第6話 月宮ー帰り。
キスをされた。
正確に言えば、唇の横を舐められた。
勿論、今までの人生でキスされた経験がないわけではない。幼い頃、母親や今は亡き父親に可愛がられていたという意味でのキスはされていた、ような気がする。物心つく前の話なので覚えてはいないが。
しかし、それはあくまでも愛情としてのキスだ。可愛くて仕方のないものへ愛を伝えるための口付け。
ついさっき、私がされた行為には愛など微塵も籠っていなかった。そこにあったのは、明らかな悪意と揶揄い。
唇の横に残ったぬるりとした感触が気持ち悪い。毒でも塗られたかと思うほど、ヒリヒリと痺れる。
「……ああなるってことなのかな」
確かに、陽川さんの台本通りにしなかったのは紛れもない事実。
今日最後に残っていた『王子様』としての演技、それを思い出すだけでも頭が痛くなる。
『どんな形でも良いから、陽川千影を口説く』。
何を考えているのだろう、台本を読んだときの率直な感情はそんなものだった。ただ約束は絶対、というわけではないけれども、私なりに精一杯陽川さんを口説こうとした。朝に陽川さんを見た時、移動教室の時に陽川さんを見つけた時、陽川さんの腕を掴み、わたしなりの口説き文句を囁こうとする。それなのに、陽川さんは逃げていく。
求めていることとやっていることが全く逆だ。追えば良かったのだろうか。逃げようとする陽川さんを抱きしめて、無理矢理にでも愛してると言ってやれば良かったのだろうか。
でもそれを陽川さんが良しとするわけがない。
だから放っておいた。わたしが出来ることkら逃げた陽川さんを置いて、私を『王子様』と呼んでくれる他の子たちに応えるために。
その結果が、あれだ。理不尽な言いがかりと、意味の分からない行為。キス……ではないと思いたい。あれが陽川さんなりのキスだとしたら、わたしはどうすれば良いか分からなくなる。
「……あ」
気が付いたら学生寮の入り口が近かった。近くに生えている、ちょうど「ここに身体を隠してください」と言わんばかりの大木に身を隠し、入り口に誰もいないのを確認する。
出て行く時にたむろしていた人たちは各々が自分の部屋に帰ったのか、ガラス張りのドアから見える中はがらんとしていた。
「……そもそも、あの人たちがいたのも悪かったし」
無意識に口から愚痴が漏れる。そして両手で口を隠し、今自分が思わず言ってしまったことを反省する。
こんなことを言うのは、『王子様』ではない。
長袖のパーカーを脱ぎ、小脇に抱える。夏にこの服は堪える。堪えるが、姿を隠すためだから仕方ない。マスクを外すと、お世辞にも涼しいとはいえない生暖かい風が、それより火照った私の頬を撫でてきた。思っていたより汗をかいている。
始めは気持ち悪いと思ったが、汗をかいて帰ってくれば、部屋に戻るまでの間、誰かに見られたとしても「少しその辺りを走っててね」と言い訳が出来る。案外悪くない衣装だ。
レンズの分厚いメガネを外し、パーカーで包む。下に来ているのはジャージ、自分で言うのもなんだが、『王子様』らしさが引き立って良いと思う。汗も相まって、爽やかに見えるのではないか。メガネとパーカーを外しただけで、入浴前に一汗かいてきた王子様の登場だ。
しかし。
一気に視界がぼやける。寮の名前が大きく書かれている筈の看板すら輪郭が上手く捉えられない。
かといって、少しでも視界をまともにするため目を細めてはいけない。私がメガネをかけていることは学園の誰も知らないし、知られてはいけないからだ。唯一、陽川さんだけは知っているが。
…………。
あの人は、わたしが知られたくないことを全て知っている。わたしのことを嫌っているか、少なくとも好意的な感情を抱かれていないことも何となく察している。
なのにどうして、わたしが約束を願えば『王子様』を演じるための台本を書いてきてくれて、学園の誰にもわたしの本当の姿を漏らさないのだろう。
分からない。
分からないのが怖いと感じたことは沢山あるが、陽川さんから感じる恐怖は思考と行動のちぐはぐさ、矛盾しているところだった。
わたしはあの人が怖い。
けれども、陽川さんがいないとわたしはもう、『王子様』を演じることはできない。
「どうして、こうなったかな……」
木に額を押し付け、俯く。事の始まりは、入学式やら自己紹介が全て終わった登校初日。わたしが『王子様』を演じ始めた最初の日。
わたしはそこで陽川さん……。
陽川千影と出会った。
嘘を着せて、月は照る 侑雲空 @no_fly_life
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