第3話 不愉快な王子様
教材を小脇に抱え、倉庫を出る。学校の奥側にあるということもあり、周囲には誰もいない。それなのに声は聞こえてくるのだから不思議なものだ。
二階にある美術室へ向かうため、無駄に明るい階段を上がる。遠くにあるもう一つの階段から聞こえてくる他生徒の声と私の足音がちょうど良い音量で混ざる。好きな時間というものが少ない学校という空間、その中でも静かな階段は私が好きな場所の一つだ。授業にさえ間に合えば出席した実績は貰えるので、二階より上の教室で行う授業では敢えて誰もいない時間に階段を上がったりする。
この授業が終われば、次は自クラスの授業だったはず。その授業には出なくても良いから、久々に意味のない階段の昇り降りでもしようかと考えていると、踊り場に知った顔がいることに気が付く。
「やあ」
私を見下ろすように爽やかな笑顔を向ける月宮が、何故かそこに居た。
ので、当然のように挨拶も返さず隣を通り過ぎる。顔も合わせたくないし、見たくもないので俯きながら。
そして案の定、腕を掴まれる。
「キミのその態度、流石に慣れてきたよ」
睨みつける私に対して一つウインク。我ながら気色悪いな、と思った。
「なに」
ついさっきの授業が行われていたのは自教室だったはず。私と月宮は同じクラスだから分かる。だからこそ、月宮がここに居るということは———。
「わざわざ私のことでも迎えに来たっての?優等生の王子様が」
遠い教室から回り道をして、周囲にいつもいる他の生徒も撒いて、わざわざ私が上るであろう階段の踊り場で待ち構えていたことになる。
「そうだと言ったら?」
「気持ち悪い、二度とすんな」
「同じクラスの子と同じ教室へ向かう、不思議なことなんて何も無いさ」
さっさと腕を払おうとする私を見つめてくる涼し気な目元が、夏の暑さを一瞬忘れさせる。忘れ「させられる」、きっと普通の生徒ならばときめいているだろう。顔の赤さ、体温の一度、心音の一音、全て上がり、大きくなり、恋の一つでもしてしまうのかもしれない。
ただ。
「気持ち悪いつってんだろ」
その内の一つすら私の中に芽生えることはない。つまり、さっさと月宮から離れて教室へと移動したいという感情しか芽生えない。
「…………それはキミが」
月宮が何かを言いかけようとした瞬間、階下から他生徒の黄色い声が聞こえてくる。
「月宮さま、こんなところに!」
「つ、つ、つ、次の教室!私たちと一緒に……」
月宮の周りにいた生徒の内の一人だろうか。踊り場のくだり階段側に居た月宮の姿は見えているようだが、のぼり階段側にいた私の姿は見えていないらしい。それでも、月宮が誰かに腕を伸ばしているのは見えてしまっている。
「つ、月宮さま!?一体どなたの手を」
こつ。階下にいた生徒が一段階段を上がってくる音と同時に、私は無理矢理月宮の腕を振り払う。先程まで掴んでいた手の力が嘘のようにするりと抜けた腕、爽やかな目元と表情からは考えられないほどぬるりとした気持ち悪い脂汗が、月宮に掴まれていた箇所を熱くさせる。
振り返らず一気に階段を駆け上がり、美術室へ行く途中にあるトイレへ入る。一気に動いたからか、心臓が激しく脈打ち、浅い呼吸を何度も繰り返す。幸いまだ授業までは数分ある、今すぐ美術室へ駆け込んだら、月宮が腕を掴んでいた人物の招待が私だとバレるに違いない。
「……あそこでやんなよ。クソッ……」
月宮に掴まれた腕を見る。幸い、あれだけの力で掴まれていたにも関わらず痕は残っていなかった。それと同時に、掴まれている場所が妙に熱く感じるのが嫌でたまらなくなる。トイレットペーパーを何重にも手繰り、月宮に掴まれていたところをゴシゴシと擦る。
それを繰り返している内に、呼吸と心拍が落ち着いてくる。外から声も音も聞こえないのを確認し、個室から出る。お世辞にも綺麗とは言えないトイレの中で深呼吸する気も起きず、近くにあった小窓を開き、そこから入ってくる空気を頼りに何度か呼吸をした。
先ほどまでの焦りが嘘のように静まり返ると同時に、月宮に対する怒りが湧いてくる。あんな時に、あんな場所で、あれをするなんて、しかも他の誰でもない、「不良生徒」の私にだ。月宮がどう思っているか、どう考えているのかは分からないが、それは私の望みではない。小窓を閉め、小さく呟く。
「ふざけやがって……」
一度口に出した苛立ちは、抑えの効かない溶岩のように溢れ出す。
「ざけやがって……ふざけやがって、ふざけやがって!!」
勢いよくトイレの壁を蹴る。何処にも響かない私の声が、壁や床、排水口の一つ一つに全て吸われていく。勿論そこに怒りを吐き出すことによるカタルシスなどあるわけもない。もう一度小窓を開き、次は空気の澱みなど関係なく深く空気を吸う。頭に酸素を回して、頭を冷やす。怒りは消えるものではない、水面下にずぷりと沈めて、そのまま自沈していくのを待つものだ。少なくとも、私の怒りに対する向き合い方はそれが全てだった。どこかで溢れ出すグラスに幾つもの怒りを入れ、いつか溢れる瞬間まで耐え忍ぶもの。それか、先にグラスが割れてしまうか、そんなもの。
しっかりと手を洗い、トイレから出る。幸いまだ授業開始のチャイムは鳴っておらず、私以外の誰も周りにはいなかった。もう一度深く呼吸をする。水面下に落とした怒りは、思った通りゆっくりと自沈していき、水面上に顔を出すことはなかった。
そのまま美術室へと向かい、教室の扉を開く。それと同時に授業の開始を報せるチャイムが学園中に鳴り響く。担当の教員よりも後に入ってきた私にクラスにいる過半数以上の視線が注がれる。私はその視線の中に月宮のものが無いかを探すが、月宮は穏やかな笑みを湛えたまま、真っすぐに美術室の正面を見据えていた。
まるで今入ってきた「私」を認識していないように。
それでいい。
そのまま決められた席へと腰をかけ、教材を広げる。そして私はこれから続く数十分の退屈な時間への体感時間を少しでも縮めるため、教師の言葉や開いた教科書に浮かんだ文字を細かく砕き、脳に霞をかける。月宮が私を見ていないのと同じく、私も月宮を見ないため、意識しないための自己防衛に近い行動だった。
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