に比べれば取るに足らない事象だ。

「ああ……そうだね」

 無論、借家の意味くらいは知っている。だが、それを口の出すほどの余裕がなければ、そんな立場ではないこともわきまえていた。

 門がないため表札は玄関に掲げられてあるもの、と思っていたが、玄関にもそれはなかった。さりげなくワカバの名字を知ることは、かなわないわけだ。ワカバ――という名をどう表記するのかも気になるが、いずれもが、今はどうでもよいことである。そうと判断できたのは、ここは安全圏である、と認識したからに相違ない。

 玄関は引き戸だ。鍵を開けたワカバに促され、慎太は玄関に足を踏み入れた。

 先に廊下に上がったワカバの背中に、慎太は三和土に立ったまま問う。

「一人で住んでいるの?」

 家族がいるとすればやはり気になる。どこの誰なのか、どんな関係なのか、ワカバの家族から質問攻めにされるのは避けたかった。

 振り向いたワカバが「うん、一人だよ」と答えた。その言葉どおりならば、彼女は学生ではないのかもしれない。

「気になる?」

 頭の中を見透かされたような気がした。慎太は息を呑んでしまう。

「あたしはフリーター。生活費とか家賃がヤバいときは、親に助けてもらっているの」

 そしてワカバはほほえんだ。

 個人の事情なのだ。名前の表記や名字を知ろうとした浅はかさを、慎太は悔いた。

 通されたのは六畳の和室だった。天板が長方形の小さな座卓が一脚、部屋の中央に置かれているだけだ。

 慎太の現在の住まいは集合住宅とはいえ、全室がフローリングであり、内装はこじゃれた趣だ。対してこの家は、築三十年以上の実家の雰囲気に近い。

 屋内でワカバと一緒にいるからなのか、そもそもが彼女の家だからなのか、甘い香りが濃度を増していた。

「食べ物も飲み物もたいしてないんだけど、牛乳なら冷蔵庫に入っているよ」

 料理が苦手な慎太でさえ冷蔵庫には食材や飲料品をそれなりに常備しているが、やはり、ワカバにはワカバなりの事情があるのだろう。

「とにかく座っていて」と勧める割には座布団さえなかった。

 慎太は座卓を前にして畳の上にあぐらをかき、背負っていたビジネスリュックを脇に置いた。

「水でいいよ」

 牛乳は飲む気になれなかった。とはいえ、極度の緊張からなのか、喉は渇いている。

 立ったままのワカバが、首を傾げた。

「水……って、水道の水しかないよ。コンビニに置いてある天然水とか買っていないし」

「水道の水で十分」

 自分が住むアパートの水道水をまずい、と思ったことはなかった。実家の水道水より、むしろ上等かもしれない。この借家の水道も慎太が住むアパートの水道と同じく、都水道であるはずだ。ならば、問題はないだろう。

「水道の水でいいんだ?」

 怪訝そうな色を浮かべるワカバだが、慎太が黙して頷くと、この部屋と繋がっている台所へと向かった。

 何もない座卓の上を見つめながら、慎太はゆっくりと深呼吸をした。甘い香りが脳の奥まで届くようだった。

 ふと、さきほどの出来事が慎太の脳裏をよぎる。

 アパートのリビングで異形の美琴と遭遇した慎太は、脱兎のごとく玄関へと走ったが、靴を履きながら振り向けば、首が右に折れ曲がった美琴が、ゆっくりと迫ってくるところだった。そして慌てて玄関ドアを開けると、目の前にワカバが立っていたのだ。「消えてよ」というワカバの一言でまたしても美琴は消えたのだが、さすがにそのときばかりは、一時的にでもほかの場所へ避難したい――と思うほどだった。玄関の外に出てドアをすぐに閉じた慎太は「やっぱり入るのは嫌?」とワカバに尋ねられ、それを認めると、「なら、うちへおいでよ」と誘われたわけだ。

「水、どうぞ」

 ワカバの声で慎太は我に返った。

 目の前に、水の入ったコップが置かれる。

「どうも」と力なく答えた慎太の向かいに、ワカバが腰を下ろした。慎太と同じくあぐらを組んでいるが、背筋を伸ばしたその姿勢には愛らしさがあった。

 ワカバの視線に気づいた慎太は、目を逸らし、コップを手に取り、口に近づけた。

 一瞬の逡巡があった。同じ都水道だとしても水道管が劣化していれば水の味は劣るはずだ。この家の古めかしさからしても、水道管が長期間交換されていない可能性はある。

 だが、異臭はなかった。とりあえず少量を口に含めば、むしろ、甘みさえ感じられるのだった。思わず、残りの水を一気に飲み干してしまう。

「おいしい?」

 そう尋ねるワカバと、目が合った。

「うん……おいしい」

 答えた慎太は、座卓にコップを置いた。

「あなたの名前、牧野慎太、っていうんでしょう?」

 いきなりそう振られて、慎太は目を剥いた。

「そうだけど、なんで知っているの?」

 これも霊能力なのか、と慎太は勘ぐった。

「だって、アパートの玄関先に表札があったもん」

 この家にはそれがない――と訴えたかったが、慎太は「なるほど」と肩をすくめた。

 コップを座卓に置き、ワカバを見つめる。

「少し落ち着いたし、アパートに戻るよ」

「もう帰るの?」

 気のせいか、ワカバの顔には寂しげな色が窺えた。

「だって、いつまでも居座るわけにはいかないよ」

「あなたのお母さん、また現れるかもしれないよ」

 一週間は出ない――という予想がはずれたのだから、出るも出ないも、美琴次第だろう。

「そのときはそのとき。なんとかなるさ」

 口をついた負け惜しみの勢いで、慎太は立ち上がり、ビジネスリュックを拾った。

 そんな慎太を、ワカバが呆然と見上げる。

「あしたかあさってにでも、お礼に来るから」

 言って慎太は、ワカバに背中を向けた。

「行かないで」

 いつの間に立ち上がったのか、ワカバが慎太の背中に抱きついた。

 言葉が何も出ない。

 左手のビジネスリュックが足元に落ちた。

 慎太の胸に回された二本の腕に、力が入る。

 甘い香りと圧倒的な体温が、慎太のすべてを包んだ。


 これが女の体なのか――と感慨にふける余裕などなかった。慎太にとっては初めての性交だったが、ワカバはむさぼるように激しく求めてきた。

 こういった経験のない慎太は、当然ながら避妊具など持ち合わせていなかった。ワカバがそれを持っているのかどうか、慎太には知る由もないが、少なくとも、彼女は最初から避妊する気などなかったらしい。

 慎太は動画や映画などで得た知識しかなく、前戯にせよ本番にせよ本能の赴くままぎこちなく動いたが、概ねはワカバがリードした。

 全裸の二人は畳の上で上になり下になり、揺れ合った。慎太は何度もワカバの中に放出した。

「あたしはほかの子と違っていつでも求めているの」

 耳元でワカバがささやいた。聞き違いかもしれないが、慎太にはそう聞こえた。

 ――ワカバはきっと経験ありだ。

 嫉妬ではなかった。当然のごとくそう思えただけだ。

 二人のあえぎが交差し、二人の汗が弾けた。

 甘い香りがほとばしる。

 そして、慎太は尽き果てた。

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