第1話 ②

 翌日と翌々日は何ごともなく過ぎた。

 三日後、金曜日の夕方だった。今にも降り出しそうな、曇天の空だった。

 定時で職場をあとにした慎太は、どこにも寄らずにアパートへとたどり着いた。

 あしたも休日出勤はない。これから日曜日にかけて、とりあえずは羽を伸ばせるだろう。

 玄関の鍵を開けた瞬間、慎太は「ひっ」と声を上げてのけ反った。

 慎太の目と鼻の先――玄関の暗がりの中に、美琴が立っていた。慎太と向かい合う彼女は、いつものごとく首が右に折れ曲がっていた。

 異形と化した母をこんなに間近で目にするのは、初めてだった。額の傷にこびりついた血は固まっており、白目の縁には目やにらしきものが付着し、かさついた肌には細かいしわが縦横に走っているが、そういった細部の状態を、これまでは把握していなかった。

 暗闇にくっきりと浮かぶ白目を慎太に向けたまま、美琴が両手をゆっくりと前に突き出した。

 乱れ放題の髪がわずかに揺れる。

 どうにか一歩、慎太が後退したときだった。

「消えちゃいなよ」

 女の声がした。もっとも、美琴の半開きの口は動いていない。

 いつの間にか、慎太の左に何者かが並んで立っていた。横目でとらえれば、三日前に帰宅途中で遭遇した、あの若い女だった。

 甘い香りが漂っていた。

「消えなってば」

 若い女は美琴に向かって言った。先の言葉を放ったのもこの女に違いない。

 玄関の中に視線を戻すと、美琴の姿が消えていた。

「あ……な、なあ……君は、今のが見えたの?」

 舌をもつれさせた慎太は、安堵と驚愕とをない交ぜにしたまま、若い女に顔を向けた。

「今の……って、今の怖い女の人のこと?」

 他人に自分の母をそう表現されておもしろいわけがない。そんな感情があるのを実感した慎太は、そのうえで彼女の言葉を妥当な質問と認めざるをえなく、「うん」と短く返した。

 状況からして、彼女が美琴を目にしたのは事実だろう。それを尋ねるほうが異常だ、とでも言いたげな顔を、彼女は慎太に向けていた。

「今の女の人、見えたよ。見えたから、消えちゃいなよ、って言ったの」

 妄想であってほしい、という願いが粉々に砕け散った。慎太の中にかろうじて存在していた母の優しい面影も、同時に砕け散ってしまう。

 そして慎太は、現実に引き戻された。

「君は、誰?」

 慎太のそんな問いに首を傾げる彼女は、今回もボトムは七分丈ジーンズだが、トップのロングTシャツは灰色だった。

「あたしは、ワカバだよ」

「ワカバ……」

 復唱した慎太は、名前よりも知りたいことがある、と気づいた。

「君はどうしてここにいるの?」

「この部屋にあの女の人がいるって、気づいたから」

 黒目がちの目が、慎太の顔を覗き込んでいた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「つまり君は……霊能者?」

 揶揄ではなかった。ゆえに、質問攻めにしている自分を恥じたりはしなかった。謎は一つでも明かしておきたい、という切羽詰まった気持ちもある。

「そうかもね」若い女は曖昧な趣で頷いた。「あの女の人は、あなたのお母さん?」

 霊能者ならばそれを知っても当然なのだろう。だが、ふれてほしくない部分ではある。

「たぶん、おれの母親……」

 認めたくない、という思いが残っているのは事実だ。ゆえにストレートな答えは出せなかった。

「たぶん?」と若い女が再び首を傾げた。

「さっきの女の人……おれの母さんは、また来るかな?」

 話を逸らす手段でもあり、慎太は一番気になっていることを尋ねた。

「わからない」女は言った。「でも、しばらくは来ないと思う。一週間、とかは」

 ならば、一週間ほど経てばまた現れるのだろう。

 慎太があからさまに肩を落とすと、女は「そのときは、またあたしが追い払ってあげるから」と付け加えた。

 追い払ってあげる、という言葉にも反感を抱いてしまうが、確認しておきたいことは、まだあった。

「えーと、君は……」

 若い女の名前を、慎太は忘れていた。聞いたばかりだが、状況が状況だけに、うわの空だったようだ。もっとも、確認しておきたいのは彼女の名前ではない。

「君は……どこに住んでいるの?」

 慎太が問いかけるのと同時に、黒目がちの双眼が慎太の背後――西へと向いた。憂慮を呈したまなざしだった。

 慎太が振り向くと、玄関ドアの並ぶ通路を一匹の猫が走り去るところだった。この暗がりでもそれが青灰色であることが、視認できた。

「ワカバだよ」

 その若い女が言った。慎太が正面に向き直ると、彼女は「あたしの名前は、ワ、カ、バ、だよ」と続けた。

「ごめん。じゃあ、ワカバ……ワカバはどこに住んでいるの?」

「この近く」

 答えてほほえみを浮かべたワカバが、「またね」と片手を振り、背中を向けて通路を東へと駆け出した。

 慎太は呼び止めようとしたが、ワカバはアパートの角を駐車場のほうへと曲がってしまう。

 甘い香りが徐々に薄くなっていった。


 月曜日の午前十時五十五分。

「おい牧野、頼んだのは十一台だ。十台しかないじゃないか。一台足りないぞ」

 剣のある声が慎太を襲った。

 企画書の原案が表示されているノートパソコンの画面から顔を上げれば、かわむらとしが冷ややかに慎太を見下ろしていた。この原案の作成者こそが川村なのだから、てっきりその話かと思った。川村からの指示を受け、このフロアに隣接した会議室にカートを使って十台のタブレット端末を運び込み、それらをテーブルに並べたのは、事実であるが――。

「おれの指示、ちゃんと聞いていたのか?」

 問われて慎太は「参加者は十人、って」と答えた。

「最初はそう言ったけど、そのあとで、一人追加になった、と伝えたはずだ。しかも、ここでだ」

 川村は自分の足元を右手で指さした。

「おれはな」川村は続けた。「わざわざおまえの席まで来て、そう伝えたんだぞ」

 今になって思えば、確かに、取引先からのメールを確認している最中に川村から何かを指示された。

「すみません。メールのチェックに気を取られていて……」

「言い訳はいい。会議まであと五分だ。足りないぶんを一分以内に準備してくれ」

 川村はため息をついて背中を向けると、会議室のほうへと歩き出した。

 注意する暇があるのなら自分でやったほうが早いのでは――と思いつつも、慎太は立ち上がり、タブレット端末などが収められている備品棚へと向かった。

 たかが三期――といえども、川村は先輩だ。しかも彼は優良社員であり、そのうえ、威圧感があった。少なくとも慎太にはいつも強く当たる。うだつが上がらない慎太ごときでは逆らえるはずがないのだ。

 慎太を畏縮させるのは川村だけではなかった。上司やほかの先輩たちも毎日のように小言を突きつけてくる。最近では同期からも叱責されるばかりか、後輩からの白い目も感じられた。口の悪い同期の何人かが「雑用の牧野」と陰口をたたいているのは、すでに知っている。後輩たちに追い抜かれるのも時間の問題だろう。慎太にとって三階のこのフロアは、辟易とする時間だけが流れる場なのだ。

 もっとも、ここ三週間ほどの憂鬱は、亡き母が元凶であるのは間違いない。ワカバというあの女は、「あと一週間は現れない」と告げていた。しかし、今このときにも凄惨な姿の母が目の前に立ち塞がるような、そんな気がしてならなかった。

 一台のタブレット端末を右手に持って、慎太は会議室へと小走りに進んだ。

 会議室のドアは開いていた。外から見える席に着く川村が、腕を組んで慎太を睨んでいる。

 ドアの外で立ち止まった慎太は、またしてもため息をつきそうになるが、どうにかこらえ、一礼をして会議室へと足を踏み入れた。


 孤独ゆえ、悩みを相談できる者は身近にいなかった。お悩み相談系のサービスは、それを利用する行為自体に羞恥心が芽生えてしまう――否、悩みが仕事関係だけならば、羞恥心を持ったままでも該当のサービスを使う甲斐はあるかもしれない。だが、常軌を逸した現象が一番の悩みなのだ。ならば心霊現象専門の相談サービスを利用するべきなのだろうが、心霊現象、という言葉自体に、慎太はうさん臭さを覚えてしまうのだ。自分でそんな目に遭っておきながら――である。

 相談相手で思いつく人物は、実家の父だけだ。しかし、仕事の悩みでさえ自分の父には打ち明けられない状態である。まして、亡き母のあの異様な姿が悩みであるとは、口が裂けても言えない。

 幼い頃から、慎太は父と距離を置いていた。地方公務員である仕事一徹の父は、少なくとも家庭内では寡黙であり、暴力こそ振るわないものの、近寄りがたい雰囲気を醸していた。一人っ子の慎太だが、父にかわいがられた記憶は、どうしても見つけ出せない。

 午後の一番に「会議の準備くらい抜かりなくやれよ」と川村からの追撃で打ちのめされた慎太は、企画書の原案の校正作業に手こずったおかげで、この日は久しぶりの時間外労働となった。もっとも、残業は一時間で済み、高水準の仕事にいそしむ優良社員たちを尻目に、職場をあとにしたのだった。

 帰路の途中も玄関のドアを開けたときも、美琴が現れることはなかった――が。

 リビングに入った慎太が照明のスイッチを入れると、煌々とした明かりの下、部屋の中央にたたずむ美琴が、二目と見られぬ容貌をこちらに向けていた。

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