ワカバの香り

岬士郎

第1話 ①

 彼女の姿はほかの者の目には映らない。最初からわかっていたことだ。そして彼女が誰であるかも、まきしんはやはり最初からわかっていた。

 初めのうちは、上司や先輩、同僚など、社員たちの肩越しに慎太の目に入っていた。離れた位置に一瞬だけ見え、確かめようとしても、いつの間にか姿を消していた。毎回決まったようにオフィスでの仕事中だったが、二週間ほどが過ぎると、彼女はオフィスだけではなく、社屋内のほかの場所や社屋の外にも現れた。バスの車窓に見える歩道を歩いていたり、歩行中に歩道の先を横切ったりした。やがて、自分の住むアパートの近隣でも彼女を目にするようになった。

 慎太のかけがえのない温かく懐かしいそんな思い出の諸々が、どす黒い闇で塗りつぶされていった。


 火曜日の夕暮れ。会社員や学生らでひしめくバスから降りた慎太は、同じバスから降りた十人ほどの人々が四方に散っていくのを尻目に、晴れ渡った空を仰いだ。天空の大部分は濃い青だが、西のビル街の上空は鮮やかなオレンジ色だ。

 秋の半ばの空気は乾いていた。バス車内の冷房から隔絶されたが、上下スーツという装いには暑さも寒さも感じられなかった。

 顧みれば、仕事、人生、日々の生活――何もかもに流されているだけだった。小学校、中学校、高校、大学と、それぞれに友人はいたが、現在でも交流のある者は、一人もいない。あまつさえ、これまでの人生で異性と付き合ったことなど、一度もなかった。サッカーや釣り、ゲームなど、いくつかの趣味があったような気がするが、はたして本当に楽しんでいたのだろうか。自分に生きがいなどあるのだろうか。無論、二十五歳にして自分の人生を嘆くなど愚昧であるのは、承知のうえだ。

 西の空のオレンジ色が切なかった。目が覚めるようなその色は、慎太にむなしさをもたらすだけだった。

 そんな夕焼け空を忌み嫌いかけたとき、車のクラクションによって、慎太は現実に引き戻された。

 片側二車線の車道を行き交う車の群れ――そのどれかが慎太の虚無感を一時的にでも破壊したに違いないが、どんないきさつでクラクションが鳴ったのか、別次元の問題だったようだ。少なくとも慎太が見る限り、車の流れに滞りはない。

 通りのこちら側も向こう側も、歩道を行き交う人はまばらだ。しかし、車道には車があふれていた。同じ都会でも、わずかに位置がずれると風景はまるで異なる。マンションやアパートが建ち並ぶ界隈とビジネス街との狭間――このポケットのような一角は、人も車も通り過ぎるだけだ。止まっているのは自分だけ――そんな強迫観念を振り払った慎太は、自分の住居であるアパートに向かって歩き出した。

 通りから外れ、大きな公園と総合病院との間に延びる歩道へと入った。ここも人の姿は少ないが、それでも目につく人々に幸薄き気配は感じられない。そんな様子を認めただけでも虚無感はぶり返しそうだった。慎太は歩道の路面に視線を下ろし、人々の活気を自分の視野から追い出した。しかし、背中のビジネスリュックの軽さが現実を繋ぎ止める。

 第一志望の食品メーカーに入社して、三度目の秋だ。商品企画部門に配属されたが、これまでのところ、大きな仕事は任されていない。最近では「永遠に任されることはないのかもしれない」などという悲観的な認識さえあった。就職活動において兜の緒を締めたあのときの自分はなんだったのか――。

 またしても懊悩に陥った慎太は、目の端――右のほうに夾雑物をとらえ、思わず足を止めた。

 そこは歩道というよりも路地だった。右は総合病院別館の裏面壁であり、左はマンションの塀だ。二十歳前後とおぼしきその若い女は、両膝を抱えて座り込んでおり、背中を病院の壁に押しつけたまま、黒目がちの目で、不思議そうに慎太を見上げていた。

 大きな安堵から「違った」と言葉にした慎太は、一瞬のあとに、ばつの悪さを覚えた。

「違った……って、なあに?」

 鈴の音のような、高めの声だった。

 香水なのだろうか――甘い香りが慎太の鼻腔に届いた。

「あ……いや……おれは……」

 答えようがなく、慎太は言いよどんだ。

 若い女が立ち上がった。

 背丈は慎太より低く、かつ、ほっそりとしていた。もっとも、出るところは出ており、それが慎太の目を引いた。マッシュショートという髪型が、その容貌や服装と相まって、彼女を華やかに演出している。とはいえ、ロングTシャツに七分丈ジーンズという出で立ちは、季節外れかもしれない。

 女が首を傾げた。

「あたしを誰かと勘違いした?」

 声も目つきも慎太を誘っているかのごとくだった。

 しかし慎太は、甘味な幻想に浸ることができず、己を律した。見ず知らずの者にかまう必要はない。肯定も否定も口にせず、女から目を逸らし、帰るべき方向に正面を向けて歩き出す。

 追いすがる気配はなかった。

 甘い香りが、遠くなる。

 振り向いて確認をするなど、したくもなかった――と言えばうそになるだろう。その女が魅力的なのは事実だ。気にはなる。ゆえに、足音が追ってこないのも背中に声をかけられないのも、小さな落胆だった。


 築五年のその二階建てアパートは外観とたがわず内装もこじゃれており、入居者は三十代前後の若い男女が多かった。慎太が知る限りでは独身者ばかりである。そんな彼らとは、顔を合わせれば挨拶をする程度の付き合いしかない。

 玄関は北向きであり、このアパート専用の駐車場に面する南側は、一階のベランダと駐車場とを目隠しフェンスが遮っていた。駐車場の東側から玄関の並びに回り込み、六つあるうちの手前から二つ目になるドア――自分の住戸の玄関を前にして、慎太は立ち止まった。

 ズボンの右ポケットから玄関の鍵を取り出した慎太は、ふと、通り過ぎたばかりの左方向に気配を感じた。

 先ほどの若い女だと思った。うぬぼれであるのを自覚しつつ、ため息を落として投げやりな態度を装い、顔をそちらへと向けた。

 夕暮れどきであるだけではなく、アパート本体の影に入っているという現状もあって、視界の大部分は闇に近かった。それでも彼女ははっきりと姿を見せつけており、慎太は息を呑んだ。

 彼女は慎太の住戸の隣――東の端の玄関前でこちらに正面を向けて立っていた。彼女がここまで来たのは、初めてだった。

 慎太の全身は硬直していた。北側の格子フェンスを乗り越えて逃げるのはもちろん、通路の反対側へ逃げることも玄関ドアを解錠することもできなかった。

 だが、彼女も動く様子を見せない。慎太と向かい合った状態で立ちつくしている。

 先ほどの若い女とは異なり、スタンドカラーコートやウールスカートなど、彼女は冬の装いで身を固めていた。コートはフロントを閉じてあるのだから、なおのことこの気候においては暑そうだ。しかし、そんな気がかりは意味を持たない。乱れ気味の長い黒髪、縦に裂けた額の傷、半開きの口、白目を剥いた双眼、右に九十度屈曲した首――といった異様な見かけに加えて、慎太を闇のどん底に突き落とす最悪な問題があるのだ。

「母さん、もうやめてくれよ……」

 慎太はつぶやいた。

「こんばんは。どうしました?」

 若い男の声を耳にして、慎太はそこに立っているのが異形ではないことを知った。

 ハンドバッグを左の小脇に抱えたスーツ姿の男だった。隣に住む青年だ。会社員のようだが、ざきという名字以外は、彼についてはあまり知らない。通勤通路も違うため、接点はほぼないのだ。

「こんばんは……。ああ、あの……なんでもないんです。ちょっと考えごとをしていて」

 その場をしのぐための台詞として適切だったのかどうか怪しいものだが、ほかに何も言葉が浮かばなかった。

「そうですか」

 腑に落ちない表情を呈しつつも、木崎は会釈をすると、自分の住戸の玄関を開けて中に入ってしまった。

 その玄関ドアが閉じられ、慎太は薄闇に取り残された。

 いずれにせよ、あの異形は隣の玄関先まで来てしまったのだ。次に現れるのはこちらのドアの前か、それとも内側か――。

 鍵を持つ右手が小刻みに震えていた。


 玄関に入ってからは――入浴中も軽めの夕食の最中もトイレの中でも、常に周囲に意識が向いていた。そして、テレビは点けず、スマートフォンでのネットサーフィンもせず、早々にベッドに潜り込んだ。

 ここ数週間は残業も休日出勤もなかったが、疲労感はぬぐえなかった。あの異形が慎太の前に姿を現すようになったのは二カ月ほど前だが、この疲れはそれ以来ずっと続いている。

 慎太の前に姿を見せる異形――それは、慎太の母――慎太を産んだ牧野ことだった。

 美琴が鬼籍に入ったのは彼女が三十八歳のときだ。異形と化した彼女は、他界した当時の見た目年齢のままであり、その服装に至っては本人の愛用品である。とはいえ、荼毘に付される前の美琴は、首は折れ曲がってなどおらず、表情は穏やかだった。実年齢よりも若く見える美しい母――そうだったはずだ。

 異形と化した美琴は、職場、社屋の外、アパートの最寄りのバス停、総合病院の近く、アパートの近く――と次第に現れる位置を変えてきたが、ついに慎太の住戸の前まで来てしまった。

 ほかの者の目には見えないのだから、当初の慎太は「自分自信の妄想である」と決めつけていた。日頃の不平不満がそんなありもしないものを見せているのだ――と。しかも、母に恨まれる覚えもないのだ――否、七年も母の墓前に出向いていない、という後ろめたさがあるのは、事実だった。

 いずれにせよ、母――美琴の様相を見れば、我が子愛しさで会いに来ている、とは思えない。半開きの口は決まって一言も紡がないが、今にも意趣を吐き出しそうだ。ゆえに、現実であるとは考えにくいのである。

 しかし、あの美琴には現実味があった。目を凝らせば、乱れた髪、額の傷にこびりついた血、半開きの口に垣間見える歯、それらの存在感が伝わってくるのだ。

 慎太にのみ見える姿――それが妄想でないとすれば、何ゆえに姿を現すのか。そして何ゆえにあのような姿を見せるのか。

 孤独な闇の中で、慎太はいつまでも小さく固まり、震えていた。

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