第4話 『約束』

 ふと時計を見ると、短針は7の文字を回っていた。勿論朝の7時ではなく、夜の7時だ。きっちりと締まっている遮光カーテンを少し開くと、とっぷりと世界が夜の帳に落ちているわけでもなく、夏の日差しが未練がましく空へとしがみついている。


 今日最後のチャイムはとっくに鳴り終わっていて、それと同じように約束の時間もとっくに十数分過ぎている。学校の昇降口が閉まる時間まで1時間も無い、校門もその後で閉まるらしい。


 登校した日は校門が閉まる前に、もっと言えば授業終了のチャイムが鳴ると同時にホームルームも待たずに校門から学校を出る。どうしようもないほどに疲れている日は真っ直ぐ家に帰る日もあるか、図書館に行ったり、適当にぶらついて時間を潰したりと、そんな日がほとんどだった。


 逆に言えば、今日のように遅くまで学校に残っている日は校門が開いているかなど確認せず、裏口から出て行くことしかしない。なので、どんな時間に校門が閉まるのか、私は知る由もなかった。


 もう数時間粘れば警備の職員か見回りの教師か事務員が学校を歩き出すのかもしれない。一度もすれ違ったことはないが、一切の警備が存在しない女学園など不用心にも程があるので何かしらは見回りを行っているのだろう。

 監視カメラがあるかもしれない。正直どうでも良いが、わざわざ『明日の夜、お願いします』などとメッセージを送ってきた張本人が来ない限りは帰れないのもあり、毒にも薬にもならない学園事情に思考を回す羽目になっている。


 正直、さっさと出て行かないと面倒なことになるのが目に見えているので、段々とうんざりしてくる。教師や事務員、警備員だけじゃない、こんな時間まで学校に居るところを他の生徒にでも見られるリスクもある。生徒が居て、教師が動いて、チャイムや声、日中は止めどなく音の流れ続ける学校の中で唯一安定した静寂を湛えている私の居場所なのに、日が暮れてくると牢獄に囚われているような感覚に陥るのが嫌だ。


 カーテンを閉め、ソファに深く腰掛ける。目を瞑って、静寂に身を任せる。外から聞こえていた部活動の音はもう鳴っていなくて、遠くで鳴っているサイレンの音がぼんやりと耳に届いてきた。


 救急車だろうか、パトカーだろうか、消防車なら良いな、と思った。家が焼けてしまっていれば良い。軽々しく、そして心の底からそう思った。あそこは私の居場所じゃなくて、あの人、母親は私の置き場所じゃない。そして、母親から見ても私は。


「ははっ」


 もしこのサイレンがあの人と同じ職場でも聞こえているとしたら、きっと同じことを思っているだろうな。サイレンの行く先は私の知らないところへと向かっていくのか、少しずつ遠ざかって行った。どうやら、家が燃えているわけではないらしい。そもそも、消防車なのか救急車なのか、その違いすらも分からなかった。


 そして、遠くなっていくサイレンとは真逆に、静かに、密やかに。それでも確実に近づいてくる足音が聞こえてくる。この学校に入って、約束を交わして、それ以来『約束』のたびに聞いている足音。最初はあいつのものじゃない、不良生徒を𠮟りつけにきた教師のものだと警戒した足音。

 コツコツでも、カツカツでもない。そろりそろりを下手くそにすればこう鳴るのかと思うような足音。擬音にするなら、『ヘタヘタ』とつけてやりたいほどに自信の無い足音。


 それが私の居場所……倉庫と化した教室の前で止まる。すぐには入ってこないのにも、もう慣れた。


 溜息を一つ吐き、ソファから立ち上がる。あいつのものとは違う私の足音、角の立ったコツコツという足音。全く違う音を立てながら、ドア一枚を隔ててあいつと私が向き合う。ドアの窓部分を隠している布のせいで姿は見えないが、緊張をほぐすために深呼吸しているのが聞こえた。


「さっさと入れよ」


 そいつにだけ聞こえるように、言葉を放つと、「ヒュッ」と恐らく口から漏れ出たであろう音がドアの向かい側から聞こえてきた。ドアを隔てた向かいに私がいることなど分かり切っているはずなのに、毎度の如く同じ反応が出来るのは最早才能の一つなのだろうなと、否が応にも思ってしまう。


 数秒間を置いてからゆっくりと開いた扉、その先にあるお世辞にも明るいとは言えない薄暗い廊下を背に、見えたドアの向こうにいる人間の姿。私よりずっと背が高い癖に、頭を垂れた稲穂のように前のめりになった背筋。顔を見られないため、夏なのにも拘らず頭全体を覆い隠し、腕までもすっぽりと包み込んでいる厚手のパーカー。   私だけに見えている顔は整いこそしているものの、変装のつもりなのか、果たして視力がそれ程悪いのか『牛乳瓶の蓋』としか表せない分厚いレンズと、薄暗い雰囲気を更に強く感じさせる黒くて太いフレーム。

 その奥にある目はいつもよりも大きく見え、そのアンバランスさが普段の『美しさ』だの、『格好良さ』だの、そういったものを全て台無しにしている気がする。最も、見ているだけでイラつくおどおどとした所作が台無しの大元なのだが。


 そう。


 学園の王子様、黄色い歓声に囲まれ、女子たちに囲まれ、背筋を伸ばし、堂々たる表情を浮かべるアイツ。


 ————王子様を脱ぎ棄てた月宮照が、そこに立っていた。

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