第5話 遅れた約束①
「遅ぇっての」
「あ、う、ぇお……」
器用に母音だけをぼそぼそと呟き、口をもごもご動かしている姿に苛立ちが更に募る。
『そこまで言えるのなら、『い』も発音しろよ』と言いたくなったが、それを言ってしまうと月宮は更に畏縮し、遅れた理由を聞き出すのにここから十数分はかかることだろう。
半年。月宮との『約束』を少ない時は月に1~2回、多い時は週に3~4回繰り返してきた結果、普段の王子様とはかけ離れた言動や性格にも慣れてきた。悲しいことに。
分厚いレンズの先にある瞳は海を思わせるほどに揺れている。その焦点が私に合うことはない。覆い被されてるのかと勘違いするほどに曲がった背筋は、いつかこれのせいで腰や背中に不調を覚えてそうだと感じさせる。そしてなにより、先ほどから発している呻き声は、まだこの学校が陽に晒されてた時、私へ声をかけた人間と同じとは全く思えないくらいに震え、澱んで、小刻みに震えていた。
「なんで」
私が一声、たったの数文字を発するだけで、その大きな体が大きく跳ねる。釣られた大きな魚に見える。地上に揚げられたその身体は心地の良い水中から呼吸が出来ない地上へと引きずり出され、苦しそうにビタビタと痙攣しているのだろうか。
「……はぁ。なんで遅れた?」
「あの、寮の入り口で、ほ、他の子たちが集まって……集まっ、てて……」
「……」
「だ、っ、だからあの、その子たちが、いなくなるまで、待って、ず、ずっと見てて」
言葉を発するごとに更にぶれていく焦点は、段々と私の顔を見なくなっていく。個人的に責めているつもりはない。ただ、何故遅れたのか理由を聞きたかっただけなのに、たったそれだけなのに、どうしてこんなにも揺らげるのだろう。
「見られてないな?」
「え」
「寮から出てくとこ、その邪魔な奴らが失せるまでずっと見ていたとこ、誰にも見られてないよな?」
遅れた理由に対して不満は無い。厚手のパーカーを着た寮生、しかも他とは違い頭一つ背の高い人間が夜の学校に向かうため外出するところなど、見られたら一瞬で噂になるだろう。
そうだ。噂になっても、今の『王子様』ではない月宮の姿を誰にも見られるわけにはいかない。
「み、見られてないと……思い、ます。多分、き、きっと……!」
「根拠は」
「わ、わたし、隠れるの得意だったんで、す。保育園の時とか、大きかったけど見つからなくて……」
へらへらと媚びるように笑いながら、聞いてもいないエピソードを語り出す。見つからなかったのではなく、見つけてもらえなかったのではないかと言いたくなる。緊張感も何もないその姿に苛立っているからで。何より、そんな幼い頃の経験があるから絶対誰にも見られていない結論には至らない。
小学生の時にやったテストの問題文を覚えていて、高校生のテストで似たような問題が出てきたから同じ解答を書くような。過去と今の結びつきが解けることなく、縋って生きている様。この半月、月宮のこういった姿を私だけが見て、知っていた。
「帰れ」
「……え」
「帰れって、見られてない根拠無ぇんだろ」
「え、え、えっ、あ、あえ」
話を聞く限りだと、月宮はご丁寧に寮の正門から出ている。ついさっきまで人がたむろしていた場所から、だ。
何故そこで裏口だったり、別の出口を探したり……ああ、もう何でも良い。とにかく、「馬鹿正直に寮の入り口から出た」という事実が私は気に食わなかったし、ある種の懸念を覚えていた。
居場所……いつも約束に使っている廃教室の入り口で全く動こうとせず、口をあわあわと動かしている月宮を尻目に、ソファに投げた鞄を肩にかける。背丈は高いが、横を擦り抜けられないほどではない。見棄てるように横を通り過ぎようとすると、いきなり腕を掴まれた。
「痛っ……!」
昼に掴まれたよりも強い力で、私がそこから居なくなろうとするのを止めてくる。それどころか、腕を引っ張って廃教室の中へと私を連れ込む。振り払おうとしても、私よりずっと強いその力に逆らうことが出来ない。そして、今掴まれている腕の位置が、今日踊り場で掴まれた場所と同じことに気が付く。
その時よりもずっと強引で、湿っていて、まるで夏服を通り、肌から月宮に蝕まれる感覚に陥る。
「なっ、にすんだよ」
「や、くそく」
「あ!?」
「約束、したじゃないですか。しましたよね、今日、新しい『王子様』を用意して、わたしに教えてくれるって」
「だから、今日は出る時に見られてるかもしれねえんだろ……。だから、また別の……」
そこまで言って、息を呑む。
月宮は私の腕を掴みながら、もう片方の手で顔を覆っていた。指の隙間から見える目は瞳孔が開き切っており、手で隠しきれていない口角は不気味に上がり、ヘラヘラと笑いながらも頬は痙攣を続けている。
「ダメなんです。だ、ダメなんです。わたしにはもう、陽川さんの書いた『王子様』が無いと、『王子様』を続けられないんです。どうして、どうして帰るんですか、わたしの頭にはもう陽川さんの『王子様』しかなくて、何か考えようとしても何も出てこなくて、ふ、ひっ、出てこないんですよ。少女漫画とかたくさん読んで、この学園でやろうとしたことを頭にたくさん入れて、その日だけじゃ使いきれないくらいの『王子様』を用意したのに、もう何も、あはは、何も出てこないん、ですよ」
息継ぎをせず、じっと私を見つめながら時折自嘲する月宮の姿は、全く以て『王子様』を感じさせない、寧ろ下衆な召使いのようであった。
「……ったよ」
「だから、だから帰らないでください、追いていかないで……」
「分かったっての!」
思わず出た大きな声。身体を震わせたのと同時に腕を掴んでくる力が緩み、その隙に振りほどく。
掴まれていた部分はべっとりと手汗で湿っており、夏服の薄布から見える私の肌は真っ赤に染まっていた。マーキング。そんな言葉が頭を過ぎる。
「分かったから……落ち着けよ……」
月宮から離れ、ソファに深く腰をかけ、手の甲で顔を覆う。崩れ落ちると言った方が近いかもしれない。
「……あ、……ごめん、なさい」
ようやく自分が何をしていたのか気が付いたのか、月宮は私に近づこうとせず、俯いたまま謝罪の言葉を発する。
「……」
私に向けた謝罪なのだろうが、顔を見ず、そこから動きもせず、押し黙る月宮の姿。
それを見てふと、面白いことが思い浮かんだ。
私の腕が軋むような痛みを伴うまで握り、逃がさないほど私の嘘が着たいのならば、これくらいはさせても良いだろうと。
この約束を始めたのは私なのに、月宮をこうしたのは私なのに。
出てきた思い付きは余りにも自分勝手なものだった。
「帰ってもいいんだけど」
「………はい」
それから小さく息を吸って、言葉を続ける。
「今日から、私の書いてきた『王子様』は、まず私が手本を見せる」
「………………」
月宮が俯いた顔を上げ、ぽかんとした表情で私を見つめる。何を言っていいのか分からないという顔だ。
「そして、お前は今日から」
月宮が何かを言いたそうに口を動かすが、それを遮るように私は言い切った。
「私が書いてきた『王子様』、それを最初に受ける人間になれ」
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