第5話 遅れた約束②

 ……数秒、だっただろうか。お互いの間に沈黙が流れる。


 ゆっくりと漂っていたそれは、明らかに月宮が困惑しているのを表していたし、私も月宮が何かを言うまで沈黙を消すつもりにはならなかった。


 例えばここで月宮が馬鹿馬鹿しいと思い、漂う沈黙をそのままに部屋を出て行こうとすれば、今の関係は無くなるだろう。それは私への明確な拒絶であり、『王子様』とやらを辞めるための一歩目に過ぎない。


 けれども月宮は動かない。そして、何も喋らない。私はじっと月宮の顔を見続ける。額に浮かんだ汗が、月宮の眉を伝い、瞳へと零れ落ちそうになった時、ようやく瞬きをした。それと同時に、もごもごと口を動かし始める。


「どういう……こ、とですか?」

「そのまんまの意味、もう一回言おうか?」

 私がそう返すと、月宮は小さく首を横に振る。どうやら私が発した言葉の意味は理解しているらしい。

 そして分からないのは恐らく、何故私がいきなりそんなことを言い出したか、だろう。


「……どうして、そんな」


「『そんなことを提案するんですか?』とかか?」

 自分が言おうとしたことそのままだったのか、それとも近いニュアンスだったのか、どちらにせよ月宮は口を閉じ、私を見つめてくる。

 その目は先ほどまでの縋るような、申し訳なさそうな、後ろめたさではなく、明らかな警戒を湛えている。月宮のこういう目は嫌いではない。


「この約束を始めてから半年経っただろ。何回かお前が王子様を演じているのを見てきたけど、時々私が書いていることをそのままやっていない時がある」


 そう。約束とは、月宮がこの学園で『王子様』を続けるために行うための、それらしき行動をまとめたもの。

 箇条書きで適当に行動を羅列し、渡した時もあったが、その時は渡した次の日には『約束』を取り付けられた。


 それからは月宮が王子様を続けるため、演じるために相応しい言動をいくつか台本形式で渡すようにしている。台本形式と言っても物語を描くわけではない。「こういうシチュエーションが来たらこういうことをして、キメ台詞としてこれを言え」といった具合のものだ。


 例えば今日、月宮が自分を取り囲んでいた有象無象の内の一人……名前も顔も思い出せない女子生徒に対してやった顎クイ。あれはキメ台詞こそ台本通りだったが、本来『唇に人差し指を添えろ』と書いてあったはずだ。


 それなのにも拘らず、月宮は顎に手を添え、クイと近づける程度に終えた。結果として女子生徒の顔は真っ赤になり、周りの奴らもきゃあきゃあと喜んでいたが、私は納得などしていなかった。私が月宮のために書いた台本をやったらどうなったのか、月宮が勝手に変えた行動の方が喜ばれていたのだろうか。


 確かめようのない『もしも』を考えるだけでも嫌気が差す。自分が着せている嘘のヴェール、それが無くなれば、海上でコンパスを失った船のように浮かぶことしか出来ず、波に流され、いつかは沈むだけの癖に、何も思い浮かばないという癖に、自分が気に入らない、やる度胸のないものは私が見ている前でも堂々と異なった行動を取る。


 ちぐはぐだ。こいつは。


「今日のやつだって、ちゃんとやってないだろ」

「あ、……あれはその、いざ、やるとなったら」


「もういい」


 続く言葉があまりにも簡単に想像出来るので、月宮の返答をそこで切り上げる。

「とにかく……とにかく。なんでやらないのか、どうして出来ないのか、そんなのを責める気はねえって」

「…………」

 月宮の瞳には警戒の色だけではなく、疑問の色が混ざり合う。読書用の小さなライト、お互いの瞳を確認し合うのには余りにも心許ない光の癖に、月宮の色はハッキリと分かる。


 それを見て、綺麗だと思ってしまう。美しいと思ってしまう。


 そして月宮から見て、私の瞳がどんな色を湛えているのか気になってしまう。


 そんな自分の気持ちと、物理的に月宮から目を逸らすため、鞄から今回の台本を取り出す。青表紙のどこにでも売っている簡単なノート。それが私と月宮を繋ぐ約束の大部分だった。


「私が創り出した王子様が無いと駄目なくせに、勝手に変えているのが気に入らない」

「……う」

 呻くような月宮の声、図星と言わんばかりに一歩後ずさる姿が、更に気に食わない。


「今日なんて開き直って、私の目の前で変えやがって……」

 そう言いながら手に持っていたノートを大きく開く。勿論、中身は月宮には見せない。


 表紙の方だけを見せて、両手でノートの両端を掴んだ。

「これ、破いても良いんだぞ。ここで。お前の目の前で、約束も全部無くして良い」


 月宮が大きく目を見開き、私にゆっくりと近づいてくる。まるで草食獣へ襲い掛かる前の肉食獣。先程の月宮みたいに後ずさりたいが、私の後ろにはソファと壁しかない。一つ月宮の王子様を狂わせるような言動をしただけで、これだ。どんなに恐ろしい猛獣だって、威嚇だのなんだの挟むだろう。月宮という人間、月宮という存在は、そんな猛獣よりも狂暴で、私が創り出す『王子様』に固執している。


「それは……っ!だめです……っ!」


「なら」


 ノートを閉じ、目の前にいる肉食獣へ一つ歩み寄る。

「さっきの条件を、飲めよ」

「……は、」


 『はい』の代わりに、月宮が力なく頷く。私は草食獣ではない。

 猛獣を躾ける、調教者。もしくは、その命を握っている処刑人。その餌や水に毒をいつまで混ぜることが出来るし、いつでも息の根を止められる。


 私とコイツは、対等なんかじゃない。ずっと歪な関係だということを、今ようやく思い出した。

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