第5話 遅れた約束③
俯いたまま動かない月宮の代わりに、私の方から歩み寄る。
台本の内容は全て覚えている。今日月宮に渡そうと思ったシチュエーションも、その時にすべき行動も、最後のキメ台詞も、全て私の頭に入っていた。それはこの関係になり、月宮に台本を渡し始めた……月宮に『王子様』のヴェールを着せ始めたあの日から、ずっと。
俯いている月宮の顎、私の目線よりも高い位置にあるそこに手を添える。私よりも頭一つは高いであろう月宮の身長が、私にとって役立つ日が来るとは思いもしていなかった。
「何を俯いているんだい?」
出来るだけキザに、出来るだけ低い声で、私は月宮へ囁く。
「……え?」
「ほら、こっちを向いて」
私がいきなりとった行動に、思わず間抜けな面を向けてきた月宮を無視して言葉を続ける。
「キミのような可憐な華が、空を見ずに項垂れるのは勿体ない」
そう言って、私は優し気な笑みを浮かべる。そんな私とは真逆に、月宮は私が今何をしているのかを理解したのか、サッと青ざめる。先ほど自分が承諾した『条件』がこんなにも早く始まるとは思いもしていなかったのだろう。
「あ、え、あの」
月宮が私より背が低ければ、私が月宮より背が高ければ、きっと月宮は私を見上げ、私は月宮を見下ろしていた。だが現実、互いの身長差は真逆であり、王子様を演じている私が月宮を見上げ、王子様を享受する月宮は私を見下ろしている。
まあ、他の生徒に混ざっていても目立つような身長だからこそ、月宮は王子様を演じられるのだが。
「ほら、暗い顔をしないで……ボクと同じように、笑顔を浮かべて?」
台本に書き連ねた台詞が自分でも驚くほどすらすらと出てくる。普段浮かべないような優しい笑顔も、出さないような甘く低い声色も、月宮の頬を撫でる手の優しさも、全くと言っていいほど躊躇いなく出てくる。
私は今、私の嘘を着ている。月宮のために作ったオーダーメイドの嘘なのに、私にもピッタリと纏わりついてくる。この嘘を作った人間だからか、それとも本当は月宮には合わない嘘なのか。
私が言葉を投げかけても、月宮の表情は微塵も変わらない。岩や壁に話しかけているような感覚に陥る。
けれども、私が撫でた頬は生暖かく、目の前にある月宮の瞳……分厚いレンズで大きく拡大されても、美しさを覚えるそれは、何度も瞬きによって私の視線を遮っている。本当はその瞼を強く閉じて、私の視線を遮りたいだろう。
「……ふふ、どうやら此処に咲き誇る華は、恥ずかしがり屋さんみたいだ」
そして私は、月宮へと更に顔を近づける。互いの吐息は見えずとも絡まり、相手の瞳しか見えないほどに輪郭はぼやけ、互いの間に生暖かい空気が産まれる。
……。
それでも、微塵も変わらないその表情。
だから。
「……ぇる」
舌を小さく伸ばし、月宮の唇……既にメイクが落とされているそこの『隣』。唇の端を舌で舐める。舌と手が持つ体温、その差がそれ程離れていないせいか、私の舌の方が熱いからだろうか。外の熱気にあてられ、火照っているはずの月宮の肌、その体温は舌先から伝わってはこない。味も、香りも何もない。ただ滑らかな、彫刻を舐めた気分。
なのに、舌先は嫌に痺れる。嫌になるくらい痺れる。舐め上げた箇所に私の唾液がこびり付いているのを見て、美しい何かを穢したような背徳感よりも、自分の後を月宮に残した嫌悪感が勝つ。
「ッえ……!?」
大きく身体を跳ねさせながら、月宮の表情はようやく変わる。それと同時に、頬を添えていた手を払いのけられ、ついでのように台本を奪われる。今日渡す予定だったページを開くと、目を大きく見開き、台本と一緒に睨みつけるように糾弾してくる。
「こ、こ、こんなこと、書いてないじゃないですかっ!」
「あ、そうだっけ?」
とぼけたようにケラケラと笑う。勿論、こんなことが書いていないのを私は覚えていた。頬を朱に染めるわけでもなく、何か恥ずかしがるわけでもなく、目の前にいる王子様の行動を、ただ何をされているか分からない呆けた表情のままでいる月宮のせいだと言われれば、私は間違いなく首を縦に振る。
勿論、唇を舐めてはいない。あくまでその横を舐めただけだ。
「なんで、覚えてるで、覚えてるじゃないですかっ!いつもっ!今日だって私のやってないことも」
「だからだよ」
「……私が、真面目にここに書かれた……」
一呼吸おいて、月宮が声を放つ。
「ここに書かれた……『王子様』をちゃんと演じていなかったからですか……」
「分かってんじゃねえか」
放たれた問いに、間髪入れず答えを返す。
「……っ」
私の答えを聞いた月宮の顔が一気に朱へ染まる。先ほどの流れで欲しかったものは、恥じらいや照れを伴ったものではなく、明らかな敵意と警戒心を持って私へと向けられていた。
そして、鞄から奪ったノートとは別の背表紙……何冊か月宮に渡した台本の内、二ヶ月ほど前に渡したそれを無造作に投げてくる。
当然キャッチする義務などない。床に落ちた台本を見て、月宮を睨む。
「……」
そして、月宮も私を睨む。
「……帰ります。今日は……最悪でした」
「おい」
「でも、わたしは……これが無いと、もうダメなんです……ね……」
頭を下げ、「ありがとうございます」と小さく、小さく呟き、月宮は私の居場所から去ってしまう。
走るような音も、怒りに身を委ねきったような大きな足音も聞こえない。ただ、歩く音だけが遠ざかっていく。
やがてそれが聞こえなくなってから……私は床に落ちている二ヶ月前の台本を拾い上げた。
月宮の頬を、唇の横を舐めた舌先は、絡まった吐息を吸った鼻腔よりもずっとピリピリと、甘く痺れ続けている。
「……クソが」
小さく悪態をついて、鞄へノートをしまい、周囲に人がいないのを確認して帰路につく。
帰っている最中も、帰った後も、寝るまでも、ずっと甘くもなく、苦くもなく、しょっぱくもなく、ただ痺れだけが私の舌先に伝わっている。何度も口をゆすいだのに、痺れだけは止まらない。
「………」
溢れ出す痺れを情報の渦で鎮めようと、スマホのスリープモードを解く。
『ありがとうございます』、月宮のメッセージが一つだけ画面に写っていた。
「………もっと言うこと」
『あるだろうが』、そう言いかけて、頭からタオルシーツを被り、全身を覆い隠す。いつもは心地よく感じる冷房の風が、とんでもなくうざったるい、嫌な夜になった。
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